ランブル手法─前後何の脈絡も無いが、価値が高い文章を綴り、読者を飽きさせない手法。
農地・畜産をビルにし、食料をもっと大量生産するということが考えられる。
核爆発を推進力としたロケット。
現状では価値ある執筆が人気がなく、金が稼げないといったところである。それは人気がある著述が売れ、価値が高い著述が売れないからである。私は私の家族のことを書きたいが、家族の一人にそれをしないように言われた。
交通事故を無くすには、自動車・鉄道・飛行機がなくなるべきである。そして村単位で勤め先があって全ての商店がそろっているべきである。人々は自転車で移動すべきである。しかし必需の輸入品があって、それぞれの工場に原材料や部品を届け、それぞれの地域に商品を届けなければならないためにそれは出来ない。世の中にはいらぬ商売が多い、いらぬ商売はなくなるべきである、いらぬ商売を少なくして人々が賄われるためにはどうすればいいのであろうか?まずは大企業の寡占状態をなくし、競争原理を徹底すれば激安が実現し、ある程度の搾取が撤廃される。そこで物価は安くなる。要らぬ商品を売っている会社は皆生きて行くのに必要な商品を作り、サービスをもたらす会社に鞍替えし、それらを激安で売り、搾取を軽減させれば良い、という案がまずは考えられる。しかしそこで問題となることが購買者のブランド志向である。そして需要というものは限られているから、全ての会社が必需品を売る会社となったとしても、それでどの企業も商品を売って、十分な儲けは達成できないかもしれない。だから今のところは要らぬ商品を売っている会社はそのままそれを続行させるべきであろう。
商品至上主義から脱却する方法はないか?究極の方法として考えられるのは、ほとんどの人々がこのまま生きていても大していいことはないから、嫌々ながらの仕事がしたくない人間は安楽死できるようになるべきである、ということが考えられる。しかしそれは自殺であって世の中的には評価されないことである。そしてせっかく人間という特別な命を与えられたのに、それに感謝の気持ちもなく、それをみすみす捨て去ることには問題がある。人間は他の生物とは違い特別な能力を持った生物である。しかし嫌々ながらの仕事を行わなければならない境遇である。それからどうやって解放されるかが現代社会のテーマである。その一つとしては、私が考えた、労働者とサラリーマンと資本家の犠牲のない「人類の労働からの解放」案がある。しかしそれは大枠だけが決まっていて、実現に向けては、さらにその問題点が研究され改善され、AIと産業用作業ロボットの更なる発展のために世界中の科学の叡智の集結が必要である。
大企業のホワイトカラーはなくなるべきである。学歴社会は打破されるべきである。元々先天的に頭の良い者も頭の悪い者も、勉強した時間の量によって、努力の量そのものによって学歴には関係なく評価されることが理想的なことである。そして現代の学歴のみでは人の評価は決められない、オリジナリティーが必要である。東大卒の官僚は頭はいいのだろうがオリジナリティーがない。オリジナリティーは歳を食うにつれて出てくる場合がある、それが大器晩成である。知能が高くADHDである人間がそのような人間である。しかしそれは極めてまれである。
弁護士の資格試験はもっと簡単になるべきではないか?そして弁護士がもっと増えて、裁判費用が安くなって、人々がもっと裁判できるようになるべきではないか?私は裁判を起こしたいことがある。それは今使っているNECのパソコンのACアダプターが元々壊れやすいようにできている件についてである。私は普通にパソコンを使っていたのに、ACアダプターの先端が折れて、パソコンの内部に詰まって取り出せないようになってしまい、それを直すのに9万円もかかった件についてである。勝訴となれば裁判費用と9万円を賠償されるならばそれでいいが。
ミッキーマウスよりもドラえもんの方が価値がある。一番価値が高い漫画は古谷三敏氏作のダメおやじである。
中古品では安く買って安く売るか、高く買って、高く売られるべきである。その中間が行われるべきことも考えられる。
アニメの顔が大きく目が大きいのが私には興味がない。だから私はアニメ自体に興味がない。そして売れる小説にも興味がない、それには人類を大きく改革する要素がない。多くの人々は売れる小説を共感で買う。私は大きく人類を改革することにしか興味がない。
テレビは価値が高い番組を作って放映すべきである。価値が高い番組としてあるのが「科学的大発見はどのようにして行われたか」である。そして労働者とサラリーマンと資本家の犠牲のない人類の労働からの解放をテーマとする番組である。
大企業の下請け制度はなくなるべきである。しかし大企業が取引のイニシャチブを持っているためにそれができない。それを解決するには?大企業の中に下請け制度は取らずに、自分達の社員が実際に働く会社が出て来てそれを安値で売る会社が出て来るべきである。そして請負い企業では、会社が安いマージンしか取らないことが考えられる。
私は若い頃俳優をやっていたが演技指導を受けたのは日テレのドラマで一度だけである。他の全ての映画・ドラマでは演技は私に任せられていた。映画・テレビドラマでは監督・ディレクターが高い評価を得るが、本来は脚本家が一番高く評価されるべきではないか?
問屋は必要ない。しかしそれは不可能である。それを可能とするためには?製造業者が小売店に直接売る流通網を整備すべきである。そして安値で販売すべきである。
新しい産業として考えられるのは発展したAIと発展した産業用作業ロボットである。
第一志望で料理人になりたいと思う人間の気持ちが私には分からない。
がん治療が無理ならば、安楽死が合法となるべきである。
私は連想記憶術で英単語を覚えたが、よく早稲田に合格できたなあと今思う。
車で買いたいのはライトエースかハイエースだ。しかし鉄道があるのだから運送業者以外は車は実は必要ない。しかし東京の満員電車の混雑状況は限界を超えている。どうやって満員電車では運べない人間が出ない状況がもたらされているのか?
ヨーロッパでは社会主義政党が第一党となることはあるが、日本ではそれはない。それは日本では左翼が韓流反日であるからである。日本にもたらされるべき社会主義政党は、韓流反日要素がない、労働者とサラリーマンと資本家の犠牲のない「人類の労働からの解放党」である。
飲料の自販機で当たりがあるくらいならば、その分安く売ってもらいたい。
大手都銀が金利を付けて貸し出しを行うならば、日本国家が無金利銀行を作ってもらいたい。大体において各商売が金が必要なのは何故か?
民放にはCMがなくなるのであれば、全放送局で合計3,000円は支払っていい。しかし今よりも意義深い番組を作ってもらいたい。
サバイバルゲームはプロスポーツとなるべきである。戦争で戦車の意義が分からない、だから戦争において戦車が消えた。二度あることは三度ある、という日本のことわざからすると、第二次世界大戦があったのだから、第三次世界大戦はある。
日本のデモが力が弱いのは、日本人が銃器を持っていないからだ。一方でアメリカのデモクラシーに力があるのは、一般市民が自由に銃器を購入できるからだ。アメリカ政府はデモを受け入れなければ一般民衆との白兵戦になるのでは、と恐れデモを重視する。
英国のウイリアム王子は軍隊に入っていたのを止め民間のヘリコプター会社に転職した。ウイリアム王子は素晴らしい!
日本は自衛隊になった。しかし日本が中国から守られているのは米軍が駐留するからである。
愛国とは軽率な呼び名だ。そして国には沢山改善すべきことがある。まずは省庁が国家から沢山予算を持ってくれば出世する、という慣習はなくなるべきである。
世の多くの軍隊は、軍備を縮小し、自衛隊だけになるべきである、そして最終的には軍備が0になるべきである。そのためには?正論が評価されるようになるべきである。国際世論の正論?今のところは先進国の考えが国際社会の正論である。発展途上国・後進国の意見も取り入れた考えが正論となることが考えられる。
核は廃絶されるべきである。そのためには核保有国が同時に少しずつ核廃絶を行っていくべきである。
贈与税は多くなるべきである、累進性で。
ネットで株式会社運営ができるようになるべきである。
直接民主主義を可能とするネット議会ができるべきである。そしてそこで決められたことが国会に代わり国で運用されるべきである。そのためには?そのシステムが構築され、それを人々が使い、そこで現代行われている政治よりも良い意見が作られ、それが国会に取って変わられるように民意が反映され、それを推し進める党が出て来て、それが民意を得て、そこが与党となり、それを実現することが考えられる。
なぜ織田信長の子孫に信長の権力が譲渡されずに秀吉に譲渡されたのか?
共産党は天皇を処刑するのか?共産党は象徴天皇制を肯定すべきである。
マルクス共産主義で受け入れられないのは暴力革命であり、唯物論であり、労働者が資本家の地位を奪取すべきである、ということである。革命にはかなりの犠牲が伴われる。
欧米の科学万能主義は世の中を便利にしたが、言葉をなんでもYESとNOで括る癖として、それは裏目に出た。天皇は国の象徴として必要だが、ある程度の社会主義も必要だ。それがWIN-WINである、WIN-WINとは、ある概念を対立概念とで、対とする人間の癖を超えることである。日本の自民党と野党はそれをやっていない。まずは野党は与党のスキャンダルを突くことばかりを考えずに、公約で世の中を大改革に導くことを決め、それを発表しなければならない。例えばニートの問題をどうするか、とか。
人々はCMを見て商品を買いたいと思うらしい。しかし今の私はCMを見て商品を買いたいと思うことがない。しかし私は一度だけ人生でCMを見て高額な商品を買ってしまった。それはパソコンである。タモリがCMをやっているのを見て富士通のFM-7を買ってしまった。FM-7は機械語の一つが他のパソコンと違いなく、ゼビウスのようなスクロールシューティングゲームが出来なかった。それはFM-7が他のNECのPC-8800やSHARPのX-1のような商品よりも劣っているということであった。その買い物は失敗だった。
多くのCMが軽薄である、そこで消費者は軽薄に商品を買うということが言える。しかし高額な商品は軽薄なCMではない、ということはある。
天皇陛下は自由な時間があるのか?天皇陛下はあんなに沢山の国事行為などはなくなって、もっと好きなことができるようになるべきではないか?
私の友達がTBSに就職した。営業ということだ。何の仕事をやっているのか?そこで「ノンフィクション小説:大企業」は必要である。
私が左翼であるのは、私には労働仕事しか無いからである、私をひっくるめて労働者全員が幸せになりたいと思ったからである、そこで『自動ハンドシステム』というものを発明したが、今の人間の技術力では当分の間は実現不可能であろう。しかし近い将来にはそれは実現可能である。世界中の科学の叡智の集結と建設的議論により。
大手ビール会社のビールが売れるのが消費者が大きなビール会社のビールを飲みたいと思うからである。それは無駄である。地ビールの会社は安い値段でビールを売れば売れるのではないか?
ホワイト・カラーが極力少なく、ブルーカラーがほとんどの会社があってもいいのではないか?そこでおこなわれるべきことは、安く売って社員の給料を今まで通りとするか、今まで通りの値段で売って、社員の給料を上げるかであるが、その中間を行う、ということもある。
大企業の社長のやってきた仕事の小説は売れるだろう。そして会社の全体像を表現する大絵巻物が出来て、それで会社が儲けるようになればいいのではないか?それを各大企業が出版すればいいのではないか?そして全ての日本人の日記が公開されれば、民主主義が深く発展する。
自動車会社のホワイト・カラーは何の仕事をしているんだ?営業トークで忠実になればなるほど、「何処も一緒」ということになると思うが。
六つ言えることがあると思う、好きこそものの上手なれ、と継続は力なり、男はリスクをかけて一生を賭けるべきだということ、ネバーギブアップ、適宜な批判は受け入れるということ、勤勉。
私は女性についてはかなり要領が悪かった。サークルの新歓コンパに来た美人と話をせず、自分に好意を持っている東大のサークルのイケ女に手を出さず、後輩が薦める美人に振り向かず、スキー場ですごい美人に付き合ってと言われても付き合わなかった。私に結婚の機会が訪れなかったのは私が大企業に就職できなかったからである。
私の兄は芸能人なのだが、私のそばに父親がいなく、父親面して私にろくなことを言わなかった。「だれのおかげで飯食ってると思ってるんだ」、「ナンパでもして来い!」
私は母親に特大の親孝行をしなければならないがそれができないでいる。私に親孝行をさせることをこの日本社会は許さない。それならば私がなんとかしなければ。そのために執筆しているのだが、それを取り扱う業者が皆無である。日本でソープランドは明らかに売春行為であるのにそれが違法とならないのは何故か?そしてエロ産業は風俗以外エロビデオ・ソープランドなど全て絶滅してしまえ!
なぜ、織田家の跡目相続が行われなかったのかが不思議だ、猿が奪ったのではないか?あの誇大妄想狂の猿が!刀狩が行われたので日本社会はお上により従順になった。猿のせいだ!
江戸時代建築資材の木材はどうやって運んだのか?
柴田勝家は本能寺の変で地理的に近ければ、明智光秀を追討しただろうか?秀吉には運がついていた。
まずは、明智光秀は、相手の軍勢の数を聞いて、戦いを諦めた、ということであるが、実際に戦ってみなければわからなかったであろうに、と私等は思う。
日本は2000年ぐらいの間統一国家であった、と言うが、細かくみれば、決してそういうことでは無い。まずは天皇が、しっかりと国を治めなかったから、群雄が割拠した、しかし日本人が歴史上一度も天皇陛下に手を出さなかったことには価値はあるであろう。中国では九族皆殺しだ、はっきり言ってそれは価値が低いであろう。
ギリシャ文明は有名であるが、多くの奴隷がいた。
東京に江戸っ子は少ない。
私は三代続けて江戸っ子だが、江戸っ子っぽいところはあるかと思う。気さくさ、てやんでえ精神。
うちの父親は何をやって食いつないだのであろうか?うちの父親は自営業をやっていたがどれもうまくいかずに仕事を止めた。
私はADHDであった。そこで道端の糞を6回も踏みつけて、糞六とあだ名をつけられそうにさせられた。
私は事務能力が低い、ITの派遣会社で、勤務表を提出することになっていたが、わたしはいつもそれを間違い、一枚に2・3箇所間違えて判子を押していた。
私は大企業に就職できなかったが、仕事しててもやめてリスクを背負って著述業に進んだと思う。
1998年、私は満員電車の中でいつも吼えていた、群集に吼えていた、そこで「ふざけんな!」みたいな奴とにらみ合いになって、6つぐらいの駅をそいつと睨みながら過ごしたことがある。
私は司馬遼太郎の小説が好きであったが、司馬氏の説では、徳川家は、家系は作り物だと言っていたから、その説が正しければ、私は天皇の血がまるで入っていないこととなる。
日本維新の会というものがあるが、維新では厳密に言えば良かったことと悪かったことがあった、全体的には幸せの方が多かったとは思うが。であるからして、日本維新の会という名称はまっとうには受け入れられない。維新でなく、もっと未来的な具体策を提案してほしい。
歴史の不思議であるが、織田家は鉄砲隊を使って、武田一族を滅ぼしたが、その後の関が原の戦い、大阪冬の陣夏の陣では、鉄砲隊が活躍していない。武士全体が、強かった武田軍がいなくなったことで武士全体が一種の虚しさを覚えたのではないか?徳川家は武田軍のもろパクリである。
インド人は植物食を行っている人が多いそうであるが、大体植物を食べるだけで、それは血肉となるのか?血肉となるらしい。私は動物の命の犠牲のないクリーンミートが食べたい。
過去の哲学書は全てそうとは言い切れない、と部分否定することが可能である。
哲学として考えられることは、「我思う、故に我あり、しかし眺めるところ、我と同じように意識・意志を持つ人間が沢山存在することが見受けられる、そして人々の行動・発言に一定に法則を見出すことができる、そこで我と同じように人々が尊重すべき意識・意志を持って存在することが妥当である。これは民主主義の根幹をなす考えである」である。
国語の能力は1年ぐらいの勉強では上がらない、読解力の多くは人間の先天性に左右される。そして日本の国語教科書では興味深い文章が採用されていない。私は日本の国語の教科書にニーチェが採用されるべきである、と思う。
早稲田は国語能力偏重主義である。早稲田の現代文は東大の現代文よりも難しい。
早稲田入学を目指す人間は東大を目指す人間よりも、教科が少ない方を選んだ、ということで要領が良い。その点で言えば早稲田よりも慶応を選ぶ人間の方が要領が良い。しかし小論文では、レベルの高い著述・独自の著述を行っても、それは採点されない。
私は小学3年生のときに詩の宿題が毎日あり、それをやっていつも担任の先生に褒められていた。私の詩は素朴で、純粋で、無邪気で、その点で評価された。そこにおいては独創的で難解なものは作ってはいない。それで私は著述業を目指したのであるが、それは失敗であった可能性が高い。私は独自の個性を持ち、若い頃はそれが魅力であったのであるが、それが評価され、仕事となるものが世の中には存在しない。ほとんどの就職では独自の個性とは捨て去らなければならないものである。私はそれを活かせる職業として著述を選んだが、私には難しいことを著述する能力は存在しなかった。ただ独創的なことは表現しているが、なにせ人気がない。
私は小学5・6年の頃は反逆児であった。クラスの悪そうな人間を仲間にして「神風」という5人グループを結成した。しかしその5人グループは私以外の2人のペアが2組でき、私が孤立して、私が変わり者であったために、いじめられることとなってしまった。しかしそのいじめは暴力によって解決した。私はいじめから解放され、クラス中の友達と仲良くなった。「神風」では、ある一人の人間が、一人よがりなことをしていた。そこでその人間を無視することを私が支持したら、そのようになった。それを私は「明治維新」と呼んだ。そのときにその人間とペアで仲間であった者も無視に加わった。それは裏切りととらえられ、その人間は思い切り殴られていたが無視は成功した。そこで私はそのクラスの実質的な最高権力者となった。そして私はその無視された独りよがりの人間に、かつて構内で生意気そうな人間と喧嘩しろ、と言われ喧嘩したから、クラスの皆は私を畏れ私は敬称付きあだ名で呼ばれることとなった。
私が小学生の頃には母が父と別居し、母の仕事の関係で、下石神井の母方の祖母の家に預けられた、小学3年の頃には練馬区の下石神井から港区の青山まで越境通学していたが、小学4年のときに練馬区の下石神井小学校に転向した。私の母は祖母の家に住みたかったが祖母から拒絶された。祖母の家は練馬区の杉並区と隣接した地域にあって、母は杉並区にマンションを借りてそこに住むようになった。私はその杉並区のマンションから小学校に通うことになった。私は中学はそれで杉並区の中学校に進学することになった。私の小学校出身者は私一人きりで私は孤独であった。私は変わり者ということもあり、孤独である、ということもあって、中学では低く扱われがちであった。私は今思うに暴力の一つでも振るっておけば良かったと後悔している。私はその中学で見た目がすこぶる美人の女性に一目ぼれした。可愛すぎてその子にしゃべりかけることさえできなかった。それは愛というやつであったかもしれない。私は元気な少年で変わり者で、エロキャラを全開し、クラスで目立っていた。私は無邪気で活発であったから、私のことはその女子は気にかけていたみたいだった。遠足の写真では私のすぐ後ろにその子が写っていた。当時あみんの「待つわ」という曲が流行っていた。私は「待つわ」を口ずさんだ、するとその子が「その曲いいよね」と言って私に話しかけてきた。私はその子をプライドから無視してしまった。仲良くしておけば良かったと今では後悔している。私は本命だと、プレッシャーから口も聞けない気の弱い人間であった。そして中学の頃には大して好きでもない、星という女の、「気をつけ!礼!」という声が変だったのでそれをまねて、言って遊んでいて、担任教師の宮越にポカポカ殴られた、そこで、それを同級生に面白がって冷やかされた。
中学の頃は私は私の父と同じ大学に行くために勉強しなければならなかったから、多くのつっぱりと付き合うことができなかった。しかし要領よくつっぱりと付き合って、勉強もすれば良かった、と今となっては後悔している。つっぱりは皆そんなに大したところに就職できなかった。つっぱりは人間的に魅力的であるからそれらは活かされる仕事が与えられるべきである。そして大学生になって、私は今更暴力もないだろうと暴力を否定していたが、私を舐めた奴が存在した。私はそいつには脅しの一つでも行っておけば良かった、と後悔している。
練馬区の下石神井小学校での武勇は杉並区の井草中学には伝わらなかったから、私は井草中では舐められることが多かった。私は元来気が小さいが大きいことを考える。井草中では勉強がマストであったから、単純思考でつっぱりと付き合わなかった。横浜銀蠅のインパクトに恐怖する面もあった。しかし私には勇気と正義がある。単純思考をとっぱらい、もう少し勇気を持って、つっぱりと付き合うが勉強もすればよかった。しかしつっぱりは世に出ると誰もが行き場を失う。つっぱりの唯一の楽しみは中学時代の同窓会、ということとなる。そして中学の頃にはクラスの分け隔てを超えて、魅力的な人間と付き合いたがっていた人間がいた。その人間がその中学の実質的番であったのだが、私はその人間からアプローチされたのだが、それを短絡思考と気の弱さから断ってしまった。中学時代は彼とは敵対することとなった。私はもったいないことをしたと今後悔している。
中学の頃は、色々不遇であった。小山は不良気質であったが、私が面白路線であって、学校で人気の無い塩野先生を持ち上げた“塩ちゃん漫画”を書いて、その先生の人気を上げたりした、そこで小山と塩ちゃんの家に遊びに行ったりした。
大体、生まれながらの不良気質というものは、子供でも、一目見ただけで一発でわかるものだ。私は思うがままに話を展開する彼を、そんなことしてる場合じゃねーんだ、と避けた。それもこれも、中学時代に勉強しなければならなかったからだ!
中学時代はオフコースのサヨナラをどっかで歌った覚えがある。私は世の中を素晴らしいと捉え、それを肯定することが正義である、と考えていた。しかしつっぱりは若い頃に既に世の理不尽を感じそれに敵対することが正義とした。私よりも彼らの方が賢かったと言えるであろう。大体皆がやりたい仕事ができない。その点で今の世の中は発展途上と言える。まずは皆が好きな仕事が出来るようになって食えるようになることが、人類が目指すべきことの一つである。
私は気が弱いが、頭が良く、正義感に満ち溢れ、創造的である、そしてここぞのときには勇気があり、無邪気で面白く、繊細さと図太さの両面を持ち合わせていて、私の中学時代のつっぱり代表よりかは価値が高いと私は思う。日本では価値が高い者に順当に職業が与えられない。その元凶が高学歴社会と商売至上主義によるものである。私は世の中をよりよくすることを言っている。
不良は世の中の多くの人間に迷惑をかけているならば、良いものではないが、気の合う仲間同士で楽しくやっているぐらいならば害がない。しかし世の中の現状に背を向けて、にもかかわらずに解決策を導き出せないことで、あまり良いものとは言えない。
日本の歌謡曲も魅力的だが、欧米のPOPSには負ける。私は中学2年の頃から洋楽に夢中だった。
小学5年の頃はベストテンを録音していた。今の世の中ベストテン・トップテンに並ぶ歌番組はない。音楽自体がメロディーライン・コード進行が全て出尽くしてしまって魅力的な歌が存在しないのが現状である。
私はピンクレディーよりもキャンディーズの方が好きだった。伊藤蘭が一番可愛かった。今の芸能界AKBだのジャニーズだのモーニング娘。など顔が私の超絶好みの人間はいない。
私の青春時代が世界中の文化の絶頂期であった。携帯電話とインターネットはなかったが。ネット時代に新しく導入されるべきものとしてあるのが「直接民主主義を可能とするネット議会」である。
私が史上一番好きな曲がTASHAのMY TURNである。他にもPAUL LEKAKIS のBOOM BOOMが好きだ。
中華人民共和国は表向きは共産主義だが実質的には資本主義と変わらない。中国で取り入れてもらいたいのが私の、労働者とサラリーマンと資本家の犠牲のない「人類の労働からの解放」である。
労働者とサラリーマンと資本家の犠牲のない「人類の労働からの解放」とは、設備投資の権利を従業員に与え、経営者は従業員を解雇することを禁止し、今まで通り新規雇用も行わなければならない、人類の労働からの解放法案を成立させることによって可能となる。
明治時代は民主主義が発達していずに、社会を変革するためにはクーデターを実行するしかなかった。しかし現代は民主主義の世の中である。民意が反映されれば、実質的革命は実現可能である。
日韓併合で日本がすべきことは、まずは国号を「日本=韓国」とすることだった。
私は左翼が作った歴史教科書で歴史を習った。そこで言えることは右翼も歴史教科書を作ったらどうだ?ということだ。多くの子供達は左翼の作った歴史教科書を選ぶであろう。四民平等と言うが実際は華族・士族・平民に分かれていた。
日本人は同国人から出てくる価値ある人間を軽視し、欧米追従を続ける。私の主張する「労働者とサラリーマンと資本家の犠牲のない人類の労働からの解放」は私の死後に世に受け入れられるであろう。そのためにはAI・産業用作業ロボットが発展しなければならない。そのためには世界中の科学の叡智の集結が必要である。
そろそろ人類が卒業してもらいたいのが、言葉をYES・NOで括ってそのどちらが正しいか?などの思考の癖である。現実の事象は、ある程度Aでありある程度非Aである、ということが多く見受けられる。YES・NOの記号で処理することは、人間の思考の癖である。
Aはある程度正しくある程度間違っている。Bはある程度正しくある程度間違っている。これが人間同士が行っていること、双方が討論していることについての一歩踏み込んだ考察の結果である。
私は実はブッダの行ったことの何が素晴らしいかが分からない。肉食禁止と言ったのは知っているがそれ以外素晴らしいことは分からない。この世を無常だとしたことも知っている。この世を無常とすることの何が素晴らしいのかが分からない。
地方出身者と東京出身者の実力は一緒。いや違うという人がいればそれを見せてもらいたい。私は正確に言えば分からない、というところである。
私は若い頃は別として最近ほぼ35年間ぐらいCMを見て商品を買いたいと思ったことがない。CMの多くが軽薄である。それで人々は購買意欲をそそられる、ということが理解できない。私は将来はホワイトカラーがほとんど存在せず、ブルーカラーがほとんどの会社を設立しようと思う、そしてCMを大々的に流す。
芸能人は、顔が良く頭が良い人間になってもらいたい。私は顔が良く頭が良く背が高く江戸っ子の芸能事務所の構想がある。
ファンは軽い。世の中にはもっと顔が良く頭が良い人間がゴロゴロいる。しかしそれらの人間に多く出会う場がない。そこで顔が良く頭が良い人間が多くの人々と出会える場が必要である。しかしそうとは言えない。頭が良く顔が良い人間は大企業でそれぞれ出会いの場を多く持っている。そこで言えることはそれらの人間がmixiやブログなどをやって、多くの人々の意見を聞くことである。
現代の子供達に意義深い者はほとんどいない。私が子供の頃は超絶かわいかった。
私は魅力があり価値が高かったが私を受け入れる職業は一つも存在しなかった。
私はかなり知能が高かった。
慶応大学は教科が2教科だけ、ということで3教科の早稲田に劣る。
私は私に分相応な結婚相手を見つけ出すことができなかった。私は結婚して子供を持ちたいと思ったことがない。生まれてきた以上は史上最高にスゲーことをやってやるゾ!と人生を生き抜いた。そこで力を入れたことが、世を大改革する執筆であった。それは労働者とサラリーマンと資本家の犠牲のない「人類の労働からの解放」だった。
ジャニー北川の評価できないところは、半端な顔立ちの人間を採用し、とてつもなく良い顔で頭の良い人間を採用しなかった点である。
私は生命保険会社のホワイトカラーが何の仕事をしているのかが全く分からない。
AKBがあるならば、超絶美人で頭が良い人間の大勢いるグループがあってもらいたい。そしてその芸能人たちはmixiとかやって、一般人とも直接やりとりするようになってもらいたい。せめてブログをやってもらいたい。
NHKを見ない人間には受信料は払わなくてもいいようになってもらいたい。私はNHKに受信料を払わなくていいならば、NHKは見なくてもいい。
医者と料理人になりたいと思ったことはない、一度に大勢の人間に影響を与える職業ではないから。
私は中学生の頃に凄い奴が一人いたが、彼はボクシングのコーチにしかなれなかった。つまりは現代社会では価値が高い人間が就くべき職業がないのである。
人はプレハブの家で十分ではないか?高い金を払って家を建てる人間の気持ちが理解できない。
最近高学歴で美人の芸能人がいない、皆藤愛子並みに。
肌は若い頃に良ければその写真さえあればそれでいいじゃないか。
世界中で一番素晴らしい人々はアメリカ人である。
労働者の賃金と大企業のホワイトカラーの賃金が同じぐらいになってもらいたい。
私の父は早稲田学院からの早稲田で自慢話ばかりしていたから、私は早稲田を出れば何でもできると思っていた。
日本人で韓国人を差別する人間は沢山いるが、韓国人でましな人間もいる。
捏造の歴史教育を行っている韓国・北朝鮮国家は間違っている。
韓国の国家が反日を行っているのであり、一般の韓国人に罪はない。
競争原理に価値はある。競争原理が行きつくところまで行くと、いらぬ搾取はなくなる。しかし今は大企業の寡占の状況である、ベンチャー企業が立ち上がる余地はまだある。
常識は必要だが常識外で価値があることはある。
東京で満員電車で揺られ、通勤している人間の表情にはまるで価値がない。
多くのサラリーマンの仕事とは無駄ではないのか?
地方人と東京人に人間性において差異はない。
私が今使っているNECのパソコンはACアダプターがすぐに壊れるようにできている。
今の音楽に価値がないのはコード進行のバリエーションは全て出尽くしてしまったからだ。
江戸っ子には価値があると思うが、東京人で江戸っ子は少ない。しかし地方人との実力の差はない。
私は江戸っ子だが、実は江戸っ子にどう価値があるのかが分からない。江戸っ子が江戸っ子を誇ったことは、実は無価値であったのではないか?
ほとんどの宗教は死後の世界・神を見たことがない人間によって作られたフィクション小説である。
死ぬときに死の恐怖から逃れるために宗教は必要である。
多くの人間は幸せのように暮らしている。それはマスコミがそのように描くから、ということもある。私は幸せではない。まあましな方ではあるのかもしれないが。
私は私の執筆で報酬がもらいたい。私の書く著述は短文であって、世の中の多くの価値が高いとされる文章と比べるとその性質を帯びていないが、書いていることに価値はある。それには報酬が与えられるべきである。
ギリシャは奴隷制であって、その上で貴族が暇を持て余し高い文化を築き上げたというところがいただけない。しかし現代はほぼ全員が奴隷制である。
私は顔が良く背が高く江戸っ子で頭が良い家に生まれた。しかし私の顔は芸能人ができるほどにいいというわけではない。
私の母は凶暴な性質を持っている。しかし頭が良く美人である。そして私は母に大分恩義がある。しかし最近の母は私のことを悪く言ってばかりだから、以前のように好きではなくなった。
欧米人は黄色人差別を行っていた。しかし言えることは、欧米人に対して黄色人種は劣っているということである。これは一般的に日本人には受け入れられないであろうが事実である。まずはオリジナルに日本人が素晴らしいことを行ったことはほとんどない。素晴らしいことのほとんどは欧米人が行ったことであり、日本人はそれを真似ただけである。しかし欧米人でも悪いことはある。それは優れた武器を作り出し、資本主義社会で格差社会である、ということ。
マッカーサーは良いことと悪いことがあった。悪いことは東京裁判でA級戦犯を死刑にしたこと。良いことは日本を改革してくれたことである。
政治の中心にはろくな人間がいない、それは既存の資本主義を全く引き継ぎその悪い部分を改良しないからである。
芸能人はファンを多く獲得することが必要条件である。しかしそれは価値が高いことではなく、芸能人の傾向を作り出した当初から続いていることである。当初に作り出した芸能人の傾向がそれが最上のことではないのに、マスコミの機材の有用性に乗っかって、それが採用され現在まで続く。それは顔が良いだけで頭がよいわけではないということである。
日本人の多くは勤勉という性質を持つが、それは最高に素晴らしいことではない。私には勤勉の性質がなかった。それ以上に私は私の価値高いことを活かしたいという気持ちがあった。素晴らしいこととは労働者とサラリーマンと資本家の犠牲のない「人類の労働からの解放」である。
安倍はほとんど現状の資本主義を受け継いで、小さな改善だけをやって、世の中を大きく価値が高い方向に大改革しない、という点で価値がない。
日中では尖閣問題については一切触れないということが相応しいことであろう。田中角栄はアメリカに嵌められた。
田中角栄を裏切った自民党議員に価値はない。マスコミの力が負に働いたことの実例の一つである。
田中角栄と周恩来の堅い握手には価値がある。しかしそれを離れ現在の中国は反日である。
田中角栄は多くの素晴らしいことをやった。しかし日本列島改造論に従った政策では、東京と地方の格差は縮まらなかった。
吉田茂は軍部と対立していた。戦前から吉田茂に権力があったならば、アメリカとの無益な戦争はなかった。しかしアメリカは日本の中国からの撤退を求めていた。吉田茂はそれをどうやって解決するつもりだったのであろうか?
戦後の日本の首相は皆アメリカのイエスマンであった。しかしアメリカは日本に戦争で勝ったが、日本をましな方に扱ってくれたと私は思う。
欧米に習わなければよいものはあった、その一つが消費税であった。他にも近代軍制の導入や政商・財閥に多くの富をもたらせ、人々との格差が激しかったことなどがある。しかし近代科学の導入や、多くの産業を取り入れたことは良かったであろう、そこで言えることは、明治維新とは良かったか悪かったか、と言えば良かった、と言えることである。
日本人は気質としてJr.とかにもろに弱い。芸能人についてだが、渡辺謙の娘の杏という女性は大して魅力がない。明石家さんまと大竹しのぶの娘のIMARUも大して魅力がない。竹下登の孫のDAIGOも大して魅力がない。
中国のマルクス共産主義は実質的には資本主義である。そして民主主義の資本主義よりも悪いことが、独裁体制の資本主義ということである。
現代の議会制民主主義は間接民主主義であって、直接民主主義が実現されるべきである。直接民主主義は、「直接民主主義を可能とするネット議会」で可能となる。現代の政治では旧態依然であって、素晴らしい大改革が行われないのがネックである。
子供は無邪気である。しかし無邪気さには残酷さも含まれている。無邪気さの中の悪い部分は修正され立派な大人になってもらいたい。立派な大人とは社会に適合し、子供の無邪気さを捨てることではない。今の世の中では立派な大人である価値ある人間が評価されずに仕事がない。世の中の人々の多くが嫌々ながらの仕事を余儀なくされている。それは改善されるべきである。人間の価値が高いことが評価され、それに報酬が与えられるべきである。しかし現代日本人の多くが皆似たり寄ったりであり、それを当人が自覚し、そのほとんどの人々が好きでもない仕事を選び、それに埋没する。そしてそれが全てであるかのようになり、価値ある人間の職業がなく、価値ある人間の発言を誰も聞かない。
牛・豚・鶏・魚の肉を食べている者の動物愛護精神はおためごかしである。
人間本位主義がもっとましになるためには、人々は命の犠牲のないクリーンミートを食べるべきである。
私はギリシャ哲学のほとんどを部分否定可能である。そして哲学とは無駄な学問である。
人々はより平等になるべきである。平等は行き過ぎだから、素晴らしい人々に1000万円支払われ、普通の人々に400万円支払われる世の中になるべきである。そして人類は労働から解放され、人々は好きな仕事が出来るようになるべきである。
人間はなぜ頭脳が巨大化しなかったのだろうか?人類の進化において、人体の巨大化は進展の途上にある、ということは考えられる。
はっきり言えば、寿司屋の活け造りとかいうのは、魚がかわいそうだから止めてくれよ、と言いたい、味は変わらないんだから、せめて、魚を裁くときには魚を即死させてから裁いてくれ。
私は高い寿司屋に行く人間の気持が理解できない。廻り寿司で充分だろうが。
イスラム社会が、日本人の囲い漁を日本人の罪みたいな勢いで流している。しかし牛・豚を食べるよりも魚を食べるのは意識が小さいものを食べているのだから、罪は小さい。
競馬では、足の速い種馬だけに生殖させて、足の遅い馬は速攻で殺していると聞いている、なんと下劣なことか。いっそのこと競馬などなくなってしまえ!
一神教多神教で日本は多神教だから、寛大なように言われているが、日本の多神教は国内の神だけを奉り国外の神は否定しているから一概にそうとは言えない。そして日本人は信仰している宗教がなく、現実主義である。
オランダではパートに高い給料を支払っている、ということで価値がある。
中国・インド他発展途上国には私の労働者とサラリーマンと資本家の犠牲の少ない「人類の労働からの解放」を取り入れてもらいたい。
クリスマスを祝う日本人は軽薄だ。しかし日本人は欧米の科学・工業などは受け入れたが、キリスト教は受け入れなかった。
売れる著書が価値が高いわけではない。価値ある著述は人気がなく、売れない。
商店街は日本商店街連合というものを作って、多くの製品を買うようになり、買う値段を安くしてスーパーに対抗すべきである。
労働者とサラリーマンと資本家の犠牲のない「人類の労働からの解放」とは、設備投資の権利を従業員に与え、経営者は従業員を定年になるまで解雇することを禁止し、定年時には相応の退職金を支払い、今まで通り新規雇用も行わなければならない、人類の労働からの解放法案を成立させることによって可能となる。そのためにはAI・産業用作業ロボットが発展しなければならない。そのためには世界中の科学の叡智の集結が必要である。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
人類の労働からの解放党(正式名:労働者とサラリーマンと資本家の犠牲のない人類の労働からの解放党)主要政策
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人々が現代において行うべきことは、労働者とサラリーマンと資本家の犠牲のない「人類の労働からの解放」と、「自民党公約を一歩押し進める」ことである。これが革新と保守の両立である。
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AIと産業用作業ロボットの駆使による労働者とサラリーマンと資本家の犠牲のない人類の労働からの解放
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労働者・サラリーマンが産業用作業ロボットとAIを自分達を仕事から解放するために、自分達で購入できる権利を「人類の労働からの解放法案」の成立によって与える。
これによって経営者の設備投資によって、働く人々が仕事を産業用作業ロボット・AIによって奪われ、経営者だけが儲け人減らしが行われる好ましくない状況を解消することが可能となる。
労働者は自分の担当場所の産業用作業ロボットを購入し、それを駆使することによって、労働から解放され、勤め先から今まで通りの所得を得られなければならないように、また工場労働者は、空いた時間を使って、好きな場所で、他の好きな仕事が出来るように法律で定める。工場は今まで通り新規労働雇用見込み者も受け入れ雇い、会社が給料を与える法案を制定することが考えられる。
サラリーマンはサラリーマンでAIを共同出資で購入することは可能である。サラリーマンの仕事をAIがやり、サラリーマンも今まで通り雇用が維持されるが、場所も限定されず好きな仕事をできるようになり、しかしサラリーマンには、今までと同じ額の給料が分配され、会社は今まで通り新規雇用見込み者も受け入れ雇い、会社が給料を与える法案を制定することが考えられる。これらが「人類の労働からの解放法案」である。
それ以上に工場労働者が産業用作業ロボットを購入できるように、高額資産家・所得者への累進課税をある程度高め、その金を工場労働者の産業用作業ロボット購入のために分配する、ということは考えられる。そして多くの金を持つ資産家の贈与税を高め、その収益を労働者・サラリーマンの産業用作業ロボット・AIの購入費にあてる、というのも一つの手である。しかし通常はこれは行わないつもりである。
そして企業はニートも採用しなければならないことを法律で定める。
産業用作業用ロボットとAIによってはできないことは人工知能ロボットを使用する。
人々の住む家・ビルも設計を同じようにして、産業用作業ロボットで建てられるようにする。
道路工事も産業用作業ロボットで自動で作れるようにする。
これによっては、経営者は今までどおり金を儲け、労働者・サラリーマンが労働を軽減させ、人類を労働から解放することが可能となる。
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他の政策
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直接民主主義を可能とするネット議会。
世界中の軍隊は全て専守防衛の自衛隊となるべきである。
核軍縮は世界中の核保有国が同時に核削減を行っていくことが最も理想的なことである。
今までの経済・産業は維持され、発展して行くべきである。
歳出削減による消費税撤廃。
行政のガラス張り化は必要である、しかし予算がかかり過ぎるという問題もある。
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これらの政策の実現のためには、世界中の科学の叡智の集結と、欠点を指摘しそれを解決する議論と、実現に向けての具体化の議論が必要です。皆様のご協力お願い致します。