三上祐一が2015.11.25~11.27に考えたこと | 三上祐一のブログ

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 独自の日本大改革案を掲げる三上祐一のブログです。 なお私はこのブログの著作の一部がウィキペディアの「三上祐一」の項に投稿されることを認める。 http://yuusukeueno.blog40.fc2.com/

 直接民主制
 考えられる直接民主制とは
全国民が意見が言えて、その意見に順位付けがなされるシステムによってなされることが考えられる。意見
 そのシステムを

 「それではいったい、何のために金や銀をいっしょに使わなければならないときに、正義の人はほかの人々よりも有用なのだろうか?」
「最大幸福のために。」

 「全ての最大幸福のために、とすると、全てとは非存在も含めるのかどうかで意味が変わって来る」

 有限が無限を作り出す可能性はある。

 人が想像することは必ず実現できる、可能性はまあある。

 「人間中心主義の現代では、最大幸福とは、人間のと自動的になるだろう」

 生きている、ということは、主観的でありある程度客観的である、ということである。

 人間とは本質的にはエゴイストである。

 人間が人間の幸せを優先するのは自分は人間であり、人間である自分が得するから、ということがまずあるであろう。

 人々は進化を語るが、現実的には進化しつつ退化している。

 人間は生き物の肉を好きなだけ食っていいことにしている。牛・豚・鶏・魚と。

 人間は化学合成で肉を作ればいいのではないか?やれるのにやらない。

 そういう私は肉を食う量を少しぐらいは減らしたい、と思っているが、まず出来ない。

 そこで言えることは、私は肉を食う量を減らしたい、と上辺ではまあ言っているが、本気では無く軽薄である、ということである。

 悲しいかな私もエゴイストなのである!

 ポール・マッカートニーも肉食う量減らすべきと言っていた。

 人間とはまずは自分のためにが基本であって、その次に大事なのが血が繋がった家族である。これは人の自然な気持ちであろう。

 そこで言えることは、肉親に育てられた私は過去は十分に幸せであった、ということである。

 私は少しぐらいは幸せで、希望が無い。

 人間は全てを受け入れられない。

 私は最低限の経験はした、そこで言えることは、私のエゴイスト度はまあましな方である、ということである。

 しかし地方の状況はよく知らない、という現実はある。

 私は人間を深く知るために大企業に就職したかった、しかしそれは無理であった。

 しかしそんな人間にも情状酌量の余地はある、肉は美味しいから、と。

 しかし人間が一番能力が高いから、ということもあるであろう。

 しかし人間という生き物の種類として最高の能力であった、としても、悲しいかな人間は一人一人の人間としてはほとんどの場合は最高では無い。

 まずは私は最高では無い。

 まあ言えば欠陥が多い・無がある、ということも能力が高いことに含まれる、とすることは出来るだろう。

 とは思ったもののそれも一概には言えない。

 それは殺人者の性質がある、ということである。

 しかし殺人者の性質に生まれた者は、好きでそのような性質になったわけでは無い、という理由から、情状酌量の余地はある。

 私は身内が通り魔殺人に会ったとしても、その犯罪者には死刑は求めない、適正な更生プログラムがあればの話だが。

 身内を殺された被害者親族の皆さんは、極刑に値する罪に同等の刑をお返ししたところで、身内を失った喪失感は癒されるわけではない、ということを知ってもらいたい、と思います。

 そこで言えることは殺人者の性質を持つ者は我慢しろ、ということだ。

 殺人の罪を犯せば、刑務所で自由の無い生活を強いられ、ブタ飯食って30年間タダ働きさせられる、それは相当にツライ。

 私には殺人者の性質は無かった、そこで言えることは、神に感謝する、ということである、いるかいないかが定かでは無い。

 私の神、。

 宗教問題、キリスト教とイスラム教は同じ神を信仰しているらしい。

 イスラム教は福音書を認めている、ということはある。

 そこで言えることは、イスラム教徒は聖書を読み、キリスト教のこういうところいいよね、としてみたり、キリスト教徒は聖書とコーランを読み、イスラム教のこういうところがいいよねみたいな、といいとこどりする、というのはどうか?

 宗教者に言いてえのが、現実的には神などいねえんだよ!それは決めつけである。

 唯物論者と宗教信仰者に折り合いをつけるには、人間には分からないことが沢山ある、ということを知るべきである、ということである。

 決めつけは良くない、どんな種類のことでも。現実世界だけがあって科学万能主義者。

 私が想像する、いい種類の欧米人とは、科学を重視していて、宗教も少し信仰している人である。

 まずは人間には何も無いところから宇宙を作るなどまずは無理無理!そこで人間が想像したことは全て実現できるは無い!ということだ。

 ところでどうだ?世界は人間にとって都合良く出来てはいないか?まずは空気があって水があって土があって火があって木には果実があり、満足の行く生活が送れた。

 私は収入0であったならば、アマゾンのジャングルに住むか?

 まず言えることは、旧約聖書も新約聖書もコーランも人間が作った、ということである。しかし聖書は100年ぐらいかけて作られたらしい。

 更に悪いことには 神のお告げを聞く、というのは、欧米の精神科医学では統合失調症である。ムハマンドは欧米人からすれば気違いなのだ、しかし私は神の良い教えを聞く宗教者は認める。

 旧約聖書は嘘っぱちの人間が作った、

 どの宗教でも信じるものは救われる、というのでいいのでは?

 短所は長所と言える、の具体例は金遣いが荒いということがある、しかし金遣いが荒いと、景気が上がることが考えられる。

 現代で無駄と思えることが、そんなに持っててどうするんだ?のような大金持ちがいることである。

 まず考えられることが、人々に平均的に所得が分配されれば、商品は売れる。

 そこで考えられることが、ましな仕事には1000万円与えて、普通の仕事には600万円与えることである。

 そのためには具体的にはどのようにすれば良いか?

 そして人々は、1執筆家(文筆家・マンガ家) 2発明家 3プログラマー 4メディア産業関係者 5大学教授・研究者(理工・文系) 6映画製作者 7音楽家 8画家 9芸能人 10各種デザイナー 11写真家 12政治家 13経営者(最先端事業企業家) 14スポーツ選手 15マスコミ関係者 16店舗経営者 17裁判官・弁護士・検事 などになれるようにすべきである。労働が好きな人は、それを続けられるようにするが、それは考えられない。そして当然それ以外の職業も生きがいのある職業として考えられる。

 好きな仕事をする人間は副業をしなければならない。アルバイトである、アルバイトの賃金は正社員と同じにする、ことが考えられる。

 

 人間はロボットに労働仕事やらせて、労働者はロボットの管理の仕事をして、賃金は前と一緒、となれ!

 私はマルクス思想の、暴力革命を認めていることが、認められない、人間は出来る限りは言葉で解決すべきである。

 言葉が万能なわけではないが。

 景気が上がるためには売れる商品が生み出されなくてはならない。しかし売れる商品とは一定のくだらなさを帯びていなければならない場合がある。

 くだらなさとは大衆性である。

 私はここでは一口に大衆性と表現したが。大衆性とは一般性に近い概念である。現代民主主義社会では一般性とは多数に似ている。

 安倍は日本を戦争出来る国にした。

 NHKがやるべきこと今NHKがやっていることをやりつつ視聴率が低くても価値がある番組を放映すべきである。まあこの意見は現実的ではないが。

 しかし多数であるということが価値である。

 本当に価値があるものとはまずは希少である。

 自らにその希少性を見出すならば、そいつはやらなければならないことがある。

 学問上の大きな発見をすること・有益な発明をすること・執筆すること・音楽を作り出すこと・プログラミングすること。

 私は美しいものは本当は美しくない、というケースが考えられる。整形手術の場合が考えられる。

 現代民主主義社会では美とは大勢が美と認めることが美である。

 善とは?

 日本においては人権が保障されている、そこで言えることはある程度自由である。

 ニーチェは道徳の非力を言う。

 現代民主主義社会では

 何事も進んで果敢に行動する。

 価値が高い

 人々は平等に一票の権利を持つ、一票の権利とは、小さい権利である。また大金持ちということは、多くのものを買える権利である。

 金で買えないものはないという言葉はよく聞くが、金で買えないものは命であり、タイムマシンであり愛である。先天的に優秀な特質である。

 人間の代表的2つの性質とは頭の良さと顔の良さである。頭がいいなら儲かる商売一つや二つ作れるだろー作ろうとしないで、私は普通でいいですで過ごしてるからだ。

 ここにおいて私は大勢を敵にまわした。

 

 金で買えないものはある、金で買えない者の代表例としては愛がある。

 愛とは元来神だけが持つものであった、ということは出来るかもしれない。

 神の愛とは博愛であった。

 しかし博愛とはそれぞれの人々を平等に高くみなすことでありそれが自動的であるならばそれは愛ではない。

 愛とはそれぞれの人々の特質を出来る限り正確にみなすことではない。

 それは出来る限り正しい評価である。

 人は結婚相手には分相応を求められる。

 それぞれの人々はみな違う。

 違いつつ同じである。

 それぞれの人々の人生は違うが多くの人々は同じような性質である。

 愛していなくても、愛してると言ってればいいんだよ、という男性を見たことがあるが、私はそれについては納得できない、それは嘘であるから。

 嘘には許される嘘がある。

 嘘も方便と言うがそれが成立するのが、相手が幸せになり、小さなものである。

 多くの人々の場合は結婚相手には代わりの者がいくらでもいる。

 それは愛ではない。

 自分を愛すること、それは自分を神とみなすことである。

 自分が全知全能かそうではないかは、ほとんどの場合は自分で分かる。

 分かっていながらやることは虚しい。

 人間が想像するものは全て作れる、悲しいかなその言葉は真実ではない。

 人間が想像したもので作り出せないものの一つがタイムマシンである。

 事実そのままの歴史というものはまずは無い。それは全く同じ世界がある、ということである。

 哲学的な世界史とは世界史その

 ヘーゲルが言っている歴史とは書かれた歴史である。

 みんなのニュースよりかはevery.の方がいい名前である。

 それは自らを騙すことである。

 現代社会では常識的には愛とは結婚相手に向けられる唯一で最高のものである。

 人々は愛を持っているか?多くの場合は持っていない。

 まあ結婚相手

 人間は結婚前には自分の性質を結婚相手には見せない。

 しかし

 

 言葉の性質とは

 しかし

 人間の特質はまずはモノであるということである。原子分子で出来ている。そしてDNAで出来ている。そして細胞で出来ている。

 それぞれの数とは、全て違う性質である。

 全て違うということは無いかもしれない。まずは数である、ということで他の数と同じ性質がある。

 牛とは

 人間は、牛と同じく草を食べればそれがタンパク質になる、

 概念とは、他の概念と意味が少しずつ重なり合っている、それが概念の特質である。

 その性質とは、数の性質と対称的である。

 人間にはくだらないものを求める

 まずは短所も長所

 『常識論』

 常識が最大に尊重すべきこととすることは考えられる。

 最大とは普通は一つである。一番大きいということである。

 ∞とは人間が考え出した概念である。

 しかし常識とは言葉でありつつ、概念であるだけである。

 最大に尊重すべきこと、とは常識的に考えれば、能力が高い生き物であるべきであろう。わんこ、猫も賢い。

 通常は生き物の中でも人間の場合である。

 しかし

 人間は普通は自分の事は自分で養うのが基本であろう。

 しかし大きな幸せのために誰かに養ってもらう、ということはまあ考えられはする。

 大きな幸せのために18歳以上になっても、親に養ってもらう、ということはまあ考えられはする。

 その場合は親から借金するということである。

 それは、学問上・発明・執筆・音楽・プログラミングで大きな成功をすることである。

 数学がノーベル賞にない、ということは常識的に考えておかしい。

 私はマイナス思考である。

 高い者にとっては多くのものがマイナスに見える、なんてな~!

 大体人間は褒めるといい気分になるから、プラス思考が多くの人々に受ける、ということがある。

 人間は努力だけでは成立しない、まずは先天性に支配されている。

 私は結婚したいと思った女性は一人いたが今となってはどうでもいい。

 私は三上祐一という芸名の俳優であった、

 加山雄三のファンの気持ちが分からない。加山雄三は偉そうだ。

 加山雄三が出た映画を見たことが無い。

 こう言うと私が身の程知らずに加山雄三氏をライバル視しているように見えるが、そうではない。