資本主義と共産主義の合体=「創造主義」~極東文明日本分派における正義の哲学1「マルクス『共(5) | 三上祐一のブログ

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 独自の日本大改革案を掲げる三上祐一のブログです。 なお私はこのブログの著作の一部がウィキペディアの「三上祐一」の項に投稿されることを認める。 http://yuusukeueno.blog40.fc2.com/

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(一章の続き)

 ※まずは、マルクス思想は、発想がかなり救いようが無い程に暗い。存在する人間が少ないから、といって、それらの者達を打倒し、その犠牲の上に労働者の楽園を築き上げよう、などという発想自体が価値が浅い。

 「(32)」~「(34)」| そして私は、封建体制よりかは、純粋現金勘定主義の方が価値が高いように思えてならない。

 「(35)」| 「信心深い陶酔」の信心が疑うのが相応しいものであるならば、それは疑われなければならない。「騎士の感激」が、相手の命を奪うことによって、実現されるのであれば、それに真価は無い。「町人の哀愁」が取り合うに価値が無いものであるならば、それはそれとして取り扱われねばならない。現金勘定よりも相応しい価値尺度を手に入れるためには、人は一定のことをしなければならない。そして労働者階級は、その価値尺度を自らの手でGETしなければならない。

 「(36)」~「(40)」| 人々は誰もが独自の利用価値がある可能性がある。その可能性に人々は、軽々しく背を向けるべきでは無い。その可能性を出来る限り考慮した結果として人々が自ずと出す答えが、まずは‘出来る限りの機会均等’の実現ではないか?
 賃金労働者が自らを利用価値が高い人間までに高める手段を自らGETするためには、現状では賃金労働者は、ある程度の苦労に甘んじることが相応しいであろう。それは、アルバイト、という副業で、最低限の低収入を確保し、夢を追い続ける努力を行うことである。それで、どの賃金労働者も、自らを利用価値が高い人間までに高めたならば、どの資本家も、それには文句は言えないであろう。そしてアルバイト代はできれば高くなってもらいたい。
 人間はいずれは死ぬ。であるならば、一度の人生、リスクが高い生き方をすべきである、それがまずは新しい時代の勇気の高い利用性である。それが武士に価値があるならば、武士の進化形である。その高いリスクを背負った真の勇気の利用法を知った者を、勇気の無い者は羨ましがるか?それはそれでやはりしょうがないであろう。
 利用価値として高いものとして考えられることは、執筆だけか?まずはそれだけではないであろう。他に科学・発明・作曲・コンピュータープログラミング・芸能などがあるであろう。しかし悲しいかな、多くの芸能は価値の低い視聴率主義の達成の元に成立している。そこで、多くの芸能の現状はどのようなものか?そこにおいては、多くの主婦の平均像を算出して(それは幻影である、しかしその算定には一定の能力が必要ではある)その人々の気持ちをまずは慰めることを主眼としてメディア上のものは作られている、という現実がある。
 人間は現状としては、どうやら、進化しつつも退化しているのであろう。それは何か?それは、現金勘定のみで人々の価値評価を行い、真価を深く追求しないことにある、と言っていいであろう。真価を深く追求しない者は、自ずと、世の中で何が必要とされているかを知ることができない、世の中で何が必要とされているかを知ることができない者は自ずと価値の創出が行えない。
 気前の良さ、というものはそれを示されれば、それを示された者は、その者に能力が欠落していれば、その示すべき態度は自然と相手への感謝となる。資本家と労働者とどちらがケチか、今のところは資本家であろう。労働者は多くの場合、現状では低収入を余儀なくされている、そこで、大盤振る舞いできないということを強いられている。一方で資本家は労働者にもっと分け与えてあげることができる実力がある、それなのにその実力を行使しないでいる。自然と多くの低収入を余儀なくされている労働者が、そのケチくさい資本家をつまらぬ者だと思っても、それは妥当であろう。妥当ということが、軽視されれば、もし労働者が軽視に対するお返しの方法を思い付く知恵を持ち、それが生み出されたならば、その軽視した分のお返しというものが生み出されることが考えられる。
━━━━【2012.05.16~05.18に随想したこと(始まり)】━━━━
 私は、自分の執筆を行う上で、マルクスを扱っているからといって、世間の左派がそうであるように、決して‘天皇制廃止論者’というわけでは無い、私は、単純思考の弊害からは出来る限り逃れていたい。天皇陛下が、結婚の相手として、一般人を求める傾向はイギリスと日本において二ヶ所で二代続いた。そこで、天皇家に見受けられることは、一般人に近づいている、ということである、そしてその傾向は価値が高いものであると私は見ている。そして、天皇自らが、自らの立場として相応しいものとして、‘象徴天皇制’を受け入れていることにも価値が見出せる。そして、天皇陛下の表情が、国の象徴となっている人が、どのようなことを考えているのかを、表情を見て想像できる点をもってしても価値が高い。それは出来る限り必ず守られるべきことであろう。なお、天皇陛下には、一般人の立場から発言する自由も与えられていなければならない、その点からしても、完全な立憲君主制よりも、ある程度曖昧である、‘象徴天皇制’というものにも価値を見出そうとすれば価値は見出せる。

 国が行うべきことは、多くの新規事業を作り出して、雇用を生み出すことである。そこで国家の中枢部には作り出す能力を持つ者が必要とされる、そのためには人は学術的な一定な成果と、普通を含めた多くの複数の場における特別な経験が必要となる。そして、多くの雇用を生み出す、と考えられる事業は積極的に採用することが考えられる。そして労働者の仕事の量を軽減させるシステムが発明された場合は、それを積極的に採用すべきである。それは直接的に表現すれば、私が発明した(前述)、‘自動体システム’である、それを採用することでは、どの人々にも、害が出現するということはまずは考えられない、それは早急にでも実現されるべきことであり、もはや軽視は許されない。そこで私は、同級生のある者を、事業実現の実務者として考えたが、彼はそれの実現は本気では考えてはいないようである。そこで私は、彼とのやりとりを少し本気で行ってみる必要はあるであろう、しかし、そこで、事業実現は不可能である、ということが見出せたならば、事業実現の実務者を広く世界に求める。事業の実務者は純利益の80%を手に入れることができる、私は20%をその発案者としていただく。

 大まかに言えば、「共産党は、資本主義社会は<搾取体制>であるから暴力を使ってでも打倒しなければならない」という記述がある、それを‘共産党は資本主義社会とは合意点を生み出す努力を行うべきである。’という文章に修正し、共産党が全ての宗教を否定する姿勢が改められれば、マルクスの著作は研究の素材としての価値があるのでその点で、ある程度は認めてもいい。しかし、マルクスの著述における、修正点は、一々指摘しなければならない、ということが、マルクスの著作に対する私の態度であることに変わりは無い。しかし、マルクスの著作を読んで、私にもたらされることは、世界の不正の現状はどのようなものか、ということを想像する能力が私にある程度与えられることである。

 ソ連において、明らかに足りなかったのは、新しい事業を創出することであった、と言えるであろう。そこで、ロシアは、修正マルクス主義と修正資本主義の融合経済政策を取ることが、まずは考えられる。それは今後確実に生み出されることが予想されることではあり、今生み出されつつあることではあることも考えられるが、それは完全には表明されてはいない。

 警視庁が認めなければならない、真の国際情勢として考慮しなければならないことの一つが、イスラム諸国が酒を禁じ、麻薬を認めているという現実である。そして、インドでは、大麻は認められている、という現実である。警視庁は、麻薬及び大麻を‘絶対悪’として設定しているが、それは、道徳の観点からすれば、相応しい態度では無い、そこにおいては、まず適度の扱いを行う、ということが足りない。そして多くの未知の国々との新たな国際関係を築くことはできない。

 中国と安倍氏、私はまず中国を支持する。それは、安倍という政治家には、政治家が絶対的に持たなければならない長期的視野の欠如が伺えるからである。まずは中国との関係においては、‘“戦略的互恵関係”の実現を考えている’、ということにおいて価値が低い。中国は、本気で関わり、真の親善を作り出すべきであって、‘戦略’で済ませられる問題ではない。そこで、私が知りたいことは、中国の人民の様子である。日本人はまずはウイグルを現実的には知らない、文化交流が過度に薄い、現実的に知らないことについての発言には制限を設けなければならない、しかしここにおいては、中国は国内でウイグル問題を相応しく扱うことが求められる、しかし、ここで私は決して忘れてはならないことを思い出した、それは中国における、ウイグル地区での暴動発生の、目を覆いたくなる戦慄の現実の衝撃映像である。暴動に価値が無いことは明らかである。中国ではウイグル人等につらい労働の仕事を与えている現状は改善されるべきことである、その偏りは将来的には、中国国家における、不幸の主な原因となるであろう。そこで、安倍氏にも一定の価値が存在することが可能性としては考えられはする。中国が、日本の国会議員の自由な発言を犯罪と断定したことは、大国としては相応しくは無い振る舞いである。そこにおいては、大国が持たなければならない寛大の精神の不足が考えられる、それは孔子が生まれた国としては相応しくは無い態度である。しかし、日本と中国において、メディアでは、中国を非難する映像は流してはならない、という国際上の取り決めがある以上は、ある日本の政治家が行っている運動は、将来的には、中国にとっては犯罪として実現する可能性が予測されることではある、しかし現時点においては、その国会議員が行っていることは、未だ中国にとっての犯罪では無い。ここにおいては、中国は、国家拡大政策の元に、中国国内の人間が、中国外の女性や男性と結婚し、中華思想を、周辺地域に無理強いして、周辺地域の人々を中華色に染めて来た事実が浮き彫りとなる。そこで私が中華思想の持ち主に対する誠意ある薦めは、最低限の懐疑精神を持ち合わせることである。そして中華が実質的に価値が無いならば、価値が無い地域がただ広まっただけ、とも言える。それは‘烏合’という言葉がある意味相応しい。そしてそれは暗黒大陸という呼び名が事実上相応しい。しかし、不幸を無理強いさせられた、人間には、国家という、集団での幸せの実現しか残された道は無く、中華色に染まり、集団としての幸せを実現する勢力の成員の一人となることによって、限定された幸せ実現で人生を諦めなければならなくなる。それは限りない、不幸の拡大である。そしてそこにおいて見出せる事実は、中国の中心に昔から長年住み着いていた人間が喜ぶことである。そこで見出せることは、中国の中心の者が周辺地域に無理強いし、周辺地域の人々は、国家内では新参者であるがゆえに、中国の中心の者と比べれば、小さい力しか持ち合わせていないために、中国の中心の者に反対することは許されず、その結果、また更なる外の周辺地域を巻き添えにして、周辺地域の自分よりももっと新参者に対してえばることを選択する。つまりは、暗黒大陸は、周辺地域の人々に不幸を押し付け、領土を拡大し続ける。独立していることに価値を見出す国家以外の領土において。

 ‘刺青にしときな’という名前のブロガーがいた、その提案は基本的には受け入れられない。なぜならば、何も手を加えていない体で表現できることが100%であるならば、刺青を入れることで体で表現できることが現実的に制限されるからである。まずはその体では、一面では常識を兼ね備えた親として、子供には振舞うことも出来なくなるからである。‘極東文明日本分派における正義の哲学’を主張する私には、まずは最低限あらゆる状況を想定して振舞うことが求められている。そしてその人間は、男女平等は認めるが、まずは男系を語る、しかしその者が、世の中で一番尊敬する人は女性である。イギリス王室は女性を尊重する王室として、日本の皇室は男系を選ぶ、ということで、国際的には、バランスが取れている。私は天皇家に関する知識は基本的に少なく、天皇家を語ることは、あまり行うべきでは無い。そして‘刺青にしときな’さんは、‘毛皮着るなら、刺青にしときな’と言っていた記事を見ることによって、具体的な考えが明らかとなった。‘毛皮着るなら、刺青にしときな’という価値観は正しい。

 ‘久本雅美’は‘創価学会’の代表的広告塔である。日本テレビは自民党と公明党を選択したようである。そうであるならば、最低限はその根拠を示せ。

 価値のある人間が、価値の無い人間に本気になることは無意味である。そのような人間に対しては、‘ああ、わかったよ’、という適当な態度で接し、相手とせずに適当に事を済ますことが相応しい。つまりは、その手紙を無視することが相応しい対応であった。それは、日本のウイグルへの干渉は犯罪である、と主張している中国人に本気になって、怒って対抗措置を講じた日本の国会議員にお勧めする対応である。‘国民政府を相手とせず’と表明することも、どうか、とも思うが。そして、一人一人の日本国民は、国家対国家の対立にまた巻き添えにさせられることは御免だ、と心の底では思っている。しかしこれはあくまでも、可能性の一つとして考えられることであって、他の希望的観測ができる状況が考えられる。まずは、中国は、日本において、知るべき人間の情報は入手可能であったであろう、私は‘日本の国会議員が行っている運動は犯罪である’、というような内容を表明した、中国の一政治家の表情を見るに、まずは解り合えない相手では無い、という率直な感想を持った。そこで、中国の政治家が日本において評価していることは、日本においては、ある個人が一定に価値が見出せることであって、その一定の価値を実現している個人さえ入手できれば、日本国においては特別に評価すべきことは無い、という考えに達したこともまあ考えられはする。しかし現実的には中国は日本のあらゆる面を評価している、というところであろう。

 そして私が先程表明した、中国は暗黒大陸である、という評価は、中国の一面を説明しただけであり、中国には多くの幸せも存在している、ということが、私が中国を評価するにおいて最低限表現しなければならなかったことであろう。そこにおいて私が中国において見出せることは、中国は、改善されるべきことは良くなって行っている、ということが可能性として考えられることであろう。しかし中国は薄熙来氏を失脚させた、ということで、可能性の一つを失った、ということが妥当評価であろう。そして中国の地方都市では孔子と毛沢東の銅像が多数建設されているということも、中国において、見出すべき特徴であろう。そこで、中国の実態として、考えられることは、地方都市においては、中国は、全ての貧農に約束通りに土地を与えた、という紛れも無い歴史上稀に見る明らかに高い価値が存在している毛東沢と中国の正統な伝統である孔子を高く評価していて、それは、事実上の資本主義への一本化を導入し、階級の格差拡大ということを為した、中国共産党中央部とは、価値評価が食い違うことが考えられる。そして、中国が日本に対して抗議した、日本の国会議員がウイグル問題に関わることが、チベットとウイグルへの侵攻を実現した中国共産党中央部としては、中国の国内の安定化のためには、もはや、軽視できない力であり、その力の排除は中国共産党中央部が不当であろうが絶対に為さなければならないこととなっていて、中国共産党中央部も必死である、というところが実情であることが考えられる。それが極東の島国小国家日本の一人の男が領土が広く人口も多くGNPも世界第2位である大国中国に最大の善意をもって主張することである。しかし日本は中国に質ではまだ勝っている、と私は率直に感じている、そしてそのことについては、それぞれの中国人は痛切に感じているところでもあろう。そして中国が、日本を中国の一部とし、その独立を脅かすと、質の良い日本のものが手に入らなくなってしまう可能性が生じる。日本は極東の島国小国家であるにすぎない、しかし心は寛大でありたい。

 日本において、国家の中央に必要以上に権力が集中していることが改善されるべき問題であり、その結果として、地方への適度な分権が必要なことであるように、中国も日本と同じ国家である以上は、共通のなされるべき課題であることが、考えられる。

 薄熙来氏のことについてだが‘共産党内部の権力闘争ではない。私は重慶市党書記として、マフィア組織(黒社会)の取り締まりを徹底的にやった。マフィアと癒着している市幹部も排除した。これが恨まれた。別居している妻の事件が起きたタイミングで、彼らの残存勢力にハメられたのだ’ということが事実のようである。そこにおいては、諸事情によって、マフィア組織(黒社会)については、薄氏は、単純に取締りを徹底的に行うことだけでは、問題は解決せず、むしろ社会の根本的改革を目指すべきであろう、ということが私が言えることである。

 特別なことを選択せずに、従来の常識に価値を見出しそれに従い行動することに価値は無い、しかし常識には、頼らなければならないときにはそれをあてにしなければならない。

 天皇陛下が、最近イギリスで行った演説は、天皇陛下が自由な思考の元にそれを作り表現したことが考えられる。天皇陛下は‘国民は皆そう思っている’のような発言をしたが、国民の一人一人の気持ちは、それらの人々の様子を見なければ理解は不可能である、であるからして、いくら天皇陛下が、現人神とは言え、それは無理なのではないか?というのが私の主張であるが、そうではない可能性はあるが。

 現状維持を求め、特別に守られた自分達だけの幸せの達成を試みる行為は、事態の根本解決を求めることよりも価値が低い。事態の根本解決を求める者が立ち去った後に、彼らが見出すことは、もはや自分達特別な勢力だけでは、時代が求める根本解決を行えない、という決して見出してはいけなかったことであるだろう。私は、現世のみがこの世に存在し、全ての宗教の可能性は一切無い、とは考えてはいない。ある一つの宗教だけを認めた場合、そこにはある一つの宗教にまつわる、限りがある歴史・過去の功績だけが認められはするが、未来が無い場合が多い。そして一つの宗教にまつわる、限りがある過去の歴史・過去の功績というものを公正に評価し直してみれば、完全な功績とは言い難いことであることがほとんどであるだろう、ここにおいて私は広く一神教の可能性は認めるものの、それが有益では無いことを提示している。

 私は、当面では‘アジアでの幸せ’を考えている、しかし、最終的には‘世界の幸せ’を考える。

 そこで、極東文明日本分派における正義の哲学、という、私のこの執筆物の名前は、‘出来る限りの世界の立場における正義の哲学’、という名前に変更されるべきかもしれない。

 イギリスにおいては、エリザベス女王とウイリアム王子は正しい。その点でイギリスが不正、ということは無くなった。

 私は私のこの執筆物の名前を、“資本主義と共産主義の合体「創造主義」~出来る限りの世界の立場における正義の哲学1~「マルクス『共産党宣言』から随想すること」”とした。しかし、これはあまりにも味気なく、インパクトの無い名前である。
 私は今までは、まずはアジアでの幸せの実現を考えていた、これは多くのアジア人が共有すべき幸せである、ということを見出したからである、そしてそれは世界の多くの地域が共有すべき幸せにおいて経なければならない歴史過程である、と私は考えている。それが達成されたならば、まずは私が求めていた目的は達成された、ということになる。それは既に達成されたとし、これからは、‘出来る限りの世界の立場での幸せ実現’を目指すこととした、ということを私はここにおいて宣言する。この取るべき態度の変更が私において行われたことを根拠とし、“資本主義と共産主義の合体「創造主義」~極東文明日本分派における正義の哲学1~「マルクス『共産党宣言』から随想すること」”というこの執筆物の名称は、インパクトの面、独自の個性の存在が確認される、ということにおいて、どこかの既成勢力には、その名称を保持することを許していただきたい。そして最終的には、この執筆物の名称は、“資本主義と共産主義の合体=「創造主義」~極東アジア日本分派における正義の~出来る限りの世界の立場における正義の哲学1「マルクス『共産党宣言』から随想すること」”とする。

 国を代表する立場の人が、偏った、どこかの勢力だけにとっての限られた幸せの実現を目指したならば、その人に与えられる、人々の実質的評価は自ずと決まる。

 人が人であることが事実であるならば、その人には、最低三度の失敗は許されるべきである。
 しかしそれはその人の失敗では無く、その人個人における罪は一切無いことも考えられる、それが、ある巨大な勢力を後ろ立てに、無理やり求められたことであり、その人がそのように振舞うことは、できれば避けたかったことであるならば、そこにおいては、その巨大な勢力におつきあいすることが、国家を代表する立場の者として振舞うべき態度である、と判断され、おつきあいしたことが、事実であるならば、もしその人が、現人神として多くの日本国民に崇敬されていたのであれば、その人は今まで通りに尊重されるべき人であることに変わりは無い。

 地方において、無邪気に振舞う日本の子供達ははっきり言ってかわいい。

 ストーンズでは、もっと尊重されるべき人がいた。それはブライアン・ジョーンズである。イギリスにおける、善意の一例であろう。

 イギリスでは評価されるべきUK-POPが最近まるで見出せない。

 私はイギリスでは、保守党と労働党において、展開される、議論に価値を見出したい。

 イギリスが不正であれば、私はアメリカとフランスとドイツとイタリアとロシアを選ぶ。

 私が一度はフェイスブックに示すことが考えられるものは、私の発明した‘意見トーナメント制システム’‘効率的に建設的議論を可能にするシステム’を実現化した、SNSをである。

 私が事業の上で行うべき実務は、まずは、それを提示すべく相手を見つけ、必要なことを話し、事業を推進して行くことである。

 ウイリアム王子の頷きによって、私が、気付いたことが、‘極東アジアの~’ということは私が一度は主張すべきことではあるが、それが、世界のどの地域にも100%完全に認められるべき意見ではないということを、私は最低限は語らなければならなかった、ということである。私は今のところは一ブログの作者でしかないが、‘アジアでの~’ということは、一度は実現すべきことではあるが、最終目的では無い、ということを私は最低限提示しなければならなかったであろう。‘出来る限りの世界の立場における正義’というのが、今のところ自分としては、考え付くことが出来る、現世上での最大の目的である。

 暴力の欲求は行使すべき相手を見つけたならば認めてもいいだろう、そして、そいつらと戦いあうことが彼らには相応しいことである。しかし言葉で表現し、表情を理解し、表情を浮かべ、感じることによって、最大の幸せの実現を求め、表現し続けているものに対する、暴力は一切認められない。

 私が表現していることは常識外なので、現実的には、常識に頼って、生きている人々に向けられて話すべき内容では無い、であるからして、私の思想は当面は、執筆物である以上の表現はなされるべきではない、と思っている。

 フェイス・ブックが実現していることが、人々が日常生活で、やったことを文章として表現しあう、ということである。そこにおいては、その人々がその経験によって感じた率直な感想などを言い合い、それらで親近感があることについては、‘いいね’、と仲間内の人々で認め合うことである。

 オランド仏大統領は、社会党である、ということから、イギリスの保守党に対抗する、国際的党である。そして、国家を超えて、互いが合意点を見出すべきである、ということは、まあ考えられることの一つではある。

 今までは敵対しあっていた、党は党を超えて、建設的議論を行なってもらいたい。違う立場同士である、という関係では、‘それではどうすれば良いか’を相手の党に問う、ということがなされれば、お互いが建設的議論を展開することは可能である。
 
 イギリスにおいては、読むべき哲学書は、かなり昔に著述された、ロックの著作である。そして、それが、経験のみに最大の価値を置いている以上は、多くの共存できる可能性が軽視されている、ということが考えられる。近代のイギリスは、商業の展開に多くの価値を置き、それらに多くの努力が注ぎ込まれ、哲学の著作の欠如というところが、現実のところであろう。そこにおいては、イギリスを評価するには、マルクスの著作の中に存在する(そして多くの著述はその現実的存在の有り無しが問われねばならないことではあるが)。それは、新しい時代においての、哲学の著述を怠った、イギリスに責任がある。私は、マルクスの著作の中に存在する、そして、そこにおいては徹底的な批判が書き連ねてある、その著述から、真のイギリスにおいて実現されていたこと、を見出さねばならない。

 そして、イギリスの‘スコットランド常識学派’、というものは、その名称からして、私としては価値が低いことであると思っている。そして‘懐疑主義’である‘デビッド・ヒューム’にはその主義の名前からして興味がある。

 そして、マルクスの著述は、その真偽の問題は別として興味深く、私の読書欲を最高に駆り立てるものであることは間違い無い。まずは、私が読んだ著作の中では、ずば抜けて、一番面白かった。

 イギリス・・・。

 そして、イギリスの位の高い人々が、日本の被災地復興を支援してくれたことは、まずは感謝しなければならない。

 イギリスが巨大な勢力を後ろ盾として天皇陛下に迫った、ということが事実としてはまるで無かったことだった。天皇陛下の意志でイギリスにおもむき感謝の辞を述べることが天皇陛下が健康を回復後にMUSTで行うことと判断したことから、天皇陛下は世の中の全ての国々の中で、イギリスを最も尊ぶ国と看做していたという事実が明らかとなった。そこにおいては、イギリス・日本における位の高い者同士の身内の利益の保全が行われている。そして、天皇陛下ご自身が、英語で、作り上げた文章は、天皇陛下の自由な意志の元に作成されたのであるが、私は一点相応しくないことを、見出した。それは、全ての日本に存在する全日本人一人一人が、イギリスに対し感謝の意を示すべきであると思っているかどうかは、全ての日本人の率直な姿を天皇陛下が全て見るということが最低限行われていないことである以上、天皇陛下はわからないから、日本の全ての人々がイギリスに感謝しているという、天皇陛下の言葉は一つの虚構であった、ということである。それは象徴が、純粋に国民の象徴であることを超え、象徴が国民一人一人の気持ちを実際に聞いていないにもかかわらず、国民一人一人の気持ちを理解しているという誤解をし、自らの誤った意見を述べたという、象徴としては相応しくはない行為であった可能性はあるのではないか?だからと言って私は天皇制廃止論者ではない。
━━━━【2012.05.16~05.18に随想したこと(終わり)】━━━━
━━━━2012.05.16~05.18著述終了━━━━