三上祐一が2012.10.17~10.19に考えたこと | 三上祐一のブログ

三上祐一のブログ

 独自の日本大改革案を掲げる三上祐一のブログです。 なお私はこのブログの著作の一部がウィキペディアの「三上祐一」の項に投稿されることを認める。 http://yuusukeueno.blog40.fc2.com/

 安倍が靖国神社参拝だって、今どきマジかよ!って感じでしょ!そしてその人間が総裁の党に多くの日本人が投票するんだから、日本はかなり保守的だよなって思う。
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   私から私の5つの発明の実務家への伝言

 どうもお疲れ様です。私の発明の実務家に最終的にやってもらいたいことは、私の発明の製品化を実現することです。そこでまずはパーツ(部品)を作り上げるという観点から私の発明の製品化の実現に取り組んでもらいたいです。そこで、私の製品をパーツ毎に実現するためには、どこの企業の技術が必要かを調べ上げてもらいたいです。その多くは中小企業です。全く新しいタイプのパーツを作り上げるには、複数の異なる企業の技術を掛け合わせることも必要になるかもしれません。そして、パーツは出来る限り安上がりに仕上げてもらいたいです。それらを調べ上げた上でそれらの企業にパーツの発注のオファーをかけて、パーツ製造に関われるかを聞き、パーツ製造に関われるならば、やってもらうということです、なお、ここで留意しなければならないことは、この事業は全くの新規事業であるために、工場・作業所を新たに作らなければならない、ということです、そして私の発明の実務家がどこかの会社の正社員である場合は、会社を作って会社員として雇うことはできずに、その人には、暇な時間に実務家として働いてもらう、ということです。

 次は製品の設計図作成です、そこで新しいタイプの設計技師も必要になって来る。

 私の発明の実務家さん、とりあえずはここまでのことをやってください。

 ここにおいて、私の伝言を細かく実現する能力のある実務家が必要となりました。とりあえずは、実務の実現化案を世に公募します、それに暫定的に私がいい、悪いの評価をして、一番いい実現化案を形成するつもりです。基本的に公募数が少なく一つだけしか無い場合はそれが採用されます。
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 読売新聞は最近大きな誤報を伝えた。朝日新聞は「救世主か愚衆の王か」という二者択一を提示する、ということで、古い。両社共に完全に素晴らしい新聞では無いようだ。そこで求められることは、両社の長所を持ち、両社の欠点を克服した新聞が出来ることである、それは二社が実質的な議論を取り交わし、良い社説を。

 私は現代経済学に疑問を持つ、世の中では、デフレを脱却すれば問題が解決される様に言われているが、デフレでもらう給料が安くなっても、物価安になれば、実質的な経済の内容は変わらない。そして、日本はインフレで物価が高くなったから、製品・サービス販売の国際競争力が落ちた、という副作用を伴った、ということがある。

 私が多くの人々の前で、演説しても、世の中の人々は誰も聞かないだろう、そしてそのような状況になると、真に公正な意見を主張する、ということから外れて、人々の前で自信満々でいることを求められる、そのような状況に入ると、本音が言えない、ということも出てくるなどして、打てる手が限られて来る、そうではなく、ほとんどの人々が、早急な政策を求めている、ということであるならば、私が、打てる手が限られて来てもやるべきことをやらなければならないであろう。しかし一つ言えることは、単純に政治家は、世で言われている、有益な意見に耳を傾ければいいだけ、と言うことはある。そこで必要になるものは、世の中で有益な意見はどれなのかが解るものが開発されることだろう。

 最後から二番目の恋で、「一人で生きて行くと決めたから」というセリフがあったが、その登場人物は女三人で集まっている、ということからして、一人で生きていない、ということがある。

 東日本大震災の被災者には、被害に逢った人々の半分しか仮設住宅が建てられなかった、ということであるが、出来る事ならば、被害に逢った人々全員に仮説住宅は準備されるべきであろう、それが私が思い付いた、復興予算の使い道であるが、この意見に反対の者がいるならば、私は聞く耳を持つ。

 中国の国内情勢は新たな局面を迎えた、と私は見た。私は中国人では無いから、基本的に中国にもの申すと、内政干渉になるが、中国国家と中国人民が無益に対立することは、隣国の立場からは望まない。

 仲井間知事の“日米地位協定”が諸悪の根源である、という発言は、知事の立場から発せられる一つの意見として尊重する価値がある、と思う、しかし日本国家はこの意見に対立するであろう。保守的現実主義もこの意見に対立するであろう。

 愛というものは所詮は概念の一つでしか無い、そして愛が無い者は尊重すべき無邪気さ、率直さ、親孝行、子煩悩という美質が多い、そして、とどのつまりは、どちらを尊重するかということだ、大人の理屈と子供の無邪気さとを。大人の理屈としていただけないものの一つは、「そんなもんだろ世の中なんて」、と物事について、たかをくくる、ということとかだ、世の中たかを括って、妻だけを愛すればいいのか?人間には多くの尊重すべき関係がある、それを全て軽視しろ、というのか?考えられない。

 “Evrything”とはなかなかいい言葉だな。
 坂上忍さんの歌唱は、緊張感が能力を高めたいい例だった。

 藤田朋子という人は歌は役者の範疇に入る、と言ったが、そうとは言い難い、歌はまず、LIVEで多くの観客と価値の共有をする、役者は多くの観客を相手にするのは、劇だろうが、演じる者と見るものであり、価値の共有ということは行われない。

 やったことが無い、経験したことが無いのに、解る、ということはある、それは複数の異なる経験を数多く経験する、ということで、勘が大方合っている、ということが起きる、東洋生まれだが世界において長年蔑視され続けていた勘が。

 私は愛は無いが人々の愛は人々の自由であるから、それについては一定に認める。しかし愛とは、人は有限であって、示す量は限られているにもかかわらず、パートナーとの関係を無限であるかのように思うことではないか?私は愛は無いが大好きということはある。

 私は結婚しても、その価値を二番目以上には考えない、そこで、妻は特に男児が生まれたならば、夫を二番目に考え、母親として、生まれてくる男児を一番大切である、とすることを認める。

 愛は英語に訳すとLOVEである。恋も英語に訳すとLOVEということである。私はどちらを持つかといえば、もちろん恋である。

 私は民主党と自民党とどちらを選ぶかと言えば民主党である、保守と革新の両方の要素を持っているから。

 公共投資は道路やダムを作ることしかしないが、様々な有益な発明を事業化することに向けられてもいいだろう。

 シェア・ハウスからは、あまり多くの有益な経験を得れないであろう、シェア・ハウスをするんだったら、スキー場や海のリゾート・バイトをした方が多くの事を得れる。

 私が21歳の頃は、もっと派手に遊んでた。六本木や西麻布の多くのディスコに出没した。

 国がディスコから多くの税金を取る事を安易に決めたから、ディスコという言葉自体が無くなってしまった。

 日本は四公六民という高い搾取率であった。しかし中国の歴代王朝はは5%から10%の軽い税率であったという美質があった。だからといって、中国が王朝時代に復活することなどは望んではいないが。大体において国家に一家族だけが超特別扱いされること自体が反対である。その点から言って私は天皇については反対であるが、ある程度歴史的にあるものであって、国民の多くが支持していることであって、超特別扱いされているというわけではなく、象徴天皇制の枠組みの中で決してその一家が超特別扱いされているわけではないから、私としては便宜的にそれについては賛成の立場である、という程度である。

 “みんなの党”については反対の立場である、自主憲法を制定して、天皇を元首として、軍隊を復活させる、ということで私は反対である、それでは、決していい時代とはいえなかった戦前の日本に逆もどりではないか?大体において、日本に自主憲法を制定する実力などあるのか?と私は思っている。天皇が元首である、という君主制自体がそもそも、欧米の政治思想の輸入ではないか。

 大体において、家は徳川方の幕府側の家系であるから、天皇家への思い入れなどは全く無い。象徴天皇制が私が生まれた時代にあったから、それについては便宜的に賛成というところである。しかし人々はこの点については取り違わないでもらいたい、私は象徴天皇制には賛成であって、決して反対というわけではない、ということを。

 安倍晋三の家は政治家一家である、ということであるが、それは明治以降の血筋であるだけであって、私の家は江戸時代からの血筋であって、血筋的には安倍晋三の家よりも家の方がよっぽど重みがある。
 政府は菊の紋であり、豊臣家側であるという、みみっちい思想を前面に出しているが、私はそのようなことなどどうでもよい。豊臣方は大政奉還を自ら主張し、明治維新に貢献した徳川慶喜を正統評価しろ。

 そして政府は桐の紋を前面に出しているが、戦前の日本は、薩摩方の警察権力と、長州側の陸軍権力が事実上対立していて、豊臣側の政府などという考え自体が幻想である。全ての日本人の政治を考えるならば政府は、徳川方、豊臣側の対立で現政府は豊臣側の政治である、などというみみっちい思想を捨てろ。

 桐の紋側の人間は元来、葵の紋に本心ではコンプレックスを抱いているのが実情ではないか?

 レッド・ウォーリアーズとかいう奴らは大嫌いだ、お前らが俺を抹殺しようなどとは分際を超えて許されぬ思想だ。

 ダイドー・ブレンド・コーヒーよ、ヘミングウェイがどうした?そして今更ながらヘミングウェイをもちだし、嫉妬心から同国人の尊重されるべき人間を受け入れることができない日本人よ消えうせろ、私はそんな現代日本人が心の底から大嫌いだ。そして大きな夢を抱くことがなくくだらぬ仕事に従事した人間のつまらぬプライドなどくそぐらいだ、そして大きな夢を抱きそのために邁進している尊ばれるべき人間に対し、対抗心を持ち、保守の気持ちを持つ者はその恥ずべき動機を恥じろ。

 今更ながらヘミングウェイを持ち出し今更ながらそれを尊重する奴は大きすぎて素晴らしすぎて斬新過ぎる思想を、心が狭すぎて受け入れることができないだけ。

 今更ヘミングウェイがどうした、そんな遠く古いものなどを持ち出して、お前ら自体が新しく素晴らしく、同国の本来ならば誇りを感じるべきものを嫉妬心から受け入れることができないだけ。

 ラーメン屋のおやじの頑張りなど、そいつとそいつの仲間を幸せにするためだけの元来人間にある欲望であるだけであって、そのようなものなどどうでもいい。

 そして革新的に有益なことを考え出した人間を過小評価し、軽視し、受け入れない奴らよ、その人間が去ったあとにその重要性、価値に気付け、そしてそれははすでに遅すぎたことを疎め。

 近所の~さんが好きで、おじいちゃんが好きで~と言っている女の子供は、取るに足りないものが何で特別視しなければならないことは何かを知らないだけ、そのような子供の幸せなどには尊重されるべき理由が存在しない、そしてその女は尊重すべき人間に対して甚だ失礼である。尊ばれるべき人間と身近な取るに足りない人間達を同等視する女の子供は分際を超えている、そして物事の価値を知らない。その娘っ子は尊ばれるべき人間がどれほど苦労して生きてきたかを知らない。そのがきんちょ娘よ、うざいから消えてくれ。そのがき娘の心情は、尊ばれるべき者に対する許されざる反抗心である、そして価値の無い保守主義である。

 モーニング娘など、どうでもよい。

 キンカンのコマーシャルに出ているガキ娘は、尊ばれるべき人間が幸せになっていないのに、そのガキ娘の身近な取るに足りない者達の幸せへの願いなどどうでもよい。グッチ裕三の娘の幸せなど本当にどうでもいいのだ。そのガキ娘はものの価値というものを本当にわかっていない、そのような気持ちを卑屈というのだ。尊ばれるべき人間の凄さというものは、そのガキ娘の身近な人間とはまるで比べものにならないのだ。そのガキ娘は物事の価値を知らなければならない。そしてそのガキ娘はものごとの有り難みというものを知らなければならない。そのガキ娘が尊ばれるべき人間と身近な取るに足らない者を同一視することは本当に許されない。そのガキ娘が想像するよりもとてつもなく尊ばれるべき人間の人生というものは大変なのだ。

 AKB48のマッタリした歌声は本当に嫌だ。そしてAKB48の歌はどれも同じようなものばかりだ。

 なぜある者は我慢の限界を超えるほどに軽視されるのか?

 ダイドーブレンドコーヒーといい、キンカンのガキ娘といい、モーニング娘といい、なぜある者は我慢の限界を超えるほどにいつも軽視されるのか?それは、小物の許容範囲を超えて、新しく素晴らしすぎて、小物が嫉妬心を抱かずにはいられないからだ、そして常識を超えているからだ。

 日本人は欧米のものにはやみくもに従うくせに、いざ自分達の身近な者から傑出した者が出ると、それを許すことができない程に器が小さい。

 サメの肝油のコマーシャルに出ているおやじはうち震えるほどに頑迷で卑屈である。 テレビ東京の取るに足りない者達にことさらに脚光を浴びせることは、甚だ虚無である。