愛を受け入れれば失うことも多い、ということに気付かない奴らが「LOVE LOVE LOVE」と歌う事は許されない。ミュージックステーションに出演していた奴らは皆価値が低い。愛は、パートナーとの関係の絶対視である、絶対視である以上は、他の人間関係は、価値が低いことと扱うこととなる、というかそれは論理的には正しくなく、絶対が置かれれば他の関係には無がおかれる、というのが必然なのである、人間関係においては、それぞれの大切な人々に適切な量の幸せが与えられるべきである、というのが私の理屈である、ここにおいてはLOVEを受け入れることによって、多くの人々との尊重すべき人間関係の軽視ということが必然となる、ここにおいて、愛を受け入れることによって失われることが存在することが明示された。そんなにも高い理屈に、まるで気付かない人間が愛を主張することは生意気以外の何ものでもない。東アジアには、東アジアの尊重すべき価値観がある。絶対が置かれ、その他の関係に適度ということをおくことは論理的に許されない、絶対が置かれれば、その他の関係に置かれるものは無でしかない。
‘自殺総合対策会議’、いじめは都市の郊外に多い可能性が高い。
消費増税法案は2012年8月10日に可決される、ということだ、私は基本的には消費税に反対する党を応援する。消費税に反対するからには、代替案を持たなければならない、代替案は基本的に歳出が充てられている事業を全て検証することと、事業請負会社に高い金額が支払われていないかの検証を行うことである。
私は“法華経”の何が素晴らしいのかが良く分からない、そこで‘創価学会’も何が価値が高いのかが基本的にわからない。
私の脳・心の状態は多くの感覚器官で感じられるものを同時に感じ、懐疑精神を持ちつつ、集中して考えるときは考え、反省すべきときは反省している。
私は‘町の記憶’というウェブ・ページを思いついた、それは地図上にその場所の映像を置けるようにした、ウェブ・ページである、それである建物内、道の日常生活は、ある程度分かるようになれる。
TPPについてだが、革命的農産品価格の値下げが行われ、その物価に、各企業が製品価格を合わせる、ということが行われるならば、TPPは受け入れ可能である、そして各企業が製品価格を農業製品に合わせるということを実現出来るためには、まずはそのようなことが行われると、それは巡り巡って、それぞれの者達に利益をもたらすことを企業関係者が理解する必要がある、しかしそれは一種の社会主義であり、あくまでも仮説の段階である、しかし自由競争は保たれている、それは新たなる資本主義と共産主義の合体のフィールドとなる。しかしここにおいては製品市場において、全ての業界において必ず一社、革命的農産品価格の値下げが行われた場合、その物価に、製品価格を合わせる企業が現われるということが達成されなければならない、それが達成されないのであれば、このようなシナリオは描かれない。それは、競争において、不利な立場に立たされている企業が生き残りを掛けて行うべきこと、ということも考えられる。また、世界中の労働者が、結託してターゲットとする企業の株を大量に買い占め、企業を買収し、経営権を奪取し、それらの企業に製品価格の値下げを行わせることでも可能である。その場合労働者本位の企業買収を目的とした‘会’が結成される必要がある。そのようにして、基本的に各業界で一社の株を、ある程度労働者本位の経済社会の実現を目的とした‘会’が買占め、企業を買収し、経営権を奪取し、それらの企業に製品価格の値下げを行わせたならば、競争企業はそれに合わせて値下げしなければならない状況になる。そこで、ある国の物価全体を下げる、ということは可能である、そこにおいては、基本的に人々が得る収入自体が減る、という欠点があるが、このようなプロセスを辿ると、日本は製品価格において、ライバル国に競争力を持つ。そしてこのプロセスが速やかに進むためには、‘修正資本主義と修正共産主義の宥和’を実現するための新しい党が必要となる、そこはある程度の労働者本位の経済社会の実現を目的とした‘会’でもある。その新しい会が主導して、革命的農産品価格の値下げと、その物価に各企業が製品価格を合わせる、ということを実現すべきである。そこにおいては、その党が与党となった場合、政府が各地の農産品価格の目安価格を設定する、ということが考えられる。しかしそれは資本主義世界の利害とは激しく対立する。そこで考えるべきことは、農産品輸出大国の値段と調和を取ることである、例えば日本の農産品価格は、アメリカにおける各農産品価格に合わせる、ということが考えられる、そこで考えられることは、日本が貿易黒字を出しているならば、出来る限りプラスマイナス0を目指し、農産物価格を設定することが考えられる、農産物価格をあまり引き下げずに高く設定しすぎて、貿易赤字が大幅に増加したならば、次の年度は農産物価格を大幅に引き下げて設定することが考えられる。そしてその次の年に貿易黒字が大幅に増加したならば、農産物価格をある程度引き上げることが考えられる。ここで、アメリカが対抗する手段としては、工業製品価格を大幅に引き下げ日本の工業製品に対抗することである、この場合にアメリカが日本の工業製品よりもある程度高い値段に設定するならば、日本は工業製品の黒字をある程度維持可能である、しかしそれは市場原理の否定であり、日本の一種の社会主義に付き合わされることであり、アメリカとしては到底受け入れられないことである。両国がお互いの産業の強みを尊重し、農産物においては、アメリカの農産物の値段よりも日本の農産物の値段を下げなければ、アメリカは農産物において、日本にある程度の輸出を維持可能である。工業製品においては、日本の工業製品の値段よりもアメリカの工業製品の値段を下げなければ、日本は工業製品において、アメリカにある程度の輸出を維持可能である。しかしここで両国の強みを尊重することなく、例えば日本が農産品価格をアメリカの農産品に対抗して安く設定し、アメリカが工業製品の価格を日本の製品よりも安く設定すると、‘競争合戦’が始まり、各国の物品の値段はどれも引き下がり続けてしまうことが考えられる。
産業全体のでをほとんどカバー
×韓国と北朝鮮でなされるべきことは統一である、大国のイデオロギーの対立から生み出された二国は一国になるべきである。そこでそのプロセスを考えてみるが、まずは政治上の一国二制度が採用されるべきであろう。大統領と国家主席は同等の政治権力を持ち、韓国大統領は北朝鮮の助言役を行い、北朝鮮の政治は、どのようにすべきかを助言し、北朝鮮国家主席も韓国の助言役を行い、韓国の政治は、どのようにすべきかを助言することが考えられる。そして国号は、韓国人は‘韓国朝鮮’と呼び、北朝鮮人は、‘朝鮮韓国’と呼ぶことが考えられる。しかしこれは最高に良い方法かは、私にはわからない、短時間で思い付くままを述べただけであるから。そしてそこにおいては、助言の内容が良い方が能力が高い、ということになる。
×まずは韓国の法律で、北朝鮮の土地・人々全てを金正恩の私物である、とすることが考えられる、その上で、北朝鮮が韓国の民主主義に参加することが考えられる、つまりは、北朝鮮を選挙区に分け、北朝鮮から代議士を採用するのである。そして金正恩も韓国の大統領にすることが考えられる、つまり韓国内で大統領が2人いる、という状況を臨時に作り出すのである。そして、二人の大統領は、どのような政治を行うべきかを、本気で議論するのである。
×そしてできれば韓国人が北朝鮮の政治に参加することも同時に行われる、ということが考えられる、その場合は、韓国人では大統領のみが北朝鮮の政治に参加することが望ましい、と言えるだろう、そして韓国の大統領は北朝鮮領内では、 北朝鮮に対する助言役に徹することが望ましい。これは政治上の一国二制度である。
森本敏は竹島の問題について、‘韓国の内政に関わるべきでない’、と言っていたが、森本敏自身が、韓国人ではないか?
ウサイン・ボルトは‘伝説になる’と言っていたが、予想されることは、後の世代にもっと足が速い者が生まれて、記録が塗り替えられることである、しかし、カール・ルイス、ベン・ジョンソンの時代から比べたらウサイン・ボルトが出した9秒58という記録は驚異的であろう、そしてかなり長い間は伝説であろう。
‘日本人は、国家であることが、国際社会の真の幸福のために最善かどうかを最低限まずは薄く疑うべきである。ここにおいては私は既存の警察の思想にある程度抵触する’、と私は言ったが、警察官で、警察の思想がどのようなものかをきっちりと踏まえている者は誰もいないであろう。そこで警察官は、どこかの誰かの発言に影響されていることは、考えられる。そして私は、警察の思想はどのようなものかを十分に主張できる自信はあるが、止めておく、無用な敵対は避けたいからである。しかしここで私が主張すべきことは、警察官であるからといって、警察の思想には、生半可に関わる無かれ、ということである。警察官は警察官であり、職務への忠実が求められるべきものであって、警察の思想に特別に関われる特別境遇では無い。なぜならば警察官と思想の専門家はまるで守備範囲が異なるからである。それは思想に関わることを職務として選び、それが専門職である者に任されるべきことである。警察OBである程度能力がある、と私が見ているのが、亀井静香氏である、この人ならば、警察の思想については十分に語れる資格があるであろう。警察官は警察官として、一定の期間職務を全うし、本格的に思想家として生きることを選択したならば、警察の思想を語る資格は十分にあるであろう。
韓国にも‘民主党’がある、ということは、今日始めて知った。
私は単一思考が運命である人間とは、あまり共感できない。しかし私の思考が元々恵まれているとは考えないでもらいたい、私は42年間、精一杯にできる限りの努力を行った、とは私は主張できるからである。私のような特質を持つ人間は、多く世の中に存在することも考えられる、しかし私のような人間のタイプは、十分な経験をしなければ、使い物にならない。そこで疑われることは、学歴のみをもってして、人事の採用を行っている組織は、鍛えれば使える、人材をみすみす、逃している、ということである。
私は、就職時は実力を十分に発揮できない状況に陥っていた、その不幸が無ければIBMには採用されていた、と思う。私は前の日の不幸が原因で、面接で‘本当に私が、この企業に勤めても良いものか’という気持ちがあって、言葉に詰まってしまった。多分IBMはそれが理由で私を落としたのであろう。そこで私が言えることは、若い頃に、言葉に詰まってしまう人間でも、将来は使える人間になれる可能性がある、ということである。
終身雇用制で、老齢を高く評価している日本は、ある程度は価値がある。
私は、若い頃は、女性達に迷惑をかけた、その女性達には、悪かった、と言いたい。しかし、その数は限りなく少ない、なぜならば、ナンパは、いい女一人をものにできたならば、それで一切止めようと、22歳のときに気が付いたからである。そこで私が明らかにすべきことは、ナンパでいい女をGETできたことは、一度しか無い、ということである、その女性のおかげで、私はナンパを若い頃に卒業できた。その女性には深く感謝している。‘ありがとう’
私がナンパしなければならなかったのは、私の身内で、世の中でとてつもなく特別扱いされている人間がいて、その人間に、‘ナンパぐらいできなければ、一人前じゃない’、のようなことを言われて、ナンパは私の義務となっていたからである。ちなみにその。特別扱いされていた人間、というのは、私より5歳年上で、高収入を実現させ、私に父親顔していた。
そして私がこの年になって主張できることは、ナンパなどしなくてもよい、ということである。 私が今どきの子供に主張できることは、私は、小学校5年生頃から、二十代前半まで、無用な不幸の状況に陥らされていたことである。
妻は料理から解放されるべきである、そして夫はお惣菜で満足すべきである。私は食べ物は適当なものでよい、ということがある。
日本人の中で韓国人・北朝鮮人を無用に差別する者がいるが、それらの者達は、日本人と韓国人・朝鮮人のハーフに生まれた人間の問題はどう解決するのだ、と聞きたい。韓国人・北朝鮮人の血が流れているからといって、日本人と韓国人・朝鮮人のハーフについて、ただそれだけが根拠で、そういう人々を差別することはまるで無益である。日本人と韓国人・朝鮮人のハーフには、日本人と韓国人・北朝鮮人のハーフにしか当てはまらない特有のことがあり、そのようなものを、純粋な韓国人・北朝鮮人と同一視して扱うことは、無益である。差別表現は日本の恥である。そして言えることは、韓国人・北朝鮮人も日々進歩していて、それらの者を昔の韓国人・朝鮮人、と同一に扱うことは、実情に即していない、ということをそれらの者は最低限理解しなければならないであろう。
私は人の表情を見て、その能力が大体どの程度のものか解る、大体当たっている。
オリンピックは1位2位3位しか評価しない、という面で見ても無益である。そして、オリンピックは多くの労働者を創出するためのブルジョアジーとナショナリストの企みではないか、とさえ思えて来る、それは穿った見方ではあるが。
ロンドンオリンピック女子サッカーにおいて、審判がアメリカ選手のハンドを誤審した。審判がそれをちゃんと審判してくれれば、試合の流れは日本になった可能性は高い。誤審を繰り返すサッカーの審判は無益な気がしてならない。そこで、考えられることが、ビデオ判定の導入である。
芸能人は昔ながらの言葉表現を止めない。
伊藤利尋アナウンサーが‘絶対勝たねばならない一戦’のような表現を行っていたが、絶対~、ということは無い。健康なアナウンサーとしては不適切だ。
「どちらかと言えば~」と言っていたが、そのような無益な言葉表現はそろそろ卒業してもらいたい。
ある女性は、ある番組で必要以上ににこにこしている、やっぱり価値が浅い。
「ツタンカーメンは誰が殺したか」フジとしては思い切った番組だ。
多くの人々が思い込んでいる・信じ込んでいる・嘘を叩き込まれた、ということが根拠となって、それを理由に価値がある人間の排除は企まれることがあるが、それは無益だ。
世の常識から外れている、ということは、もはやそれを否定する根拠とはならない。国会では、欧米追従が日本の取るべき道、という短絡思考から、消費税増税法案は可決された。その前に行うべきことが、請負企業に国が支払いすぎではないか、ということの検証と、国債が無用に増加し続けている状況を食い止めることである。それを「国民の生活が第一」が「消費税増税前にやるべき事がある」、としてやるべき政策として取り上げれば、国民は、国民の生活が第一に投票すべきである。
セヌリ党とは一体どういう党なのだ?セヌリ党(セヌリとう)は、韓国の保守政党。セヌリとは「新しい世の中」ということであるが、疑われるべきことが、新しい世の中を語ってはいるが、事実上は保守政党である、という二枚舌ではないか、ということである。
イ・ミョンバクは竹島に上陸した、ということであるが、それが、セヌリ党の器の小ささを物語っている。それは党利党略として行われた。器の大きい党であるならば、北朝鮮との統一を目指し、果たし、親日も果たしてもらいたい。
韓国が反日を超えるためには、ありのままの歴史を直視する必要性がある。
竹島は明治38年に日本国に編入された。その年に第二次日韓協約が締結された。江戸時代から竹島は日本に認識されていたのに、なぜ明治38年の編入なのか?日本はなぜ、明治の初期に自国領土としての宣言を行わなかったのかが疑問である。そこで私が可能性として考えることが、当時の日本が、第二次日韓協約によって、竹島を日本領に編入した、というところである。そして可能性として考えられることが、日本は日本で江戸時代から竹島を認識していて自分達の領土として認識していて、当時の朝鮮も竹島を自分達の領土として考えていた、ということである。なぜ明治38年の編入なのかは明らかにされなければならない。
慰安婦募集、という広告を目にした。そこで現実的に行われていたことは、地元の朝鮮人が慰安婦を募集し、それに朝鮮の女性が応募した、というところであったことが考えられる、それは日本軍主導で強制されたことではない、ということが明らかである。慰安婦募集、という広告が出され、それに朝鮮の女性が応募したならば、最低でも強制では無いことは明らかである。
韓国人に必要なことは歴史を直視することである。‘従軍慰安婦’とは、韓国が主導的に行った、捏造である可能性が極めて高い。そしてもう一つ疑問視していることが、‘日帝野郎’という奴が本当にいたかどうかである。それも朝鮮が捏造したことではないか?
韓国人のインタビューを見て知ったことが、韓国人の実態である。日本人は本当の韓国人の様子を知らなければならない、そして、韓流アイドルが見せる、日本に対する笑顔とは裏腹に、本当の韓国人は依然として反日である、というところである。日本人はその実態を把握しなければならない。
日本のマスコミは、竹島編入がなぜ明治38年という、明治維新から38年も後に行われたのかは明らかにしなければならない。
ソ連~ロシアのメドベージェフとかいう奴は、1945年にソビエト連邦が一方的に日ソ不可侵条約を破る、という日本に対する国家レベルの裏切り行為を行って、北方領土に侵攻した、という事実は最低限知る必要性がある、それは後の歴史学において、ソ連~ロシア国家の恥として語られる、ソ連~ロシアは領土がそんなに大きいにもかかわらず、まだ、そんな日本にとっては大きい領土でありソ連にとっては小さい領土を、裏切って、侵攻してまで支配したいと考える、国家的欲望を抱いていたことは、極東アジアの道徳的見地からすれば、浅ましく、おぞましく、恥ずべき行為ということになる。世界中のどんな種類の道徳もその国家行為をば高くは評価しないであろう。そしてその事実は将来的には、世界中の国々からは小馬鹿にされるネタとなる。
イ・ミョンバクは、竹島の岩がどうのこうのと心配していた、島の岩の心配をするぐらいならば、韓国国民の心配をしろ。
イ・ミョンバクは、島民に‘背が高いですねえ’とかいう意味の無い会話を行っていた。
韓国人は、反日は、捏造によって、韓国国家から与えられた真っ赤な嘘である、ということは最低限知らなければならない。
そして韓国人は、日本が行く前の韓国人は、実態としては、女はオッパイを服から露出させ、男は、互いのノミを取り合ったりする、みすぼらしい表情しか持ち合わせてはいない土人でしか無かったということを、当時の写真を見て知れ、そして当時のソウルは、茅葺屋根の貧しい家々が軒を連ねていた、貧しい村であった、という事実を、当時のソウルの状況を写した現実の写真を見ることによって、知れ。そこにおいては、日韓併合はある程度の幸せは日本からは与えられて、ある程度の不幸も与えられていた、という現状を知れ。そして日韓併合は韓国人が日本に望んで申し立てたことである、という事実も知らなければならない。韓国人は、日本から受けたことは、‘全くの不幸である’、という解釈しか行えない、その民度は、世界の国々からは将来的には笑われる。そして韓国人は、歴史を公明正大に扱うということを知らない。そしてイ・ミョンバクには上等だろう、と私は告げる。そして後の歴史学からは、イ・ミョンバクは薄っぺらい実力しか持ち合わせてはいないつまらぬ人間である、と評価される。そして韓国人は真実の歴史を学ぶことができなかった、ということで、巡り巡って、捏造を韓国国民に与え長い視点から見れば、韓国国民に不幸を与えた韓国国家を呪うこととなる。
森本・小宮山~、野田、それが民主党の実力である。
‘金を取れなかったことは残念であるが、銀を取れたことは誇りに思える’、というコメントがなでしこが話すべき、まともなコメントである。自分達の戦いを、どんな美辞麗句で飾り立てても虚しい。しかし銀メダルを取れたならば立派だ。
嘘で塗りたくられた歴史を国民に押し付ける国家は、まともに歴史を学ぶ機会を国民から奪った、ということで、後の国民からは断罪される。
イ・ミョンバクの行為は、人口5500万人の国家が人口1億3000万人の国家に喧嘩を売った、ということとなる。イ・ミョンバクはその事実から、将来的には、自分には不幸が与えられる、ということすら、満足に見通せなかった、悲しい実力しか持ち合わせてはいない、能力の足りない政治家でしか無い。
それは国家が歴史という科目をなめていた、ということに他ならない。
歴史上で教えなければならない事件には総量がある、そして歴史には教えるべきバランスが存在する、そのバランスを軽視し、ある国を全くの悪者に仕立て上げることを目的として、偏った歴史教育を行い、嘘で塗り固められた、全くのデタラメ写真を並べ立てて、ある国家を全くの罪びととして仕立て上げた、国家も、無用な国家間対立をもたらした、ということで、その人民からは、将来的には断罪される。
B’zの歌はいいねえ。
今どきの子供は、事実を事実として、妥当な言葉をもってして表現する能力が欠如している。
そして、無意味にどこかの既存の勢力に気に入られる技だけは長けている。子供にはそのような能力は一切無用である。
ヤバイ、と言っている子供達そのものがヤバイ。
ある国は国民を人民と語っている、なのに国家に強大な権力が存在する、それは純粋にマルクスが与えた思想とはかけ離れている。
ある程度変わっていて、ある程度変わらない、ということが、人間を観察したときに、見出せることである。それは、短絡文章表現主義から逸脱することである。
踊っても解決策は導き出せない。
ソナーポケットは俺の敵である。二人だけのLOVEを選択して、それ以外の全てのものを捨て去ることは、現実的には、かなり虚しい。そこには多くの人々を幸せにする能力の欠如が見出せる。
誰にも罪が無い、その表現は現実社会では見出せない、ほとんどの人間はある程度罪を持ち、無罪も持ち合わせている。
ロックという思想家の実力は、大体把握できた。
イ・ミョンバクのおかげで、私にはエキサイティング、という私としてはかなり好きな状況が訪れた。
北芝健
私の仲間は 青山小学校と青山中学校の同級生で 吉田基宏 と 鶴見祐一 と 命苫健作 と 山本学 と 鈴木正義 と 鈴木愛美 柳瀬恭子 がいる、かなり魅力的なメンツであることは間違いない。
そして下石神井小学校の 荻野明 日月哲人 という メンツもいる。日月は元プロ野球選手である、そいつは杉並リトルリーグのおかげでグレた。
井草中学校には 小山慎一 井上大輔 田中慎太郎 というメンツがいる。
そして広尾高校には、 藤沢亮一 榎伸男 小林大吾 永本竜一 藤波基弘 大野浩 阿蘇博 というメンツもいる。広尾高校では学内で俺が一番目立ってた。
そして大学のメンツ としては 松谷靖伸 大沢信一 土屋暁生 というメンツもいる。
神奈川県川崎市の人々は、基本的に私の味方だ。
私の愛の欠如を、私の重大な欠点として認識し、その一点をついて、LOVEを主張してくる奴らは私の敵である。
イ・ミョンバクは現実的に北朝鮮人民に、‘殺せ’と言われ相当な数の人々を現実的に敵にしている、という恐るべき、現実をまずは見出さなければならなかった。イ・ミョンバクの韓国に対しては、北朝鮮とタッグを組む。
韓国の国民でも、物事を良くわかっている人がいるのを見て安心した。
かつての未来志向を語っていたイ・ミョンバクは評価しよう。そんないいことを言っていたことを見逃していてすいませんでした。
明治38年は第二次日韓協約が結ばれた年である、その年に竹島が日本に編入された、そこで日本が疑問視しなければならないことは、そこは、韓国の領土だったのではないか、ということである。日本人にはそう考える人間が一人もいない、日本人は頭が堅い。
沖縄戦の前に、天皇陛下は、敗戦を認めるべきであった。それは後の平和な世の中を生きたから、わかったことであった。
真珠湾攻撃の死亡者は約2400人であった、アメリカはそれに対しては、2400人の日本人を殺すまでに留めておくべきであった。2400人の犠牲者に対して、310万人の日本人を殺すことを選択した、フランクリン・ルーズベルトには一定の罪がある。
中国は少しずつ、国の状況が良くなっているのであれば、良いであろう。そして中国が・・・。
スポーツを見ることで興奮することは本能では無い。
軽薄な奴らには価値は少ししか無い。
歴史に本気で取り組んだ私は、日本には多くの不幸が存在した、ということを知っている。ああ野麦峠・515事件・226事件・赤狩り・戦争310万人の犠牲者・・・。それらの歴史に比べ今の若者は軽薄である。そんな軽薄な奴らの幸せなど私にとってはどうでも良い。芸能界の奴らは誰もが軽薄で基本的に価値が低い。そして何かを徹底的にやり遂げる堅い意志も存在しない。
加藤ミリアの歌は価値が低いのう。