---------------2012.06.28-----------------
「(109)」| あらゆる搾取は出来る限り漸進的に改善された方がよい。
「(110)」| 階級の対立は出来る限り漸進的に改善された方がよい。
「(111)」| 共産主義が一切の宗教を否定するのであれば、それは認められない。どの宗教もまずは容認すべきである、その姿勢は多神主義的である、しかしそれを行って、どの宗教も生かすべきことは生かし、否定すべきことは否定し、出来る限り多くの宗教の要素を兼ね備えた現代宗教を作り出すことに、人類は試みるべきである。
「(112)」| このことは一概には言えない。あらゆる国家は、世界がほとんど不可分なほどに、世界文明を共有し、世界共通の認識を持ちつつも、その国特有の文化を持っているために、これらのことでも深く入り組んだことは、深い洞察力が必要とされる。
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野田派にも悩みがある、それは、小沢氏のことは多くの一期生議員が支持しているということだ。
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「113」| 精神的生産は精神的生産によって、作られる、ということは考えられる、精神的生産は“無形財産”の形を取り得ることがある。
「114」| ある時代の支配的思想は、つねに支配階級の思想に過ぎない、ということは無い。支配階級の思想は被支配階級の思想に影響されている、ということはある、しかし今までの通常の支配階級はそれを素直に一つの恩恵とは受け取らずに、逆手にとって、常に自分の思想を肯定する材料としてきた。
「(115)」「(116)」| 社会は革命のスタイルを取らずに、相互の階級それぞれの、小さな改革の積み重ね、ということは考えられる、それを行うには、優秀な歴史脚本家が必要とされることとなる。
「(117)」| キリスト教の大元は、“プラートニズム”である。
「(118)」| 世界文明は、時代を経て、主役が変わりつつ進む。19世紀前半はイギリスとフランスの世紀だった。1970年代までは、アメリカが主役であった。1980年代から2012年あたりまでは日本・ドイツが主役である。今後は、世界の主役は、中国になるかインドになるかブラジルになるかはまだわからない、三つの国が同時に主役を務めつつ、歴史が変わっていくこともまあ、考えられはする。
「(119)」| 常に知識の領域に自由競争が支配しているとは限らない。自由競争の特徴は、勝敗を明確に分けることであったが、知識が、常に勝敗を決めずに共存を目指すことも考えられる。
「(120)」| 宗教、道徳、哲学、政治、法律はつねに自己を維持してきた、ということであるが、それは建設的議論の方法論が確立していなかったために、それらが妥当な批判にさらされることなく、主には信奉される、ということによって、それらは不完全ではあるものの、人々にとって支配的思想であり続けた、それは自己を維持してきた、というよりは、一面放置されてきた、ということを語っているに過ぎない。そして新しい文系総合学問を目指す者は、あらゆる批判を出来る限り全て受け入れようと試みる。
「(121)」~「(124)」自由、正義についてであるが、それらのどの程度を自由・正義とするかは、時代々々によって違った、そしてそれらは、それらに関する時代々々の執筆に影響されてきた。どの程度を自由・正義と捉えるかは、あらゆる時代のあらゆる制度中のあらゆる身分の不自由・不正の程度によって変わって来たであろう。そして新たな時代を作り出そうと試みる者は最低限、新しい宗教、道徳、哲学、政治、法律を作らなければならないであろう。
「(125)」~「(126)」| 新しい時代は、出来ればこのように迎えたい。ブルジョア階級は自分達の自力によってあらゆるものを生み出して行き、プロレタリア階級は、それに少しずつ、投資を多く行っていくことによって、それらの階級は、実質的意味合いは無くなり、あるとすれば名目的に階級のみが残るように超漸進的に格差是正の改革が進められて行くべきである。
「(127)」| 世の中の全ての文物は、それぞれの文化でどのように交流されて来たかはできれば明らかにされるべきである、しかし、現代の歴史はそれを明確にはできない、私が想像するに、文物は、まず“論語”があり、“それの影響を受けてプラトンの著作が出来上がり”、それの影響下、「『大衆』向きのプラトーニズムである」“聖書”が生まれたのではないか?
「(128)」| 意識形態は一つ、ということはない。階級が二つあれば、主に意識形態は二つ存在する、それらは、漸進的発展によって、統合されて行く。その場合、それは互いの意識が互いに反駁し合いつつ、共感も感じるという、状況が長いこと続くことが考えられる、それは一種の混沌であるから、時代を導く人間が必要とされる、超漸進的発展を目指す場合、時代を導く人間は、表現においては、ある程度の“不自由”を強いられる、しかし満足できる“役割”を見出す。その表現形態は言論・映像(表情の駆使なども含まれる)に限られる、そして出来る限り最大限に暴力を避ける、親の自分の子供に対する、躾のための最小限の力における一発は、まだ許されるべきである。
「(129)」| “マルクス修正主義”の第一義は、革命ではなく、超漸進的改革によって、社会を維持しつつ、資本主義と修正共産主義の融合を、シナリオ・テーラーがシナリオを発表することによって、目指す、ということである。
「(130)」| “資本主義と共産主義の合体”を進めて行く者は伝統的思想(既存の宗教、道徳、哲学、政治、法律等)と科学と資本主義思想と修正共産主義思想による、統一的思想をまずは試みるべきである、しかしそれを押し進める者は世界があくまで統一的であるまでであって、絶対的に統一されないように気を付けなければならない、それは、健全な批判精神をも許さぬ息苦しいものであるから。であるから、あらゆる諸国は諸国の性格を保ちつつ統一的思想を試みるべきである、つまり、人はぼんやりと対立思想が、自分自身の内に共存されている、という現代の常識では今のところ非常識、と思われる状況をまずは受け入れなければならない、それは日本的である、とも言えるであろう。
※市場には、製品市場と労働市場がある。製品価格は、まず第一に、その製品の開発費用・原材料費にどれだけの経費がかかるかいかんによって決定される。その製品の価格の第一決定者はその製品の開発者であるべきである、そして開発者がどれだけの取り分を主張するかが、製品の価格に大きく響く。製品製造会社は問屋に売りさばく、その製品の買い入れ・売却価格は一番安い。問屋は多くの商品を大量に安く買い入れ、多くの商品を安く売りさばくことによって、利益を上げている。問屋の儲けの構造は次のようである、「(製品定価*製品数量)-(製品値下げ価格*製品数量)=純利益、純利益=必要経費=(会社員の給料《ボーナス含》*会社員数+諸経費)」つまり、大口の買い手には大きく値引きすることが可能となる。 そこで供給側の第一要因である、製品生産企業は製品を大量・高価で扱う意向を持ち、供給側の第二要因である問屋は製品を大量・安価で売る意向を持ち、問屋は需要側としては第三要因であり、大量・安価で買い入れる意向を持っている。 供給側の第三要因である小売店は、ケース1からケース2に分かれる。製品をケース1の小売店は少量・高額で扱う意向を持っていて、ケース2の小売店は大量・安価で扱う意向を持っている、小売店は需要側としては第二要因であり、ケース1の小売店は少量・低額で買い入れる意向を持っていて、ケース2の小売店は大量・低額で買い入れる意向を持っている。
「(131)」| マルクスは、共産主義に対するブルジョア階級からの反論に何一つ、まともに答えられなかったではないか?
「132」| マルクス主義は、修正マルクス主義に向かわなければならない。具体的な修正マルクス主義を指し示すものとして、本書がある。修正マルクス主義は、プロレタリア階級が主観的に行うべきことを指し示した。その第一歩としてあることが、プロレタリア階級は自力で発明・発案・科学研究成果・著作を生み出さなければならない,ということである。修正資本主義、というものが存在するならば、それが第一に行うべきこととしてあることが、真に有益な事業への投資である、特にプロレタリア階級が自力で生み出した、発明・発案・科学研究成果の事業への投資が行われるべきである。そしてプロレタリア階級者出身者の事業の純利益では、プロレタリア階級者出身者の有益な発明・発案・科学研究成果・著作が養われるべきである。ここで、修正資本主義と修正マルクス主義の相互目的が定まった、それが互いの共存を目指す超漸進主義である、それが進められて、結果的に相互の階級の格差是正がもたらされ、相互の階級は少しずつ消滅して行き、結果的には、相互の階級は、名目的価値しかなくなり、それぞれの階級出身者は、互いに自分達には今までになかったものを手に入れ、。
◎「(133)」| マルクスは革命を主張しているのに、ここでは「ブルジョア階級から“次第に”すべての資本を奪い」と語っている。政治的支配を得ることが革命であるのか?ブルジョア階級が自らの孤立を避けるために考え出したことが、ホワイト・カラーの増員であった、ここにおいては、ブルジョア階級は、完全に学歴を重視している。
真に反抗する勢力が、いかに少数であろうとも、その勢力がそれに対して、自分達には何の利益もない、として、心の底から抵抗する力は侮れない、彼らは、自分達の孤立しがちな部分を、ホワイト・カラーの増員、ということで埋め合わせを行った、それによって、労働者とは数では対抗できる勢力を持った、とは言うものの、労働者側と資産家側勢力の人数の比率は9:1である。これは、身分制を名乗らぬが内密の身分制であり、身分制を正直に表すことよりも、たちが悪い。それは封建主義から、ブルジョア階級が得をする社会への移行によって、もたらされたものである。日本は、士農工商の世から、身分制を撤廃した明治維新を迎えたが、それは、あるときは藩閥政治であった。それはブルジョアジー・華族・官僚・軍閥超少数派のための世であり、多くの日本人は、二等兵・一等兵として、欧米から導入された軍制に、明治~大正~昭和期につらい思いをさせられ、終戦を迎えた。
◎「(134)」| 「このことは、所有権への、またブルジョア的生産諸関係への専制的干渉なくしてはできようがない。」このマルクスの主張は受け入れられない。これは、共産主義における、事実上の独裁の容認発言ではないか?
「(135)」| 「自分自身を乗り越えてすすみ、全生産様式の変革への手段として不可避なものとなる」、自動的にはそのようにはならない。自分自身を乗り越えてすすみ、全生産様式の変革への手段として不可避なものとなるためには、自ら斬新で有益なものを生み出して行かねばならない。そのために必要なことが、多くの場における、普通を含めた、特別な経験をしつつ、一定の学術的成果を収めることである、そのためにははっきり言って、日本の労働者達は金銭的に、つらい立場である。労働者達は自分の息子達を最低限は、大学に行かせたい、その金銭の捻出に、世の労働者達はつらい立場に立たされている、2012年現在労働者達は自分達がやりたいことをケチらなければ、子供を大学まで、行かせられない状況であろう、それは、めぐりめぐって、資本家達にも不利益となる。 「(136)」| マルクスは共産主義者であるとともに、国家主義者であった様である。私は、国家が存在するならば、人々のための民営政府も存在すべきである、と考えている、それはまずは、ネット上に出来るのがいいであろう。
「(137)」| もっとも進歩した国とは、何を基準に推し測れば良いのだろうか?やはり、資本力であろうか?それとも貧しい、ということにおいてであろうか?
「(138)」| 日本人にとって、昭和は正しく激動であった、私は昭和という時代に少しでも参加できたことを、私としては、どこにいるのかわからない、神に感謝する。地方人都会人いかんに関わらず、多くの日本人は、心の底から、アメリカを恋こがれた、ヨーロッパを憧れた。一方でまた、地方人都会人いかんに関わらず、多くの日本人は、マルクスに夢を持った、そして中国の一派であることを求めた、しかしそれは真の共産主義者の取るべき道では無かったであろう。“極東文明日本分派における正義の哲学”を主張する私としては、中国の一派となることはできない、ということを声を小にして言う、しかし、日本と中国は、多くのことで協力できる、とは思っている。しかし日本の共産主義者の代表は、多くの仲間を裏切り、大企業に就職した。そして目的が無ければ生きて行けない日本人は、高度経済成長を目標にし、昭和の後半を生き抜いた。私は1969年生まれである。私が、就職のときから、就職氷河期が訪れた。私はどの大企業からも内定をもらえなかった、そこで、私は、本心では労働者側に加担したい気持ちがあるのが自然ではないか?であるからと言って、私は、資本家の財産を云々など、ということは全く無い、出来る限りは資本家にも汲みしたい、それは、欧米人には科学を習った、という恩があるからと、あとは義務的気持ちでである、この発言は私としては僭越であるかもしれない。
多くの女性にとっては、若いころ、愛は重要である、それを蔑ろにされると、殺意を抱く女もいるだろう、しかし明らかに言えることは、多くの女性にとっての男児は、愛以上に女性の心を薔薇色に変えることもある、ということである。
多くの国々が、二枚舌である。
刑罰を与えることによって、事を済ます時代は、もう終わりである、更正させられなければならない。
「(139)」|
「(140)」|
「(141)」| マルクスにしては、少々みみっちい意見ではないか?
「(142)」|
「(143)」|
「(144)」|
「(145)」|
「(146)」| これはなかなかいい案である。
「(147)」| これもなかなかいい案である。
「(148)」|
「(149)」|
「(150)」| 例え少人数であるとはいえ、その身が犠牲にされたならば、その犠牲を生んだ者は、将来の歴史学者からは、罪がある、とされかねないぞ、マルクス!誰かの犠牲の上に成立する、誰かの幸せは、自然、軽薄感を帯びざるをえない、そのことによって、かつては、道徳の持ち主であった、労働者の人々は、堕落する可能性を帯びることとなる。そしてマルクスの言う、労働者の団結による、政治的権力の奪取、ということは、大が小を制する、ということにおいて多く、極東文明日本分派における正義の哲学に抵触する。大が小を制するためには、大義名分が必要である、立派な大義名分が。そのやり方は、リスキーである、ということにおいて、避けるべきやり方とする。マルクスの気持ちはわかる、ということもあるが。そしてそこで何がもたらされるのだろうか?ときの支配者は、現実的に成功し、多くのものを生み出し、真に存在価値があることを見出さなければ、敵対勢力を絶対に認めないであろう、そこで、社会に多くの幸せを生み出す、決意があるものは、敵対勢力の求めるだけのものを差し出すのが賢いやり方で、常套手段である。
「(151)」| 超金持ちの家に生まれた人間には、とっておきの言い訳がある。「好きで金持ちの家に生まれた訳じゃねえ」、という。
マルクスの『共産党宣言』は、私に多くのひらめきを与えてくれた、その点では非常に有益であった。一時代前の人であるマルクスよ、ありがとう。
私は“極東文明日本分派における正義の哲学”を語るが、だからといって、単純に昔に戻ればよい、などとは、よほどのことが無い限り、主張することは無い。まずは便利を捨てて、単純に昔に戻ることなど、無理だ。
宗教嫌いの人間は、自分にとって都合が良い宗教を作って、それを信奉することは、少しぐらいは利益がある。 天国も地獄も無く、現世だけが存在する、と主張する人は、人間には現世では、神が存在するのか、来世があるのかは、それを信じる、という方法を取る意外には、基本的には“解らない”、そして解らない、ということは、それは来世を否定することでは無く、現実的には“神が存在し、来世がある、可能性がある”、ということを認めなければならない立場である、ということである。ここでは私は、私の人間としての限界を吐露する。この世には現世しか存在せずに、死んだら何も無い、ということを根拠無く、勝手に決めつけ、そこにおいて、宗教の延長上にある、一切の道徳を無視し、ただ、自分及び自分の戦略的仲間だけが現世で幸せで有りさえすれば良い、という思想を持った、人間は、その責任は、自分自身にある。 私は前に、宗教は道徳とはそりが合わない、という内容のことを主張したが、それはキリスト教と論語の関係である。論語では、伝統的神々の記述は多く存在したが、ほとんどのことは現世での幸せを求めるために道徳を語る、それは現世における、長期的観点からの利益を重視している。
歳出総額は昭和60年代あたりから見て、倍ぐらいになっている、それは本当に国民の利益となっているのかは検証されなければならない。そして、政府は事業請負企業に、多く支払いすぎていないかは、点検・検証されるべきである。消費税の導入をやるならばそれを行って、芳しい成果が出ないときなのではないか?そして政府は斬新な新規事業案を創出する能力を持たなければならないのではないか?
消費税増税を行うと、人々は、税が多くかかる、現金でのやり取りは、控え、出来る限りを物々交換で済まそうとする、ということは考えられる。
人は生まれたからには、自分にしか作り出せないものを作り出すことを目指すことには、価値がある。
多くの人々は、現代が、多くのことの発展の最高峰である、と考えがちだが、そうとは限らない、ということがある、まずは私は、科学の分野については、まるで無知である、そこで、私にはまだまだ可能性が秘められている。出版すべき本が、『数学、何に使うか』である。そして、『最先端理工学の系譜、化学の研究で、企業が生み出した事業一覧』、である。
うちの母さんは、私に対して、最高の育て方をしてくれた。それは、“自由放任主義”である。うちの父さんは私に対して、最低限必要である、と思えることを話してくれた、その一つは“学生興行師”としての自分の大学時代の自慢話であった。
私が高校生であった1985年と比べると、朝、満員電車の中で、ぎゅうぎゅう詰めになっている人々の表情は、まるで別である。私が高校生の頃の人々の表情は健康的であった。しかし、先日丸の内線内で、目にした、光景は、そこに居合わせた全ての人間が、不貞腐れた顔をしている、というものであった。不貞腐れた顔をしていた人々よ、会社勤めなんて、何時辞めたって、いいんだぜ。
私は、大企業に勤めているサラリーマンが、具体的に、どのような仕事をしているのかが、まるで想像できない。
「慰安婦募集」、という記事を見たが、その時点で、軍が主導して、従軍慰安婦などを作り出した、というわけではないことが明らか以外の何ものでもないのではないか?そして、募集している人間についてであるが、“今井~”と、日本人名を出していたが、日本人名を偽った、地元の韓国人が勝手に行っていた可能性が高い、と私は推察する。かつての日本陸海軍は、そのような姑息でくだらぬことをわざわざ率先して行うなどということは、到底考えられない。韓国人は、日本陸海軍にいちゃもんをつけるならば、最低限は、かつての日本陸海軍がどのようであったかは最低限研究してくれ。イ・ミョンバクよ、それが事実であれば、どう、おとしまえつけやがるんだ?日本陸海軍は長いこと、濡れ衣を着せられ汚名を押し付けられた。
金のかからない党運営は可能である、ネットがある、小沢新党は、ネット上に小沢新党のホーム・ページを作り、党公約と出馬議員一覧と出馬議員一人一人の実行しようとする、政治の内容を載せればいいであろう。ここにおいては、民主党に対抗して、民主党と同じ数の候補者を立てることが考えられる。
私にとって、まるで無用なものが贅沢だ。私は一切の贅沢が必要無い安上がりな男である。私は、一生贅沢は行わない。
世界番付には、イスラム諸国の人々が、見当たらない。
シリアでは最悪のシナリオが展開している。アサドという人物は、内戦を回避することができなかった。
そして、私は、親孝行を、東アジアで尊ぶべき、こととしたが、それは私の気質に合っている、というだけであり、あくまで個人的な問題であるに過ぎない。それを人々に押し付ける気は毛頭無い。愛を選ぶか、親孝行を選ぶかは、一人一人の人々の勝手であり自由である、それらについては、自分達の気質に合っているものを選ぶべきである。そして、沢田研二の“危険な~”という歌では、“あ~あ~それでも、愛しているのに”と歌っている、ああ、そんなにも日本は愛に溢れていたのか、と今になって、気が付く次第である。私は、子供の頃に、歌詞をまともに聞いたことが無かった。いつも曲に没頭していた。
“愛”は英語に翻訳すると“Love”であるが“恋”も英語に翻訳すると“Love”である、ということである。私は“愛”は持たないが“恋”は有りえる。ここにおいて、私は、“親孝行”と“Love”の両立を見出す。しかし私にとっては“親孝行”が一番大切なことであり、“恋”は二番目に大切なことである。そして、私は、まだ、親孝行は果たせていないのが実情である。そのためには、最低限の収入は確保したい。
官僚の、自分達が国家の主役であり、自分達が、大きな予算を扱って、国家を運営しているパワーを持っているんだ、という思いがあるとするならば、それは官僚の思い上がりである、まず官僚は独自に価値あるものを生み出す能力が欠乏している。そこにおける、一人一人の官僚の思いは、組織の構造を取り、官僚全体の共通の大きな幸せとなる。それは、権力欲という私的欲望の組織化、という構造を持つ。多くの予算を扱いたい、という無意味な欲望は、抑制されるべきである、そうすれば、消費税の導入の必要は無い。 官僚の一人が漸く姿を表した。脳みその構造が、野田と共通である。「全力で~」と言っていたが、誰もが全力でやっている、というのがまずある。そして打つべき手を出来る限り多く考え抜いたのか、創出したのか、と問われれば、それは行ってはいない、そこにおいて、その行為は事実上、全力という範疇の外にある。そして打つべき手を出来る限り多く考え抜き、創出する能力そのものが不足している、ということが考えられる。そして「効率的」である、と言っていたが、それを証明するもの自体が無い。「確信している」と言ったが、それは避けるべき“主観のみによる判断”であるにすぎず、その確信は錯覚である。
ハーバード出身のアメリカ人が、元々鼻が高いからと自慢げに言っていたが、そんなことなど、どうでも良い。
世界標準語である、英語において、アクセント、発音というものは、ネイティブかネイティブでないかの、問題であり、ネイティブであるということでもたらされるネイティブの誇りは、無用である。アクセント、発音が悪いことを侮蔑し、それをもってして、その英語を真面目に聞く気にならない、ということは、無益である、そして世界標準語である英語を使用している外国人にとってはどうでも良いことである。
アフリカ大陸には、もともと、国のわけ隔てが無かった。
学歴が高いからといって、価値が創出できる訳では無い。国家の中心には多くの価値が創出できる人達が就くべきである。
原発再稼動反対、ということが、日本の多数の人々の思いなのだ、これが本当の民主主義だ!それを見た野田は、原発再稼動は止めるべきである。私は野田の原発再稼動を容認していたが、4万人の人々の“新しいデモ”を見て、私も原発再稼動に反対することにした。
◎高崎経済大学 “いい意見を言っていた”
森本敏という奴は大嫌いだ。
藤村官房長官のいい部分を見た試しが無い、それは、野田が個人的に親しいから、ということで選ばれたが、官房長官の能力が無さげだ。
小宮山という女も大嫌いだ。
バロッテリはカッコ良かった。そして「自分を信じる」、ということはいいことだ。
スティーブン・スピルバーグは好きだ。
ドイツと日本において、決定的に違うことがある、それは、ドイツではブルー・カラーに高い賃金が支払われている、ということだ。
私とは違う、ということで、価値が高い道がある、それは、映像作家になる、という道である。