---------------2012.06.20-----------------
※この著作のタイトルは“極東文明日本分派における正義の哲学”としているが、別に極東文明日本分派における正義の哲学の優越性を述べているわけではない、あくまで極東文明日本分派の観点から見る正義の哲学を単に語っているに過ぎない。そして今の日本は“科学”“産業革命”などの欧米の文化が無かったならば、存立していない、ということは自覚している。
「(36)」~「(39)」| 労働者が単にかれのはだかのままの生命を再生産する分だけしか賃金を貰っていないのであれば、足りない。少なくとも、労働者は、自分の子供達が育ち大学に通い卒業するまでの費用を貰い、自分達が応援する事業に投資でき、長期的にある程度貯金できるようでなければならないであろう。
「(40)」| 労働者が、斬新で有益なものを創り出して、それを事業にし、その事業でもって、世の実力があるのに恵まれない科学者・発明家・執筆家・作曲家などを雇い、それで利益を得て、言ってみれば労働者そのものの実力によって、自ら労働者自身が儲けることによって、格差是正はなされて行くべきである、労働者は、最初のうちは、単なる労働者としてその余裕が無くとも、安い賃金で働きつつ、考え、節約して事業に投資する資金などを捻出して行かねばならない。
「(41)」「(42)」| 皆が一定の分だけ労働し、ある程度有益なものを創り出す時間と収入を得、ある程度投資できるようになるべきである。私の代では、それは“できるかぎり”そうなるべきであり、それ以上は望まないのがよいであろう。
「(43)」| 共産主義社会においては現在が過去を支配しているならば、それはそれでいいが、ブルジョア社会において過去が現在を支配しているならばまずい。そしてマルクスが主張する共産主義社会というものは、決して満足できるものではないであろう。個人は、自分の能力そのものを正等に評価してもらいたい、という欲求がある、マルクスが主張する共産主義社会ではそれが疎かにされがちだ。
「(44)」| 「ブルジョア社会においては、資本は独立で、人格であり、これに対して活動する個人は非独立で、非人格である。」、とは一概には言えない、大企業のホワイト・カラーはある程度独立していて、ある程度人格が存在する。
「(45)」~「(47)」| 労働者の独立・人格が犠牲になってはならないように、ブルジョアの独立・人格も、ある程度以上は犠牲になってはならない。
「(48)」| ホワイト・カラーはある程度自由であり、ある程度束縛されている、組織に。
「(49)」| 商売が滅びる場合は、出来る限り格差是正に寄与している商売は生き残り、そうでない商売はほろびるであろう。
「(50)」| 自由な商売は、束縛された商売よりかはましだ、しかし現実的には商売は決して自由ではない、大企業の寡占が存在する、個人が自由に商売をやったところで、今までのやり方ではたかが知れている、しかしその企業が無駄なホワイトカラーをリストラし、労働者の賃金を大幅に上昇させるものならば、どうだろうか?
「(51)」~「(56)」| 私有財産は一気に廃止しない方がよい。私が前述したシナリオで、労働者と資本家の格差は是正されるべきである。
「(57)」| 2012年現在、このような宣言が労働者によって行われる瞬間は訪れなかった。何が原因だったのだろうか?共産主義がブルジョア階級を廃止してそこに直接プロレタリア階級を置く、ということを目的にしたこと自体が間違いではなかったのであろうか?
「(58)」~「(61)」| 私は何度も繰り返し主張するが、格差是正は“超漸進的に”行われるべきである。
「(62)」| 1838年に正義者同盟では共産主義的綱領が採択され、最初の共産主義団体となって以来、2012年現在で170年余りを経過するが、「私有財産の廃止」、ということは共産主義国以外では行われなかった、そして共産主義大国であるソビエト連邦では、“ゴルバチョフ”の“ペレストロイカ”によって共産主義は、“失敗”として幕を閉じた、そこで見受けられたことは、やはりここで異論として扱われている「怠惰」であったであろう。そもそもそれ自体が無理だったのではないか?ここで浮上することは、時代において、共産主義社会では、完全自動ロボットが開発されるまで、平等が達成されても、人々はノルマ達成まではある意味“むち”で打たれる必要があり、その役割を持つ管理人のような人間が必要だったのではないか?ということである。そこで私としては、“マルクス主義”は私に、ひらめきを与えてくれる一つの思想ではあるが、しかし人類はマルクス主義によって、要らぬ横道にそれたのではないか?という考えが思い浮かぶ。人々はマルクス主義を鵜呑みにして、マルクス主義それ自体に過ちが内在されている可能性について、あまり議論して来なかった。
「(63)」「(64)」| 「この社会では、働くものは儲けない、儲けるものは働かない」ということは一面ではあるが、儲けるものは、その資産そのものによって、その身分は保証される、ということがある。マルクスは、資本家がある分は取り分があることをまるで考慮していない、それは、初代の者がリスクを背負って創業して成功したということである、開発した分である。ブルジョアは製品を開発した分は取り分がある、ということがある、しかしそれは、出来る限り開発者そのものに支払われるべきである、そう考えると、それはあまり行われていない、ということが明らかとなる。 ここで浮上することは、時代において、共産主義社会では、完全自動ロボットが開発されるまで、平等が達成されても、人々はノルマ達成まではある意味“むち”で打たれる必要があり、その役割を持つ管理人のような人間が必要だったのではないか?ということである。 そして資本主義社会では、まずは数社の大企業による、ある程度の市場独占、ということが生じる、それは“寡占”の状況である、そして価格競争が行われる。現代経済学によれば、価格競争によって、大企業はまるで企業が利益を生み出さなくなるまでになる、ということである、多くの日本の大企業はそのような状況であるか?そうとは言えない、というのが私の仮説である、それは、日本の大企業は、いらぬ“ホワイト・カラー”を雇っている、その分日本の大企業はリストラし、必要最低限以上のホワイト・カラーは雇わず、そこで節約して浮いた金を出来る限りブルー・カラーに分け与えるべきである、というものである。そうすると、大企業と中小企業とでは、ブルー・カラー同士で格差が生じる可能性はある、そこで、大企業は、雇っているホワイト・カラーが少ない子会社・孫会社(工場など)には、高い報酬を与えなければならない、ということが考えられる。
「(65)」| 資本が無くなれば賃金労働もまたなくなる、ということはまずない、社会の要請から、労働者は必要とされる、そして私がこの著書の最初の方で示したようなプロセスで、出来る限りの格差是正はなされるべきであろう、しかし、それらは、最低限検証が必要である、検証によってそれは相応しいやり方ではない、とわかった時点で、私が提示したやり方は、なされるべきではない、もっと急進的なやり方がよいのであればその方法を取るべきである、しかしマルクス主義は私にとってはあまりに急進的過ぎて無理だ、と言わざるを得ない。しかし急進的なやり方が、私のやり方をよいと思った大資本家が、労働者が行った、発見・発明などから成立した事業などに積極的に投資することで、それがもたらされたならば、私はそれは大いに結構なことである、と思う、しかし資本家はそう易々とはそれらを押し進めないであろう、そのようないわば新興勢力に無益だと分かっていながらも対抗し、またその芽を摘み取る様なことも行いかねるのではないか?しかし資本家にとっては、一方ではある意味よく、一方ではある意味悲しいかな、この著作に提示されたことは、ほとんど最低限度の超漸進的発展なので、誰がどんな急進的な方法を取ろうが、歴史の底部で勝手に推し進められて行くことが予想される。
「(66)」| それは余りに急進的すぎる、ということが一因している、と言わざるを得ない。
「(67)」| 人間は本能的な部分でまずは“便利”を追い求める、その点からして、便利を現実的に生み出している資本家は、世の中から大いに必要とされる、そこからブルジョア階級にとって階級的財産の終わりはなかなかそう訪れないであろう、現に2012年それは、訪れてはいない。
「(68)」~「(70)」| それは一面そうだな、認める、しかしそればっかりではないだろうに、そうだとするならば、人々の9割は皆、小中学生のときに、要らぬ教育を受けているということになる、まあその可能性もあるかもしれない、しかしそう簡単には言い切れぬであろう。そして教育は、科学向きの人間を偏差値、という尺度で選り分けする、ということもプラスしてあるだろう。それの主役は、本来は科学者であった。ブルジョアは元々は、副主役であった。しかし大きな科学的発見があまりもたらされないようになって、ブルジョアは遂には主役の座に自ら名乗りを上げたのであろう。そしてブルジョアとして、ブルジョア的観点から、科学万能主義を大義名分として、人類にとって、余計なお節介を企てたのであろう、そしてその観点から、人類にとっての従来の道徳を超えた完全道徳を目指したという面については余計なお世話ながらもその試み自体は評価されてもよい部分ではないのか?
そして多くの子供達は、スポーツにのめり込み、その教育から逃れようとはするが、誰もが敗北者となって、その末路として労働者になって行く、ということが多く生じたのであろう。
「(71)」 そして欧米そのものが、経験を重視せずに、文章主義過ぎる一面があるのではなかろうか?しかし欧米は科学的思考と国語力のどちらを取るかと言えば、科学的思考を取るであろう、そしておよそその二点で学力、というものを測る。そして西洋のカント以来の哲学は純粋文章主義であろう。それに比べると、学問について言えば、元々科学的思考自体が無かった東洋では、文章重視主義でありつつも、記憶力主義であり、それによって科挙などの試験が存在した、ということがある。それを補うために、経験主義が存在したであろう、それが、東洋の禅寺で見受けられることである、それ以前にDNA主義があったのであろうが、東洋人は主に武力を重んじ、学問全体を軽視した、ということがあるであろう、それかあまりに古代の文物を重要視しすぎて、それについての批判が行われなかった、ということが考えられる、それが一緒くたになっていた、ということも考えられるであろう。
「(72)」~「(73)」| 古代の支配階級の所有、封建的支配階級の所有は、理想的に次の支配階級に受け渡されなかった。ブルジョア的支配階級の所有がブルジョア・プロレタリア両者にとっての理想的所有になるためには、理想的プロセスを必要とすることが考えられる。マルクスが主張する、ブルジョア階級の支配する所有のプロレタリア階級への所有の移譲ということは、理想的プロセスとは言い難い。
「(74)」~「(79)」| 「家族の廃止!」これは、“極東文明日本分派における、正義の哲学”に抵触する。あってはならない。極東文明日本分派における、正義の哲学は“利己主義と道徳の両立”を試している。そして、極東文明日本分派における、正義の哲学では“論語”の挙げる道徳概念として、高いものとして、“親孝行”を考える。極東文明日本分派における、正義の哲学ではその復活を企てている、そしてそのために、究極的に“夫婦”に愛を捨てることを薦める。そこにおいては、利己主義と道徳の両立が可能である。それはその延長上に欧米における極東文明日本分派の使い道を教える。そうすれば、ブルジョアが家族喪失と公娼制度とがプロレタリアに強いられることはない。
「(80)」「(81)」| 愛を誓う夫婦は、子供を持ったとしても、家族未満である。極東文明日本分派は、愛を持つことはなくとも、親孝行を持っていた。男児は基本的に母親孝行を行い、女児は基本的に父親孝行をする、という。
「(82)」「(83)」| 愛を抱き、子から搾取する、これが欧米の伝統なのではないか?そして愛は無くとも親孝行はする、これが日本人の体質にそもそも合っているのではないか?
「(84)」| ここで私が主張したいことは、ブルジョアに愛、というものがあり、親と子の親密な関係があったとしても、“金の切れ目が縁の切れ目”、というような状況ではないか、ということである。しかし、であるからと言って、江戸時代の極東アジアの一国である日本の親孝行などが素晴らしいものであった、と言うつもりはない、しかし江戸時代は、公娼制度のようなものが存在していた、と同時に、親孝行もある程度は存在したのではないか、ということである。それが、明治維新以前の日本の道徳関係の原風景に近いのではないか?それは公娼制度のようなものはあまりよいものとは言えないが、それと引き換えに、親孝行が存在していたならば、それは見逃してはならない、極東アジアの美質の一つであったのではないか?
「(85)」~「(88)」| 多くの子供達は、ブルジョアが与えるこの胡散臭いものに早くから気付く、そしてそれには嫌気がさし、スポーツの世界を憧れる。そして多くの子供達が、厳しいプロスポーツ選手になる競争に負け、労働者に成り下がることを、自ら認める。
「(89)」| 欧米のプロレタリアには、愛のようなものが存在しなければ、親と子供の特別な関係も存在しないならば、その状況は、金の切れ目が縁の切れ目、という状況であることが考えられる。
「(90)」~「(93)」| 婦人の共有はいただけない。私は結婚するのであれば、少なくとも一人で満足する相手を見つけ出す、その相手は見出したが、私の思いが彼女に届くことは無かった。そして「単なる生産用具としての婦人の地位の廃止」というものが、マルクス主義の一つであるならば、それはマルクス主義の中で、なかなか見つけることが出来なかったいいことの一つである、と私は思う。
「(94)」| ここで可能性の一つとして気付くことが、科学的思考に長けているものが、欠落しがちな能力は、現状の自分の境遇を的確に知る能力である、ということである。
「(95)」~「(98)」| マルクスの著述からは当時の欧米の状況を窺い知れる情報を仕入れられる、という点だけを見ても、それは意義がある。そして、マルクスの主張から、もっと適正な、共産主義者が歩むべき道を見つけられれば、マルクス主義はその点でも有意義である、ということは言える、しかしマルクス主義によって、多くの元々純朴な人々がその多くの欠陥が含まれた思想によって、洗脳されたのであれば、その被害は甚大であった、と推し測ることが今では可能だ。
「(99)」~「(101)」| 内密にしている婦人の共有の方が、公然の婦人の共有よりも罪深い、“オネスティー”の不在、という点において、なお、この発言によって、私は私的であり、偏向している、と自ら分かっているのに、その性質を変えようとしない、既存の大きな勢力に、一種の不満をもたらすかもしれない。
「(102)」| 国民性、という括りが、国家対国家の乗り越えるべき対立を生み出している可能性は見逃せない。ここで私は主張したい、現代日本人において、国民性という括りはある程度は必要ではあるが、それと同時に日本人が意識すべきことは、欧米のブルジョアジーが主導的にもたらした、国際社会の一員である、という意識であり、世界の小国家にとっての国際社会の一員でもある、という意識であり、その上可能であれば、アジア人としての意識であろう。そして日本人とは一言で言っても、まずはどこで生まれたかによってもその性格はかなり変わり、先天的後天的いかんに関わらず、恵まれている、恵まれていないの違いによってもその性格はかなり変わる、ということである、そこにおいて、日本人としての統一見解を打ち出すことは、ほぼ不可能であろう。しかし、日本の一般人における統一見解、というものを打ち出すことは、かなり可能であろう、それはある程度のお約束によって、裏打ちされたことであるだろう、そして、日本の一般人における統一見解、というものは、私は想像は可能であるが、それは基本的に非常識な私の考えと一線を画す。
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木村拓哉は、バイトといういらない経験をしたようである。バイトというものは苦痛である、ということを知るために必要なだけである、それは多くの場合は、労働者に対する共感の元となる。多くのCMの広告主である大企業にとっては、木村拓哉は面倒くさい存在になった、というところが率直な意見であろう。
日本企業が韓国企業に勝つためには、サムソンが輸入する原材料に輸出規制を行うことがまずは考えられる。
日本のテレビ業界は改革されなければならない、それは視聴率至上主義から、実価値重視主義に変わらなければならない、ということである。つまりは、多くの大衆の気持ちをつかむ番組作りから、本当に価値が高い番組を作るようにならなければならない、ということである。
2012年現在、私にとっては子どもの将来など、どうでもよい、ということがある、私は今までに大きな可能性を持った子どもなどを見たことがない。
思考の一つの形体としては“多重思考”というものがある、と思う。
ブラジル人は、私を選ばずに、福山雅治を選んだのであろうか?今のところは不明だ。一方で私を受け入れてくれている可能性もある、とは思う。とりあえずは、私について言える事は、あまり知らない国のことについては、あまり要らぬ勘繰りはしない方がいい、ということであろう。そこでブラジルについて言えることは、ロナウドは価値がある男だ、ということぐらいだ。
私は、既存の芸能界をある程度は評価し、あるものは高く評価している、高く評価しているものはお笑いである。私がある程度しか評価していない、既存の勢力は結託して、生き残りを試みるであろう、しかし、その私がある程度しか評価していない、既存の勢力は、世界の漸進的発展から逃れることはできないであろう、多くの日本国民は、その現状に飽き々々している。私がある程度しか評価していない者達との無益な対立を私は求めない。
私はまるで大企業に価値を見出されなかった人間である。大企業が文系男子に求めることは、適当に面白いことを言う能力であろう、22歳当時の私はそれを持ち合わせてはいなかった。であるからと言って、私は日本の大企業と無益な対立を求めているわけでもない。
小沢新党として、考えられる、政治理念は、“剛腕維新”に書いてあった、考えを元に構築することが考えられるであろう、それをとりあえずの軸として、オープンな議論を行う党、というものがまずは考えられるであろう。そこでまず第一に掲げるべきことが、消費税増税反対、ということであろう。消費税が10%に上げる法案が可決されても、小沢新党は、消費税を10%から5%に減税する、ということを公約として、掲げれば、多くの国民は、とりあえずは小沢氏を支持するであろう、そこにおいては、民主党に匹敵する出馬者を立てることが考えられる。
ドアを開けっ放しにしたまま、冷房を付けている店には、20万円の罰金ということであるが、これは、国家主導の政治の弊害であり、多くはその国の人々の利益に逆らうことであろう。ここで、その国には、国家対人々、という対立構造がどんどん大きくなって行く、ということが考えられる。
脱法ハーブについては、それぐらいやっても、いいじゃねえか、というのが私の正直な気持ちである。まあ、それで幻覚や幻聴を経験する人は不幸ではあろうが。そこで調べなければならないことは、脱法ハーブをやる人間の総数のうちに幻覚や幻聴を経験する人はどのくらいか、という実数の調査であろう。
何か不当なことを行われたならば、復讐はしない方がいいであろう。そして不当なことを行われた者は、こう言うべきであろう。「お前、俺に~やったよな」「やった」「それははっきり言って認められない」「そっか」「だが俺は、お前に一切復讐しない、なぜならば、俺は寛大だからだ、それは、俺とお前の関係において、貸しだからな、お前その貸しきっちり返せよ」
“成功から学ぶものは何もない”とはコマーシャルでは言っているが、成功から学ぶものは、それはある程度は有益ではあるが、多くは無益だ、ということであろう、それは、現世限りの限られた幸せである、という点において。
日本人で、高い幸せを求める者は、大企業に就職できれば、一生安泰、という安易な発想を捨て去らなければならないであろう、自ら生み出すものとして、立脚するためには。しかし日本が戦後行って来た苦労は無駄になってはならない。そう考えると、日本人は、どうしても、資本主義と修正共産主義の合体を成し遂げなければならない。
ノンストップの坂本昌之の路線は、基本的に無理がある。まず、実際に何十年間も、地道に働いていた人々と、一芸能人が、気軽に話す、などという光景は目を覆いたくなるような光景である。坂本昌之が料理を手伝う、ということだが、基本的におかずはお惣菜で十分だろ。
ファンケリミットダイエットについてだが、そのようなことをするぐらいならば、恵まれない土地の人々に食料を寄付すべきだろ。
毛皮は世の中から無くなるべきだ。
私は育ち盛りのときに肉や魚は十分に食べられたから、それで満足だ。そして私は模造肉が開発されたならば、率先してそれを食いたい。
競馬の馬は可哀想だ。
いらぬコマーシャルが流されれば、無益であると感じたならば、私は遠慮なくそれを指摘する。
SEIYUの宣伝は目に余る。
サムスン電子敗北へのシナリオ:サムスン電子が自社製品に使用している日本製半導体の輸出を禁止することがまずは考えられる。しかしこれは姑息な手段なのでできれば使いたくはない。
まずは、日本の家電製品企業が、国内における、無益な競争を止めることが考えられる、基本的に、家電企業に勤めたこともない私が言うのも差し出がましいが。
そして日本企業が後進国に対して製品の値段を安く設定し、後進国の人々も製品が買えるような状況を作らなかったことは、反省点として考えられるであろう。しかしそれはダンピングではないのか?
民主党野田派と自民党と公明党の連立は野合である。それは事実上の官僚主導の政治の黙認であろう。それに対して小沢氏は政治主導を主張している、どちらを選ぶかと言えば小沢氏の方である。
私はなぜ小選挙区制にしたかの理由は聞きたい、中選挙区制の方が、様々な党が活躍できて、バランス的にもいいのではないかと思う。
私は、小沢氏に反対する人々の気持ちがわからない、小沢さんの話を聞いているところでは、小沢さんが間違ったことを言った、のような記憶が無い。
■かつての日本軍が、従軍慰安婦場を設置したとはまず考えられない。地元の人間が勝手に設置したのではないか?
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「(103)」「(104)」| 労働者でも祖国はあるだろう。
「(105)」| プロレタリア階級は政治的支配を獲得するためには、自ら生み出さなければならないであろう。小児に求められることは、その意志と実際に生み出すことをやってみることである、やってみなければ生み出せるか生み出せないかはまずはわからない、生み出す、ということをやり続けると、その能力は上昇する、それは若い者が自由が効く学生の頃にまず一度はやってみるべきことである、そして若い者に求められることは、既存の大人社会の実権を握る勢力に媚要ることではない。無駄に安逸をむさぼることでもない。
「(106)」| 2012年現在、主要先進国は主に二大勢力に分かれている。
「(107)」「(108)」| ブルジョア階級の解放は、階級闘争の結果にあるのではない。その点において、鄧小平が日本社会を見て言った、「経済が全てを変える」という発言は、一面では正しかった。しかし、それは、全ての事物が整っているわけでは無い、事実上の資本主義の導入であり、ブルジョアが主役の経済体制の導入であった、そして鄧小平は日本社会に内在されていた弊害の芽を見逃した。現状では、どの社会にも問題があるのが実情である、プロレタリア階級は、自ら政治を行うことによって、現状の社会を改善して行かねばならない。しかし私が求めるものは、ブルジョア階級とプロレタリア階級の対立ではない。
フジテレビはいつまで、三文脚本家を雇うのか?大体において、人の動機を一つの理由で括る、ということが、もはや旧世代の手法である。
一弁護士が、110番通報の情報など入手できるのか?このドラマは酷過ぎる。
北朝鮮との国家間対立には、出来る限り、軍事力の行使は行われるべきではない。北朝鮮のチェジュ思想、というものも、救い難く酷いものであるが。東西のイデオロギー的対立が無くなった現在、韓国と北朝鮮が行うべきことは、対立ではなく、統一である。その点で私は、韓国で支持する政党は、ウリ党である。
小沢氏は新党を立ち上げ、出馬する候補者を、民主党と同じ数立て、自民党と民主党とガチ勝負を挑めば相当善戦するであろう、まず、消費増税賛成、と言っている、議員に、最低限その理由は何かを聞きたい、明確な答えを持っていないのが現状であろう。
小沢氏について行く議員が少なければ、新しい人材を世の中から多数求めればいいであろう。国民は、自民党にも民主党にも公明党にも投票しないだろう、それは事実上“小沢切り”という低い政治姿勢の元における野合であるからだ。そして官僚主導の政治の黙認であり、政治主導ではないからだ。そして消費増税、という欧米のやり方への追従であり、それは、いわば、欧米政治における、国家主義の負の面で、それは受け入れるべきではないからだ。欧州では、国家予算は、削減が許されない、そして、税額は年々増加しているのが現状である。それは既存の一部の勢力の利権である、そしてやはり、実態は役人天国なのであろう。
北朝鮮が主張する、“米国が挑発の張本人である”という意見は、受け入れられる。イ・ミョンバクのハンナラ党は事実上北朝鮮との対立を深めている原因である。北朝鮮との親善のためには、次の選挙で選ばれるべき党は、ウリ党である。
浅田真央は腹立つ、銀しか取れなかったくせしてよ。
ガン・ルールー
ももいろクローバーZというのは、何がいいのかわからない、私は何がいいのかわからない、しかし世の中の男性が求めているのであろう。
竹の子族は私が尊ぶべき先輩達だ。
480兆円の国家予算を減らすには、最低限それで、職を失う人々に新たな職を与えられなければならないであろう。そこで、米・共和党が主張する、小さな政府が実現されれば、多くの職にあぶれる人々が出ることが予想される。だからそれは基本的には行われるべきではない。そこでまず行うべきことは480兆円の国家予算は、適正価格で、各事業に使われているか、ということを調査することである。私の予想では、国は、各事業を担当している事業社には大分多めに支払っている、ということである。
現代の子供は、心をこめて発言する、ということが無いようだ。
イ・ミョンバクは認められない、そこで見出すことは、イ・ミョンバクを許せない、大嫌いだということは、北朝鮮人民と、気持ちは一緒だ、ということだ。従軍慰安婦についてだが、かつての日本軍がそのようなことを行ったとは、到底考えられない。地元の朝鮮人が勝ってに設置したんじゃねーのか?そして礼儀を弁えた人間は、通常、同じことで、二度以上の謝罪を要求することは、普通はしない、そこで、浮き彫りとなることが、イ・ミョンバクが礼儀を弁えていない、恥知らずな男である、ということである。そして結果的には、韓国人は、世界中の人々から、嫌われる、ということになる、イ・ミョンバクが原因で。だから日本政府は、イ・ミョンバクに謝罪する必要は無い。イミョンバクは悪質なゆすりたかりでしかない。そこにおいて、イ・ミョンバクに対して、平身低頭して出る必要は全く無い。
避難民の半分にしか、仮設住宅を準備する、というのでなく、避難民全員分の仮設住宅を準備してはどうか?