ヘーゲルが判る!「“小論理学”から随想されること」3 | 三上祐一のブログ

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 独自の日本大改革案を掲げる三上祐一のブログです。 なお私はこのブログの著作の一部がウィキペディアの「三上祐一」の項に投稿されることを認める。 http://yuusukeueno.blog40.fc2.com/

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 「(1)」│ 人の心は無限の一部である可能性がある。それは捉え方によっては、無限に限り無く近づく。しかし人はその無限に辿り着くには、手立てが必要である。それが、科学の集大成と人間の歴史的知識と私達それぞれの経験によってである。そしてそれらの集大成によってである。集大成における疑問はできれば議会で解き明かされるべきである、現在生きている人間達は、真剣に議論すべきである。

 「(2)」「(3)」│ 自由・精神・神という概念は、感覚の総合力(感覚の記憶)によって、かなり無限に正確に感じ取ることができる。それは人間の潜在能力の出来る限りの最大化(努力)によってももっと無限に正確に感じ取ることができるようになる。

 「(4)」│ 「感覚、経験のうちになかった何ものも思惟のうちには無い」ということは正確には言えない。「思惟の一部を勘が担い、有る程度を感覚、経験が担い、有る程度を数学的演繹が担う」と言えるであろう。とにかく、ヘーゲルが、事象をほとんど有る・無いで切り捨てて語ること自体が、哲学を語るに致命傷的なことである。それは、プラトン・アリストテレス・カント・ヘーゲル・ニーチェ・マルクスに共通して言える事である。

 「(5)」「(6)」「(7)」│ 「感覚の総合力が心であり、それは右脳と直結している。そして思惟とは、右脳と左脳で考えることである。であるからして『思惟のうちになかった何ものも感覚のうちにはない』」 ここに書かれている、思弁的哲学の考察を根拠に、アリストテレスの著作を読むのは後回しにしようと思う。でもそういうわけには行かないかもしれない。 ヘーゲルのここまでの節における、論の展開からすれば、直感が普遍的な命題の一部ということになる。ここで私は多くは、大元ではここの節で主張されている考えとほぼ同じ考えである、ということが明らかとなった。
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 「(1)」│ 科学の集大成と人間の歴史的知識と私達それぞれの経験が多くを知る手立てである。そしてそれらの集大成における疑問はできれば議会で解き明かされるべきである。

 「(2)」│ なぜそれが必然性につながるのか、理解に苦しむ、それは一節でヘーゲルが勝手に規定したことそれ自体なのではないか?

 「(3)」│ ここで、私の考えが一歩進歩した。それは宗教・哲学は、人間は科学の集大成と人間の歴史的知識と私達それぞれの経験(できれば多くの複数の場における経験)とそれらから出現する問題点を議会によって、一つ一つ克服して行くことによって進歩して行く可能性があるということである。

 「(4)」│ 経験から、可能性として濃厚である、というところまでは分かり得る、それが真理か真理でないかは、上の世代の者は、下の世代によって、実験して結果を得る、ということは可能である、しかしその実験、というものは、下の世代にとっては、犠牲となるばかりであり、何の成果も得ることが出来ないことでは駄目であろう。 ここで考えられることは、真理は、決して短文では言い表せない、ということではないか?

 「(5)」「(6)」│ 経験が、現代のように学術に秀でていることにとって変わられているならば、私達は、科学的学術・歴史等によって、客観的真理を誰もが得ているとも言えないか?

 「(7)」「(8)」│ ここにおける「したがって~」という論理展開が理解不可能である。「普遍的な諸形式は、概念である」ということは、ヘーゲルが規定したことではないか?

 「(9)」「(10)」「(11)」「(12)」「(13)」「(14)」│ ここの(11)の内容は、この節の(4)と矛盾する。そして(14)は、「例えば、思弁的な論理学は、以前の論理学及び形而上学のうちで、合っているものは合っているものとして引継ぎ、間違っているものは間違っているものとして認識し、これらを改善する義務を持つ。そして思弁的な論理学は、思惟形式、法則、および対象で合っているものは合っているものとして引継ぎ、間違っているものは間違っているものとして認識し、これらを改善する。そして同時により進んだ諸カテゴリーをもってこれらのコテゴリーを発展させ変形すべきである。」と著述されていたのであれば、価値が高かったことが考えられる。

 「(15)」「(16)」│ 私は、普遍とは出来る限り多くの利用できるアイテムはアイテムとし、使用し、表現すべきことである、と考える。その事実からして、普遍が概念のみに限られたことではない、と考えることが可能となる。そのかわりに洞察者は、表象・音声を与えられたならば、それを深く洞察する能力を持たなければならない。それは、人間は、多くの複数の経験を得ることで可能となる。─────────────────
一〇

 「(1)」「(2)」│ 哲学的認識方法は、出来る限り多くの利用できるアイテムはアイテムとし、使用し、表現されたならば、それは過ちの塗り替え・正しさの蓄積によって、ある歴史的経過を辿るであろう、それは哲学として語ることはもはや相応しく無いかもしれない。そして出来る限り絶対的な対象を認識する能力を持つことは、現代人では、複数の多くの特別と普通を含む経験を持つことによって可能となることが考えられる。

 「(3)」│ 前述の方法で出来る限り絶対的な対象を認識する能力を持つことが可能となったならば、それを人間は行って行けばよいであろう。そのためには、大勢の人々に出来る限りの機会均等がもたらされなければならない。

 「(4)」~「(11)」│ 「認識作用の吟味ということは、認識しながらでなければ不可能である」、今のところはそれは、主観と客観を用いて自分自身の心理についてしか言えないが、人間を表情から、その心理状況を読み取る社会科学等が発展すれば、他者のことについてもある程度認識可能となる可能性はある。 「(12)」~「(13)」│ まず、仮定的な、蓋然的な哲学思惟とは、現代においては、あらゆる時代の哲学の分析の結果得られることが考えられる。誰もが複数の場における多くの普通を含む特別な経験ができるようになれば、人々は、誰もが革命的に(的には的にまでである)あらゆることを推理可能となる可能性がある。その誰もが、それぞれに、議論可能な、民営議会というものは必要となる、それは日本国に限って言えば、1億3000万人が同時参加可能でなければならない。米・英・仏・露・中・韓・東南アジア諸国・中東諸国・オセアニア諸国・南米諸国・アフリカ諸国・日本が参加するならば、60億人ぐらいが同時に参加可能な、議会、というものを想定しなければならない。しかしそれは不可能では無い。

 「(14)」│ そうとは限らない。上の世代の者が、下の世代の者にとって、その経験の結果、その世代の者にとっての利益となることについては、実験することが考えられる、そしてその実験の結果、実利益を得るのは下の世代であることを実験すれば良いのである。しかし、犠牲は出来る限り人類にとって薄くなければならない。

 「(15)」~「(16)」│ 2012年現在において、ヘーゲルの時代の「普通の方法」ということは、もはやどうでもいいことであろう。
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一一
 「(1)」│ やっぱ結局は規定してるんじゃん!と言いたい。

 「(2)」「(3)」│ このヘーゲルの『小論理学』で何度も、言及されるものについては言わなければならないが、概念のみが哲学の形態ではないということが、ここの文章で示されていると言える。哲学の形態としてはまずは人物の表情が考えられる。人は経験によって、ある表情をしている人間がどのようなことを考えているかが解れるようであるべきである、人々がそのようであるためにはまずは多くの人々が出来る限り金銭的に機会均等であることが望ましい、と私は考える。

 「(4)」「(5)」「(6)」| 「より高い要求は、単なる悟性的思惟のこうした結果に反抗する。」ならば、低レベルな解決を行う悟性的思惟の中でも、応用可能なものは出来る限り応用すべきであろう。

☆「(7)」| 自分であり続けることが基本であろう。人はある程度は後天的に改善可能である程度は先天性によって括られている。ヘーゲルによれば、感情や直観や表象等も思惟に含まれるということだったようだったと思うが。

 「(8)」| 「思惟の本性そのものが弁証法であり、悟性としての思惟は自己否定、矛盾に☆陥らざるを得ないという洞察が論理学の主な側面をなしている。」ということだが、思惟そのものが全て概念であるわけではない、しかしここでヘーゲルが言いたいことは、思惟そのものを出来る限り、概念で把握し、展開すべき、という哲学的思惟のことか?ならば話はわかる。

 「(9)」| ここも、思惟を哲学的思惟と解釈すれば、話は解る。そしてこのヘーゲルの話には暗黙のうちに、進化が前提となっているであろう、しかし人間は、進化と退化を同時に行っている可能性がある。私の世代から35年後の世代を見てもそれを私は感じる。まずは、最新の世代の多くが甘やかされて育ったことが見受けられる、その結果として退化が伴うことは大いに考えられることである、それはその世代が親の世代を信じ切る、と言う行為として、今のところは見受けられる。

 「(10)」| 直接知は、多くの科学的学術研究と、多くの複数の場における普通を含めた特別な経験を行うことと、正しい歴史認識を持つことで、多くの人間が持ち得るものであろう、というのが、それぞれの個人に見合った、経験・教育ということが考えられることでもある。
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一二 「(1)」「(2)」 人間は、科学的学術の集大成を客観的素材として、経験の事実を主観のあらゆる判断の素材として、歴史を国々のある程度の真実として扱うことによって、アブダクションを経てそれらを基にそれらを可能な限り、有益な可能性があることを思い付き、犠牲を伴わない実験によって検証することが考えられる。真理に近づける(高める)ことが可能となる。────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────三五 物事は究極的には、反対概念、というものを持たない。実は世界中のそれぞれの人々は、元来、自分の言葉の元(根本的概念対置感覚~思想に当たるもの)を持っている。それを、人々と共通の概念で考えるために、その国の公用語を後から覚えるのである。であるからして、実は世界中のそれぞれの人々は、人それぞれに価値観があり、偶然と必然、外的必然と内的必然、作用原因と目的原因(言いかえれば因果性一般と目的)、本質あるいは実体と現象、形相と質量、幸福と苦痛、善と悪などの反対概念は、現実的には存在しない可能性がある。本質あるいは実体と現象について言えば、フッサールによって、現象を本質あるいは実体と同義として捉えている向きがあり、善と悪について言えば、極東のまずあげられる徳の一つとして考えられる“親孝行”を持つ者にとっては、善とは内実、究極的には母親の幸せであり、悪とはライバルの幸せ、ということも考えられる、そしてその反対概念と考えられるものは、実質的には、左右対称のようなものでもない。 三六 実在性と否定性との対立は絶対的ではない。まずは、人間による諸活動があり、そこから無限に推理して集めた有益な思考の集合物による結実が神である可能性がある、そのように考えると、神は、将来的に生み出される存在である可能性もまあある、人間的には将来的に生み出されるのであるが、そのものは、古来から神として存在していた、といった感じのことになるのであろうか。 有限なものの要領のよい無限的蓄積が無限なある事象のことを意味する、ということは考えられるであろう。そして言葉としては、一片のものとして語ることができるが、それを正確には著述できない、ということで、この問題は充分解決されうる。例えば、神は最初の人間を生み出したものでもある、とは言葉の片鱗としては、表現できるが、その全体は表現できない、というようなことである。ここにおいて、神は、将来的に生み出される存在である可能性もまあある、という推測と、“神は最初の人間を生み出したものでもある”、とは言葉の片鱗としては、表現できることと推測したということがある。これらの辻褄を合わせた考え方の一つとして、“永遠回帰”という思想が浮かぶが、永遠の将来の先にあるものは、絶対であり、それが絶対でありつつ、その神が人間を生み出したものと重ね合わせることが可能、ということは考えられるであろう。有限と無限の要素の和はある程度の有限と無限、と考えられる、そして無限の二倍は無限である(人間界の現象としては永遠の将来の先としてと、人間を生み出したものとして、考えることは可能かもしれない。ともすれば、永遠の将来の先として神が出現したときに、それは、無限から有限に格が下がる、ということが現象として起きている、ということもまあ考えられる)。そしてそれらのものは、各自によって、著述され、それらは要領良くあらゆる人によって、一つの膨大なものとして編纂されるべきである、という考え方も、まああるであろう。人が覚えておかなければならないこと、それは、概念は、人間固有の癖であり、現実的には、反対概念のようなものは、実在しないことが考えられる、ということである。三七 私は、様々な複数の経験と、学問を行うことによって、真理というものは、ある程度までは、つかめる可能性がある、と考えている。私は、多くの場合は、2つの概念を並べ立てて新しいことを表現しようとする。多くの過去の哲学者は、充分にそれらの作業を行っていない、行っていない以上は、極東文明日本分派における私がその作業を担当することは、大いに意義がある可能性がある、と私は“勝手に”思っている。 ある方法論は、ある方法論の逆理論で展開可能な可能性がある。私がここで、主張していることは、いわば、ヘーゲルが『小論理学』三七章で“B 客観に対する思想の第二の態度 一 経験論”で語ったことの、部分的逆理論であり、それを二つの概念で表したものである。 三八 私は、様々な場における複数のある程度の経験と、ある程度の学問を習得することによって、真理というものは、ある程度まではつかめる可能性がある、と考えている。これは、私が、それそのものから(様々な場における複数のある程度の経験と、ある程度の学問を習得することによって)、それで得たことの推論によって、知覚、感情、および直観の内容を普遍的な表象、命題、法則、等々の形式へ“ある程度”高めはする、とある程度感じたことである。その理由として考えられることが、学問(科学)は、客観に主に関わることであり、経験は主観に主に関わることであるからである。真理が無限を含む場合は、それには有限に推論された表象が量の多をもってして近づけることである。経験論単体がそうしたことを行う場合は、これらの普遍的な規定(例えば力)は、知覚から取られたものという以上の意味および妥当性をそれ自身で持つことは決してなく、現象のうちに示されうる以外の連関は正しくないものと考えられているのである、とヘーゲルが『小論理学』三八章で主張している。人類は150年をもってして、確実に進歩を遂げた、そして、人類は人生において、様々な場における複数の経験が行える様になった。ここでヘーゲルは人間は経験を一つしかできない、と決め付けているのではないか、と私は感じる。私は、感じることも、主張を行う上で有意義に利用可能である、と思っている。なぜならば、感じることが、例え、それが感官の一つとして限定的に感じられることであったとしても、それは、真実の一部であるに変わりは無い、と考えるからである。そして感覚は人間としては、記憶も可能だ。 客観的なことと、主観的なことをある程度両立させれば、確実に真理にある程度有限ではあるものの近づける、と私は考える。そして単にあるべきもの、従って現に存在しないものは哲学の知るところではない、とここでヘーゲルは主張するが、その結論は少々乱暴なのではないか?と私は思う。なぜならば、非真理も真理のありかを的確にさぐるために、ある程度知ればそれによって、真理をある程度推論可能である、と私は思うからである。 複数の場において経験したことと、知覚、感情、および直観の内容と、ある程度の学術によって、知覚、感情、および直観の内容を“ある程度”普遍的な表象、命題、法則、等々の形式へ高めるであろう、そして、それは、ある程度(可能性を語るまでにとどめた著述)である限り、ある程度は利用可能であり、それをもってして、それを単にあるべきもの、従って現に存在しないものと括り、それを哲学の知るところではない、という論述は過ちである可能性がある、と私は思う。 徹底した経験論は超感覚的なものを全く否定するか?様々な場における複数のある程度の経験と、ある程度の学問の組み合わせで考えた場合、そうとは言い切れないであろう。そしてその組み合わせは、有限的なものに限られているから、その組み合わせは超感覚的なものを全く否定するか、あるいは少なくとも超感覚的なものの認識および規定の可能を否定し、思惟には抽象と形式的普遍性と形式的同一性の能力しか認めない、ということには、単純にはくくれない、というのが私の主張である、有限なものは有限なものとして、ある程度の量を持っている場合は、無限にある程度近いことを意味し、それはその範囲内で、利用可能である、と私は考える。 そしてここにおけるヘーゲルの著述によって、ヘーゲルの当時の経験論一辺倒の主張は形而上学的なカテゴリーを用い、更にそれらを導きの糸として推理を進め、そしてその場合には推理の諸形式を前提しかつ適用しているにもかかわらず、しかもそれは自分が形而上学を含み形而上学を行っていることを知らず、カテゴリーおよびカテゴリーの結合されたものを全く無批判的な仕方で用いる、という過ちを行っていた、ということを知り、初めて、ヘーゲルの論述にはある程度は有意義性を認めうることを知り得た、ということがある。 そして、欧米の哲学は、読書好きが主流であるから、読書好き本位の偏った主張を行っている可能性はないか?
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確認すべきこと。一〇☆「(7)」| はっきり言って意味が解らない。ヘーゲルによれば、感情や直観や表象等も思惟に含まれるということだったようだったと思うが。
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 P.63l13 「感情や信仰の形をとるにせよ、あるいはまた、表象の形をとるにせよ、思惟一般が働いているのであって」