ドイツは自らの国に制定した法律の呪縛から解放されるべきか?否か? | 三上祐一のブログ

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 ドイツは自らの国に制定した法律の呪縛から解放されるべきか?私はドイツ人はこれだけを心にしっかりと持っていれば良いのではないかと思う、特定の民族の絶滅などは考えない、ということを。これさえしっかり持っていれば充分であろう、なお、私は全ての現代ドイツ人が、当たり前のごとくに、そのような考えは一切持ち合わせていないであろうことを予想する。そうであるならば、次に行うべきことが、ホロコーストの現実の正確な検証であろう、それが世界を全く正しい方向に導く、と私は思うのであるが、これは多くのユダヤ勢力によって、否定され続けるのであろう。しかし私はユダヤ勢力には伝えておきたいことがある、それは、嘘で塗り固められたものが仮にあるとすれば、その維持は難しく、多くの人々を説得するのに難しくなって行くばかりである、ということを、そして人々は内心では、理に適うことに従って行き、ユダヤを疑い始める、ということを。そして偽りの者が偽りであるのに、でかい顔をしていれば、やがてはそれが主因となり、より正しい者が表れる、ということを。

 私の勘というのは大体あっている。デイヴィッド・アーヴィングの主張は大方正しかったであろう。しかし、彼が賢くなかったのは、ある女性に批判され、彼女を訴えたことにあるであろう。デイヴィッド・アーヴィングは雄弁に多くの証拠をもってして語るまでにとどめておけば良かったのであろう、後に生まれた人々はそれが確固たるものであったならば、それにつき従って行ったであろう。先程は、デイヴィッド・アーヴィングを大方正しいと言ったが、では間違っていた面は何か?デイヴィッド・アーヴィングは執筆に当たっては一次史料も見ているが、史料を歴史的文脈から分断し、ヒトラーを英雄化し得る部分のみを抽出し、拡大解釈を行っている点が批判されている、ということであるが、そうであるならば、歴史を語る上では雄弁すぎた、ということも有り得るであろう。 私は、世の動きから、世界の中心に居座る人々の思考というものはどのようなものかをある程度推測可能である。私は「絶対に~」とかいう論法は極力使わない者である。しかし多くのユダヤの人々はこの言葉を極力使わない、という状況から、抜け出せてはいないのではないか?まずは、世界の中心に存在するならば、この難を克服してもらいたい、というのが、私の意見である。それは世界の中心に存在する者のもはや、義務である。その人々が、この簡単なことから抜け出せずに、ただ莫大な資本を持っているだけであるならば、世界の中心に居続けるためには、汚い方法を使わなければならなくなるであろう。汚い手を使っていれば、いつかは、誰も資本というものそのものに、魅力を感じなくなって行き、やがては、資本そのものが力を失って行くであろう。それは、多くの人々が内心では、資本そのものに、そっぽを向く、ということで始まるであろう。 そして、やがては、真に有益な発案・意見を発言し、それに基づき行動する者のそれそのものが価値を帯び、それが、資本とは別な物差しで、扱われて行くことになるであろう。
 現代においては、ブログで、多くの人々が自らの価値ある著作を無料で公表している。そして彼らは収入を得ることができない状況である。彼らの多くは、収入が無いために、いずれ、ブログを発表する場さえ奪われて行くであろう。しかしそのブログが無くなって、そのことによって多くの人々は、喜びを失ってしまったならば、彼らの過去の著作に対しては、ある程度の報酬は払い、彼らにある程度の(質素な生活を送るのに充分な)収入は与え、彼らが価値あるブログを書き続けて行ける様にすることが妥当であろう。