自由民主平等オリジナル発案意見党 | 三上祐一のブログ

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 独自の日本大改革案を掲げる三上祐一のブログです。 なお私はこのブログの著作の一部がウィキペディアの「三上祐一」の項に投稿されることを認める。 http://yuusukeueno.blog40.fc2.com/

 私はマルクスの“資本論”には価値が無い、と思っている。しかし、共産主義者達が唱える、平等には耳を傾ける。そこで、私は、ここにおいて、“自由民主平等オリジナル発案意見党”を結成する。がしかし、自由・民主・平等の三つを唱える以上は、オリジナルの発案と意見を創造する能力を持ち備えた人間ばかりを優遇することは許されない。オリジナル発案意見者も、それが不可能な者もできる限り、平等であることを目指さなければならない。そして自由民主平等オリジナル発案意見党が尊ぶ議論というものが、できる限り自由な議論である。そこにおいては、オリジナル発案意見者は、できる限りの平等を目指す限りは、発案において受け取る収入は、できる限りの低収入確保で満足すべきである。そして自由民主平等オリジナル発案意見党は、徹底的にあらゆる課題については、議論を尽くす。そして成熟した文化育成を目指す。そこで行われる議論、というものは、あらゆる発言者が一斉に発言することとなる、その状況は混沌とした状況であるが、各自が各自に議論の相手を選び出し、その相手に対して議論を行うこととなる。そしてその議論においては、結果として、ある秩序だった正論が出来上がって行くことになる。そしてそれが極められたときに(それは極まるとは限らないとも同時に言えるが)一つ、もしくはいくつか、もしくは多数の対極的正論の構造体が出来上がる、そこにおいては、現実問題と宗教問題をできる限り要領良く解決することをはかる。なお、ここにおいて、私が私の思想の基本的レベルの問題を取り扱ったものが、私が著述した、“優彩(ユウサイ)式魔法の話術 思考法”である、それには、私がこの世において、真剣に取り扱うべき事柄の結論が書かれているから、自由民主平等オリジナル発案意見党に興味がある人はまずそれを読んでもらいたい、そこにおいては決断は切り捨て行為であること、現実問題は、複数の理由が存在し、それらがこんがらがった状況であること(なぜならば、言葉による表現は、現実問題の状況の人間的知見からの表現であるだけであって、ゆえに現実の状況は正確に分析すればする程に、現実状況の表現に近づいて行く)、などの根本命題が3行~5行の短文体でまとめられたものである、それは私が、“自由民主平等オリジナル発案意見党”の暫定総裁でありつつも、将来の正論の成熟を予見して書いたものである。まずは人々は、“優彩(ユウサイ)式魔法の話術 思考法”に異議申し立てを行ってもらいたい、そこで、私が改めるべきものが発見され、より、正論に近づくことが予想される。なお、自由民主平等オリジナル発案意見党は、将来的には、役割正論平等党となる、そしてそのときには、その組織は、もはや、党という括りが相応しくない状況となっている可能性がある。役割正論平等党には成長せずに、一人の役割正論平等主義者にとどまっている可能性もある、しかし世の中は、それが新しい時代の思想として、相応しいものである、と感じたならば、それを受け入れる許容が必要となって来る。私が現在、政治的活動として行っている唯一の行動が、発案・意見の表明である、それはネット上で行っている。この世の中が、私が想定している通りの世の中ならば、それによって、世界は超漸進的に良くなりつつある可能性がある。私が自由民主平等オリジナル発案意見党の暫定総裁である、ということは、理論上不可能なことである、なぜならば、我が自由民主平等オリジナル発案意見党は、まずは平等を目指しているのであるから、平等でなければならないからである、そこにおいて、私は我が自由民主平等オリジナル発案意見党の単なる管理人であることが相応しいであろう。そこで私は、今の段階で自由民主平等オリジナル発案意見党の単なる管理人ということにする。自由民主平等オリジナル発案意見党では、しかし、オリジナル発案意見者は脚光を浴びることとなる、そこにおいては、現実的な不平等が生じるのであるが、オリジナル発案意見者は、できる限りの平等を目指す、ということで、ある程度の平等を担保する。

 そして、自由民主平等オリジナル発案意見党への入党をする者は、私がマスコミによって歪められたこの世界を改革すべき不平等に満たされた世の中と感じていることを、心しておかなければならない。まずは、この党には、現状の世の中の状況で満足を感じている人間は、入党するに相応しくない者である。ここにおいては、私は現状の世の中で一応の満足を見出している者とは、敵対することが運命付けられている。そこにおいて、悲観論者は敵対の中で敵と徹底的に敵対することとなる、しかし私は、それを選ばない、まずは、現状の世の中の状況で満足を感じている人間との妥協案を編み出すこととなる、そしてこれは私のやり方であり、超漸進主義を余儀なくされることとなる。まずは、世の中の現状のある程度の幸福は、守らなければならない、そこで、私には当面は発案・意見の表明が私に与えられる、唯一の政治行動とすることが相応しい、ということになる、しかし多くの者達は、私によってある状況に導かれる可能性がある、それは、はたと気付いたときには、私の発言の多くを採用し、私の意見を当たり前のことと捉えることから始まり、自分が改善されて行っている状況を見出すことである。

 まずは、私は、現状の世の中で一応の満足を見出している者には猶予を与える、それは自分と自分の身近な者だけが幸せになりさえすれば満足である、という気持ちを改善する猶予である。そして私の現状は、自分の身近な者だけにも幸せを与えられない情況である、ということである。そこで私が目指すことが、まずは自分の身近な者に幸せを与えることである、そしてこれが達成されて始めて、他の人の幸せも考えることが可能となる。まずは私は労働者を労働から解放する、“自動ハンドシステム”、というものを作り出した、この開発に人類の英知が集結されることをまずは望む。そしてその発明で私が確保したい収入は、税引き後生涯賃金として3億円である、はっきり言って1兆円ぐらいもらえる価値はその発明にはある、しかし私はそのようなことは選択しない、なぜならば、できる限りの平等を望むからである。




 なお、人生は決断の連続である、というブログをどこかで発見したが、それは適宜なやり方ではない、そして、決断する場合は、誰のためかをまずは深く考えよ、自分と仲間の利益の実現のためならば、それは多くの世の人々の幸せの切り捨てである、ということに、気付いてもらいたい。しかし私は人生に一度は大決断を行うべきである、とは思っている、男は大決断の前にできる限り多くの物事を整理し、好ましい状況にもっていって、それを行うべきである、それは男女を問わずしても言えることではある、しかし女になったことが無いから女の事 
を語る資格が私には無いから、それは立場上やめて置いた、ということである。そして発案と意見の表明こそが、世を現実的に変革に漸進的に向かわせるのである。そして、そこには適宜な実践者が必要となる。

 まず、“優彩(ユウサイ)式魔法の話術 思考法”は、あらゆる言葉がちりばめられた文章における、高度な段階の理論展開の方法を書き表している、そしてそれには、緻密な文章センスが必要とされる。それは、YES・ NOを単語単位でくっきりはっきりと表現することを超えた、大人のやり方でもある、そこにおいては、まずは、物事をある程度のものである、としっかり意識することが求められることであり、これは、アジアの文章センスの伝統でもある、そしてそれがアジアの本領である大人の文章表現能力なのである。そして文章表現において、必須のこととは、極限状況を想定し、様々な可能性があることは全て想定し、それらをできる限り列挙することが求められる。しかし私は、全てをはっきり・くっきり表現することによって発展した、欧米の科学には恩恵は感じてはいる。しかし時代においては、欧米はアジア的文章表現の有益さについては、ある程度は認めなければならないであろう。
“優彩(ユウサイ)式魔法の話術 思考法”では謙虚、ということが、論理的に人間に求められる最低限の態度であることを表現している。なぜならば、人間は決して全てを経験することができないからである。ここにおいて、アジアの文章の復権が確立する。ここにおいては個人における、完全な自由の体現を目指したアメリカは、反アジア的思想から生まれた可能性も否定せざるを得ない。そしてここにおいては、人間は、全てを体験することができないわけであるから、唯一の神を絶対視する、ということは、人間の能力を超えた、実は人間にはそれは正確に語ることができない行為である可能性が生じる。 欧米思想は論語に対抗して生まれた可能性もある、と言えるであろう。
 論語は君主に対する忠誠を家来に求める。とは言いながらも、そのことを思い出し、“論語”もどうか?というところが実は正直な気持ちでもある。
 そこで人間にとって適宜なことは、ある程度の自由が保証されることである。神を信じる行為もある程度認められるべきことではあろう。
 ここにおいては、私は、科学万能主義に異議を申し立てる。科学はある程度までの効力しか人間に与えないものである。
 新しいアジアにとっては、何が意義があることとなるのであろうか?新しいアジアにおいて、有益なことは、全ての者の幸福を実現しようとする、善意である。ここにおいては、人間には、限りなく深く、できる限りのことを想定することが求められる。そして文章においては、できるかぎり、現実現象を言葉で表現することが必要とされる。そして神は神として、ある程度しか想定できない、という謙虚さを保つことが人間の行動理論に合致する態度である。

 しかし、それは、決して、伝統的なアジアの信仰とは食い違うことではあろう。

 私は自由・民主主義の次に世の中で求められるべきことは、まずは平等であり、次はもしかすれば、人間の謙虚さかもしれない、という気持ちはまあある。

 ここにおいて、アジアは大きな役割を持つこととなる。そして、アジアで新しい価値が創出されれば、それは、欧米人にも必ず理解されることであろう。

 そして私が理解しなければならない、自分の特質は、大風呂敷である、ということでもある。しかし、大風呂敷であるならば、大風呂敷である、自分の特性を最大限に有益なものとすることは可能であろう、それは、補助的思考として、できる限りのことを想定することによって可能となる。そして話が飛躍的性向を帯びていることも、私が自分自身を理解する上で必要なこととなる。しかし話が飛躍的性向を帯びていることは、論理展開としては決して間違いではない。連想することにおいて、飛躍的性向を帯びていることには、一筋の論理展開の跡を文章上に求めることができる、それは関連する、ということにおいて論理性がある。そして私の読者は、自由に書き連ねた、話の飛躍に辟易されることとなる。しかし、その飛躍する話は、話題のねたを、私の読者には与える。