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三 イムラーン一家 ───メディナ啓示、全二〇〇節───
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慈悲ふかく慈愛あまねきアッラーの御名において......
一
アッラーが生ける神であると言うが、その姿を確認できた人はいるのか?誰もいないのではないのか?アッラーが永遠に在るものだとすれば、最後の審判の後もずっと生き続けるのか?アッラーは、さぞ退屈な思いをすることであろう。アッラーにとって人間は実験だったのではないか?不完全な者がどのようにするかの?
二~三
“(アッラーは)お前(マホメット)に真実をもってこの聖典を下し給い、それに先立つもの(モーセの律法とキリストの福音)の確証となし給うた。また(かつて)律法と福音とを下して人々に導きをたれ給い、(正邪を)区別する基準(原語フルカーン。前出、前章五〇節参照)”、モーセの律法やキリストの福音やコーランは、アッラーが、不完全な人間を生み出したことに後悔して、それが永遠に繁栄しないために世に出現させたものかもしれない。 “もしアッラーの下さる神兆に不信の態度を取るような者があれば、いまに厳しい罰に合うであろうぞ。アッラーはその権限限りなく、恐ろしい復讐の神におわします。”、そのような人間は家畜や魚に生まれ変わり、人間達に捌かれる運命もしくは、下等な動物に生まれ変わり、強い動物に食われるのかもしれない。
四
アッラーが全能にして全知の御神であるならば、コーランのような、口説い聖典はお示しにならなかったのではないか?
五
私はコーランの全てを見て検証するつもりである。アッラーは、思い直すことが多い、ということで、全知全能とは言えないのではないか?コーランの本当の解釈は、アッラーだけが御存知なのであれば、聖典として意義が無いのではないか?しかし反省する能力は大切である、イスラム教徒は、無謬性の害悪からは逃れているであろう。
六~一〇
「我らが主よ。一度こうして私どもを御導き下さいましたからは、どうか私どもの心を正しい道から反らさないで下さいまし。私どもに御情けを与え給え。まことに汝は惜しみなく与え給う。」「我らが主よ。汝こそはかの疑いの余地もない日(最後の審判の日)にすべての人をお集めになる御方。アッラーは約束を絶対にたがえたりはなさいますまい。」、無理だ、なぜならばアッラーはよくお思い直すお方であるから。 現代において、信仰は、ある程度信じある程度疑う、ということができるようであるべきである、そして人は可能性のみを語る場合は、両論、もしくは複数の論を合い並び立たせて提示することが可能である。「私はある程度アッラーの存在の可能性を信じ、ある程度クリシュナの存在の可能性を信じる。」
一一
異教徒がいるとするならば、アッラーは改心させるのが神としての務めではないか?そして啓示されたアッラーが、人々の間において、対立を生み出したならば、アッラーは、全知全能とは言えないのではないか?
一二~一五
人間は現世での幸せと宗教上の幸せと両方を満足させられるべきである。しかし、私が見るところにおいて、イスラム教は、宗教上の幸せを人々に充分に与えないものの様に見える、第一にイスラム教は一つの神のみの信仰を人々に要求する、そこから、人々は現世において自由ではなくなる。第二にキリスト教との対立をもたらす。第三に、全てが言語で書かれたものゆえに、世の国語能力偏重者ばかりを重視することとなる。 イスラム教は、ここの著述から、多くの奴隷に支持されたことが考えられる。そして、“夜が明けたと思うともう神様に罪の赦しをお願いし始めるような人たち”、とは、自分の罪を確信的に感じるものである、そのような罪とは、むしろ戒律の厳しい宗教によって与えられるものなのではないか?
一六
“アッラーは正義の範を垂れ給いつつ、御自ら、他に絶対に神なきことを証言し給う。”、と言うが、「Aはある程度の現世利益を実現し、ある程度のBの可能性があることを信じ同時にBの可能性をある程度疑い、かつある程度のCの可能性があることを信じ同時にCの可能性をある程度疑い、ある程度の絶対の可能性がありえることも信じる」と表現することは可能である、言葉を扱う以上は言葉上では人は多神教たりえるのが自然である。
一七
アッラーはユダヤ教、キリスト教、回教(イスラム)の者たちを全員同時にコーランを信じさせることができなかった、その点においても、アッラーは全知全能とは言えない、マホメットの能力不足か?
一八~二四
“聖典を授かっておる人々にも、そうでない普通の人たち(ユダヤ教、キリスト教以外の多神教徒)にも、「お前たち、すべてを神様におまかせしたか」と問うてみよ。それですべてをおまかせしたというなら、もうそれだけでその人たちは立派に(信仰の道に)入っている(すべてを神の意志にまかせ切ってしまうこと、それをアラビア語ではイスラームという。そしてこれが直ちに回教の原名である)。”、というが、この道は現世利益と宗教上の利益の両立を目指すものからすれば相応しくない、現世利益と宗教上の利益の両立を達成させるためには、「Aはある程度の現世利益を実現し、ある程度のBの可能性があることを信じ同時にBの可能性をある程度疑い、かつある程度のCの可能性があることを信じ同時にCの可能性をある程度疑い、ある程度の絶対の可能性がありえることも信じる」、という信条を採用可能とすることが考えられる、それをもたらす者が神にあたるものであるならば、そのものは、マホメットが主張するアッラーよりも寛大であろう。しかしそのような発想をする者は、所詮人間である、しかしマホメットの頃よりも明らかに後の世代の者である、そしてその者の子孫は永遠の将来の可能性を持つ、そしてその者は、もはや地獄の劫火をももはや快楽にしか感じないぐらいに進化している可能性がある。 “だがもし後ろ向いてしまうようなら、なに、お前はただ伝えるだけのことを伝えさえすればそれでよい。御自分の奴隷(前出、真の信者ということ)のことはアッラーが何から何まで見ていて下さる。”、ここにおいては、多神教徒側も可能な限り、神を信じる、ということがなされるであろう、ここにおいて、コーランには、多神教徒側との不和が醸し出されるのであろう。これは私の明確な気持ちであるが、一神教であるイスラム教は人から人間らしい生活を奪うものである、と感じることができる、一方で多神教であるヒンドゥー教は、より人間味がする宗教である、と感じる、その人間らしさ、とは、論理的矛盾の存在に気付きつつもそれに対して寛容であることが考えられる。そしてここにおいて、宗教上の一切の激しい闘争が浮き彫りとなる。二千年の時を経て、イスラム教徒とヒンドゥー教徒の間では、互いを認め合う精神が必要となる、しかし、ヒンドゥー教側では、すでにそれを持っている、相手を一方的に低く括りつけるのは、イスラム教徒の悪い癖、しかしどちらが優れているかは、今のところはコーランを全3冊読まなければわからない。 しかし2011年において、イスラム教はヒンドゥー教と仏教との邂逅がある。そこにおいて、まず、イスラム教徒は、人間として、寛容を持たなければならない、全てを神に任せるのではなくて。
二五~二六
神には神の悩みがある可能性がある、それは過去に、2011年現在において永遠の将来の可能性を見出した人類一般を、自らの力で裁いてしまったことであるかもしれない、永遠の劫火に放り投げた、その仕返しが人類にもたらされるかもしれない、その危惧。しかし、永遠の将来における我が子孫は、そのようなことは一切行わない、その面では永遠の将来における我が子孫はアッラーよりも寛容であるだろう。王国の王にも悩みがある、友達が一人もいない、という悩みが。
二七~二九
自由がある程度行き届き、人間を中心に考えると、それぞれの人間が、それぞれに、民族・国家・先祖・家族構成・先天的特質・能力・地位・学歴などによって、それぞれに別の考え方を持っている。そこで、善悪において完全な統一的見解を人々に持たせることは不可能である。アッラーにおいても善悪全てにおいて統一的見解を持つことが出来るのであろうか?まずは、民族・国家・家族構成などを超えて同じ価値観を持つことを人々に求めることは、互いの立場の深い理解を経なければ無理である現状がある。そして最新のことで善悪を決められない問題は、先天的特質において劣っている者に後天的に能力を与えることは、善か悪かである。現代において、それは合法主義においてはは、ほとんどの場合は悪と受け取られていることである、非合法主義においては善である。それについてはアッラーはいかに善悪をお決めになるのか?
三〇~三六
アッラーはいつでも見返りを要求する、それは全知全能ではない。
三七~四七
“策略にかけては何者もアッラーにかなうものはない”、と言うが、策略に策略で応える様であるならば、全知全能で、慈悲ふかく慈愛ふかいとは言い難い。より全知全能に近い者は少なくとも、それぞれの人間にとって、有益となることを行う、そして少なくとも、それぞれの人間達の間の戦争をなくす。
四八~五六
異文化の者の神の存在の可能性をも尊重することによって、相互の文化の互恵関係は生まれる、そしてどんな神においても、異文化の者の神の可能性を否定することはできない、そして可能性を否定するということは、有限で限りがある、ということである。私は、多神教の者である、が私が誤りであることも想定して、一神教をも否定はしない。
五七~六一
ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒、ヒンドゥー教、儒教、神道全てが共存できるべきである。なお、偶像は、見目片形だけを表すものではない、人間の精神性の表れである、表情を司ることである、なお、偶像崇拝と同じ様なことは、漫画においても認められることであるだろう。イスラム教は、それをも否定しなければならないのであれば、アッラーの啓示は有難いものとは言えないのではないか?
六二~六四
私はアッラーの神兆をはっきり己が目で見たことはない、見たならば、それを信じようか。
六五~六七
論争において、真理を見つけようとする場合、真理を見誤る可能性がある、なぜならば、真理は言葉ではない可能性があるから。
六八~七一
啓典の民自体にいいものから悪いものがあるようだ。そのように見て行くと、大方の文化の中には、異文化の要素はある。そこで、民族を超えた宗教を作り出すことも可能であろう、ただし、それは、一神教と多神教が共存するもの、となってもらいたい、というのが私の正直な気持ちである。
七二
私は、『コーラン』からひらめきを得ている、であるからして、アッラーはある程度は敬う、しかし、全てを信じる、ということは、今のところはどう考えてもできない、そこで、地獄の劫火に遭う運命であるならば、アッラーは心は広くないのではないか?
七三~七四
私は、私として、人間において、ある程度限界を感じつつも、子孫の永遠の将来において、無限の可能性をも感じている、それはアッラーでも否定はできないのではないか?
七五~八五
「Aはある程度の現世利益を実現し、ある程度のBの可能性があることを信じ同時にBの可能性をある程度疑い、かつある程度のCの可能性があることを信じ同時にCの可能性をある程度疑い、ある程度の絶対の可能性がありえることも信じる」というのを可能にすることが合理主義である、それには、純粋一神教的信仰に背信する定めがある。
八六
人間は心から愛するものがあれば、それを喜捨などできない、というのが、人間の定めではないか?
八七~八八
食物で実現できる幸福など、所詮は、食物で実現できる幸福である。そのようなものを超えて、人間はもっと大きな幸せを目指せ。
八九~九二
元来アッラーは完全自足、誰からも何もして貰う必要はない。ならば、人々に深い信仰を要求することもないであろうに、そして、アッラー自体が、人々を裁くことがなければいいだけなのではないか?
九三~九四
啓典の民がなぜ、アッラーを疑問視するか?それは実際に神兆を見ていないからなのではないか?また、啓示されるアッラーの御言葉には、合理性がないからなのではないか?
九五~九六
2011年現在において、アッラーの言葉は、現世利益をある程度叶えてくれない、という面で魅力が薄い。
九七
なぜ、アッラーは人々に信仰を求めるのか?人々の勝手ではないのか?人々にはまるで自由はないのか?私は極東の日本に生まれたからには、日本の八百万の神を信奉する務めがある、そして第二次世界大戦において敗戦した私たちには生まれたときには既にアメリカ的文化が受け渡される運命がある、であるからして、アッラーについては、絶対的帰依をしたくてもできない現実的理由がある、そして絶対的帰依をするために、日本の全てを捨てることなど、決してできない、という現実がある、アッラーよ、それを理解して、我々が、アッラーに絶対的帰依をできないことを見出し、あなたに信仰しないものを地獄の劫火に陥れる権利があろうとも、その権利は行使しないでもらいたい、そして、アッラーの信仰は、日本人の人情からかなりかけ離れたものでもある。
九八~一〇三
イスラム教徒は今日において、ユダヤ教徒・キリスト教徒・ヒンドゥー教徒・仏教徒・儒教の民・道教の民・無宗教の者と対立する定めである、私は目に見えて明らかなこの対立を何とかして回避したい、と思う極東の民である、アッラーよ、私のそれが成功したならば、私を地獄の劫火に遭わせることは止めてくれないか?例え私が、イスラム教に対して、絶対的帰依の気持ちを持たず、半端な信仰心を持っているだけだとしても。
一〇四~一〇五
人間は現世においてはある程度権利を有している、それを永遠の将来の我々の子孫に言い伝え、私達に無限の可能性を与えるも、そうしないも、現世を生きる私達次第である。そこにおいて、人間における現世利益合理主義と宗教上の幸福の二つを実現可能な状況である。
一〇六~一一〇
アッラーは啓典の民を自らの宗教に振り返らさせることができなかったのが現状だ、全知全能であるならば、それも可能だったのではないか?しかしそれができなかったのが現状である。しかし2011年現在において、ユダヤ教徒と結託したわずかばかりのキリスト教徒としての宗教心がある科学万能主義者達は、イスラム教徒との対立は止めるべきである。 啓典の民が預言者達を殺したのにはわけがある、とその実情を知らない極東アジアの民である私は思う、しかし、預言者達を殺したのは罪であったのには違いないだろう。私は一つ知りたいことがある、預言者の確証とは、何が根拠なのか?と。 啓典の民は、争うのが運命であるのか?
EUではなぜ経済が停滞するかは、ヨーロッパにおいて各国の振るわぬ企業を守っているからであるからか、もしくはヨーロッパにおいて大企業が各国において独占を開始したからであろうか?そのどちらかの可能性がある、と言えるであろう、ゆえにEUは大きな経済圏を世に誇っていても、内情はあまり幸せでないのが実情であろう。
一一一~一一三
善をなせば善が返ってくる世界を最低でも築くべきなのではないだろうか?
私はある程度アッラーを可能性があるものとして信じ、ある程度ヒンドゥー教を可能性があるものとして信じ、ある程度仏教を可能性があるものとして信じ、ある程度儒教を可能性があるものとして信じ、ある程度神道を可能性があるものとして信じ、ある程度現世利益を達成したい者である、アッラーはこのような、極東の一人の欲深き男を一笑して許してはくれぬものであろうか?しかし、そうでないならば、アッラーは、日本の避けがたき深い運命の実情を理解してくれてはいない。日本は、アメリカから黒船が来航して、開国を余儀なくされ、四国艦隊下関砲撃・薩英戦争で不平等条約を押し付けられ、欧州に学ぶを余儀なくされた国家である。