宗教科学10~バガヴァッド・ギーターについて | 三上祐一のブログ

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 独自の日本大改革案を掲げる三上祐一のブログです。 なお私はこのブログの著作の一部がウィキペディアの「三上祐一」の項に投稿されることを認める。 http://yuusukeueno.blog40.fc2.com/

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第十二章
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(1) 人は二つに一つの選択を迫られる場合がある、本来は両方ともできる方がよい。
(2) 人は誰かを具体的に正確に思い描くことができない。
(3) 説明され得ないものを言語で語るのは一種の矛盾だ。
(4) 一切に対して平等に考えるものは親孝行もしない、そんなのばからしい。
(5) 非顕現な帰結は、そのようなものが存在する、と考えることで、一応は想定可能である、それは他者にとってのポーカーフェイスの者の想像であったりする。
(6) その証が証明されていない、宗教というものは、どれもどうして説教がましくて、人々にズバリを教えないのであろうか?それはどの宗教も偽者で、生きた人間が作ったまやかしであるからである可能性は高い。
(7) なぜ、聖バガヴァッドが生死流転の海から彼らを救済するものとなるのかの理由が示されていない、宗教と言うものは、どれも多かれ少なかれ信じることを強要する、私は死ぬ間際に疑心暗鬼のままで死のうかと思う。
(8) 疑問の余地はない、と言うが、理由が明確に示されていない以上は、疑問せざるを得ない。
(9) 非顕現なものは専念できないのではないか?
(10) クリシュナのために何かをやることは、不平等ではないのか?
(11) すべての行為の結果を捨てることは難しい。
(12) 捨離により直ちに寂静があるとは限らない。
(13) すべてのものに敵意を抱かず、友愛あり、哀れみ深い状況は平等ではない。
(14) 決意が堅い者は柔軟ではない、それは人間として好ましくない姿である、と思う。
(15) 喜怒や恐怖や不安に満ち溢れている人は、人間臭くて、私にとってはいとしい。
(16) 何事も期待し、不潔で無能、中立を守れずつい誰かに肩入れして、動揺し、企図を多く持ち、私が嫌いな人は私にとってはいとしい。
(17) 喜び、憎み、悲しみ、望み、好悪を持ち、信愛を抱かない人は、私にとってはいとしい。
(18) 敵と味方に対して当然不平等であり、また多くの尊敬と軽蔑を持ち、寒暑や苦楽を多く持ち執着を持ち、
(19) 毀誉褒貶に右往左往し、五月蝿く、いかなるものにも不満足で、住処なく、心が不確定で、信愛がない人、彼は私にとっていとしい。
(20) 以上述べた、この正しい甘露(不死)〔の教え〕を念想せず、信仰せず、クリシュナに専念しない者は、私にとって、こよなくいとしい。
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第十三章
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(1) 国は面積が広いからといっていいわけではない、面積が小さくとも人口が多い国が大国である、そうすると、日本も大国と言える、日本は、インドとの関係に親善を見出せば、中国の反日に恐れ慄くこともない、日本・インド・中国の三国が友好であれば、アジアは広く友好である、それに東南アジア諸国と中東東アジアの韓国と北朝鮮と、ロシアと黄色人種のインディアンの土地であった北米・南米が加われば入れば、広大な地域が友好の土地となる。
(2) 経験は結局は人の知識となる。
(3) 人間は「土地」ではない。
(4) インドの文献は全てが偽書である可能性はあるであろう。また、ある名称のものが後々にできあがることもあるであろう、例えばシャンカラがシヴァ神の別名であるかのように。
(5) 風と虚空が同居すると、「風がある」ということになる。自我意識を持ちつつも、平等であるためには、自我の境界線が、限りなく透明に近いものになるイメージであろう。寂しい気持ちもするが、欧米の科学は、インドのバガヴァッド・ギーターが説く科学を超えたようである。WEAVER HY
(6) 堅固が充足となるときは100%堅固なときであろう。私の宗教は常に懐疑的でありつつも、信じるものもある、というところで、その場合でも堅固な気持ちは感じることができる。
(7) 人間はある程度の慢心と偽善によって、自己を形成している。不殺生をすれば、日本人のように小柄になっていくであろう、私的に言えることは、食べ盛りの子供達は、たらふく栄養満点のものを食べよ、ということである、私はもう食べ盛りを超えたので、ある程度肉食(魚も含む)は控えようかと思っている。
(8) 感官の対象に対する離欲は人間として生きている以上は難しい。まるで我執がないこともむずかしい。人間はある程度感官の対象に対する欲を持ち、ある程度我執を持ち、ある程度それらを抑えることができる。生老病死苦の害悪を超えるためには、私の宗教を奉じればよい、つまりは永遠の将来を信じ、全先祖を供養することである。
(9) 妻子や家などに対して執着や愛着がないことは難しい、私は母親を一番大切である、と思うことには変わりはない、であるからして妻子や家などに対して執着や愛着は少しだけしかわかないことが考えられる。好ましい、または好ましくない出来事に対し、常に平等な心でいることは、階級の美徳(ダルマ)・一族の美徳を維持できない。
(10) 私はクリシュナをある程度は信じる。私は地方分権主義者である。私は社交を好まない、なぜならば28年の若き日々で、経験すべきことはすべて経験してしまったからだ。
(11) 常に自己(アートマン)に関する知識に専念することは難しい28歳ぐらいまでは。輪廻の滅は地球外が存在する場合は、あまり、意義がない、その場合は、全てについて知ることに意義がある。
(12) 物事は、非有と有が同居すれば、有が存在することになる。 セファイド変光星
(13) それは、一切の方角に手足を持ち、一切の方角に目と頭と口を持ち、一切の方角に耳を持ち、世界において一切を覆って存在している、ということだが、一切とは、まずは存在するすべての次元(それはときに偏在すると思われる)すべての有効な対処法を持つ、ということである。
(14) ありつつ、ない場合は、ある、ということになる。
(15) 万物の外にあり、かつ内にある、ということは、全てのものの輪郭であることが考えられる。不動であり、かつ動く、ということは、くくれば、動く、ということである、それは3+0=3のようなことである、しかし数学において、3+0=0という法則を持たせようとすれば、持たせることが可能であることも実際に言える、そのようにすると、すべての数学を見直さなければならない。微細でありつつ膨大である、ということは、リアルである、ということである。遠くにありつつ近くにある、ということは、それは巨大なことが考えられる。
(16) バガヴァッド・ギーターは、“それは、分割されず、しかも万物の中に分割されたかのように存在する。それは万物を維持し、呑み込み、創造するものであると知らるべきである。”その場合はものごとは分割されていないことになる。バガヴァッド・ギーター二章一六句において、“非有(身体)に存在はない。実有(個我)には非存在はない。”と言っている、ここで物事は大まかに非有と有に分離されている、しかしそれ自体が分割されない状況なのかもしれない、ヴィシュヌ神に勝つ人間が現れれば、人間がヴィシュヌ神に打ち勝つことになる、そのケースは、永遠に将来が存在する場合は、可能性としてあるであろう。
(17) バガヴァッド・ギーターは、“それは諸々の光明のうちの光明であり、暗黒の彼方にあると言われる。それは知識(真知)であり、知識の対象であり、知識により到達さるべきものである。それはすべてのものの心に存在する。”、としているが暗黒と光明が同居しつつ、それらが、光速以上のスピードで離れていけば、それらは同居できる。また、吸い込む暗黒がブラックホールなのであろう、それは、地球から見て暗闇の部分が、光速以上のスピードで離れつつあることが考えられる、そうであるならば、宇宙は単に膨張しているだけであるとは言えない、人間は光よりも早い乗り物を作り出せば、それがタイムマシンとなるであろう、それで未来に辿り着くことは可能になる、いや、逆かもしれない。それでは過去に行くにはどうすればいいだろうか?地球から広がりつつある光を眺めすべきである、そのためには超音波などの技術が必要となるであろう、それでは、できるかぎり過去を忠実に実現させるにはどうすれば良いだろうか?遺骨からDNAを採取し、それらの人物を再生させ、それらの光の構成員をそれぞれの者とすることが考えられる、それによって、過去の痛ましい惨事を惨事では無い状況にした世界を体現することも可能であろう。
 それでも駄目で過去に行くにはどうすればいいだろうか?例えば1000年前に行くには、光より早いスピードの乗り物に乗り、1000光年の地球から広がる光の外縁の一部にまずは移動し、そこから、地球に瞬間的に移動すれば良い。
 では、未来に行くにはどうすれば良いのだろうか?時間の軸の逆向きに進めば良い、最低でも時間が静止している状態、それは死を意味するのかもしれない、それを満たさなければならないであろう。人間は死ぬと、限りなく将来に近づくのかもしれない、いや、それでは、人々は未来に辿り着けないであろう、人間の意識は、止まって行く意識の中で、限りなく一瞬を長く感じるのかもしれない。
 この世界が光で出来ているのであれば(本当は光と闇で出来ている可能性が高い)光に闇をぶつけてみればいいのかもしれない。
 それよりもいい方法があった、未来に行くためには、人間の生命を医学の力で限りなく長くし、未来に辿り着くまで、その人間を冬眠状態にするのである、まあ、今のところは、将来に行く必要性は無いであろうが、そして未来にはもっと進んだ生命医学が存在するであろう。過去に行く道は、私は示した、これらを実現すれば、人類は、未来にも過去にも自由に行けるのである。例えば未来に行って、現代に帰って来るには、現代に帰ってくる輸送機械を、ある場所に隠しておけば良い。過去から現代に帰ってくるには、その薬を過去に持って行って、飲めばいいであろう。
 いや、光よりも早いスピードになれば、一瞬が限りなく永遠に近くなるのかもしれない、そこで科学者を組織化すれば現代において、一瞬にして、素晴らしいものを作り出せるではないか!しかし、ぶっ飛びの超ド級のスピードを実現すれば、過去に舞い戻ることは、可能である可能性は否定できない。
 過去と未来とどちらが必要か?どちらも必要なのである。
(18) バガヴァッド・ギーターは、“以上、「土地」、「知識」、「知識の対象」を簡潔に説いた。私を信愛する者は、これを理解して、私の状態に達する。”とする。元来、インドでは、信愛という意味合いに知識、そちらの方向性を持つという要素も込められていた可能性も考えられるが、現代語の信愛では、知識にはまるで辿り着けないであろう、しかしバガヴァッド・ギーターは今でも、私の中では最高の宗教であることに違いはない。