三上祐一が2011.08.17~19に考えたこと | 三上祐一のブログ

三上祐一のブログ

 独自の日本大改革案を掲げる三上祐一のブログです。 なお私はこのブログの著作の一部がウィキペディアの「三上祐一」の項に投稿されることを認める。 http://yuusukeueno.blog40.fc2.com/

 ひどいよ 米でアンビリーバブルな集団犯罪が多発 
─────────────
 一方で、私が、人生の中で一番素晴らしい女性だと思った女性は安田信託銀行の行員の女子だった。世の中には、未だ見出されていない素晴らしい女性が多く存在するのも確かだ。
─────────────
2011.08.18.16:43頃(①スペシャルドラマ 坂の上の雲アンコール 第1回「少年の国」(前編))
 自由~〔連想〕~日本人は明治維新で欧米を猿真似したのならば、オリジナルの文明を作り出さなければならない義務がある、と言えるであろう。
──────────────────────────
陸軍士官学校で行われていたこと
           ──────
 東條は陸軍士官学校の潜在的ボスであった。ただ、殴り合いということに至ることはまるで無かった、「D」か「カデー」かの集団的対立以外は。東條は「カデー」であった,しかも留年の可能性あり。一方で蒋介石は「D」であった。
 東條「お前らは、本当の俺達の仲間じゃねーんだよ!」
生徒B「何!」

 蒋介石「お前ら差別意識ねーか?」
生徒C「無いね、まるで、なあそうだろ!者ども!」
蒋介石「テメエラ許せねえ!」
──────────────────────
~〔連想〕~まじで大企業にはいい女行ってるぜ!
--------------------------------
~〔連想〕~「うちの父さんがマレーシアで何をやっていたか」 「シェルにやられた」

 東京海上グループ(マリーン)の~ 早稲田大学商学部の同級生だった、中村嘉宏という男は、俺に失礼なことをしやがった奴の一人であることは間違いない!

 私を緊張させるものが多く存在すれば、私は便宜からは解脱することができる、人前で考えを披露する、ということは、私をある程度ほど良く緊張させてくれる。

 「知識よりも人間性が大切」~〔連想〕~「経験が全て記憶という知識となりそれが人間性になりえるんです。」

 歳の壁は超えられる、年老いた人でも目の輝きは、若い頃と変わらないのだから。聞くという能力は若い頃と変わらないのだから。肌などにこだわる男は所詮は肌フェチである、という状況から解脱できていない、そのような者は所詮、それまでの男でしかない。

 ゆずの本領は道化精神か?

 おじさんのみっちゃんは日大三高の野球部出身!

 国は自分達の政策に自信が持てないのであれば、減税すべきである、しかし自負心が高いであろう霞ヶ関の人々は、それは無いと誰もが口を揃えて言うことが考えられる。自信があるのであれば、税体系を見直すべきである、と私は思う、それとして考えられることが、所得税を前と同じ税率に戻すことである。高い所得を得ている者は、前と同じように4割を自治体に納めるべきであろう、かつての日本は、それをもってして、一億総中流階級を実現できた、そしてそれによって、国民に高い機会均等の状況を持たせることができる。

 チャン・グンソクは演技において、ラルク・アンド・シェイルをイメージしていたのではないか? 私は子どもの頃、トムとジェリーが好きだった。

 みんな大好き卵料理、 無精卵は命を授かっていない卵であると私は考える、そこで、私はたんぱく質を多く得たいときは、それを食べようかと思う。

 日本人も韓国の芸能界に乗り込むことが考えられる、日本人に高い意義が見出せれば。しかし、そこにおいては、日本人はまずは韓国語を覚えなければならない、日本で売れるために、日本語を覚えた韓国人アーティストは、そこにおいて、まず、苦労している、という現実がある。しかし日本人は今は乗り込む時期では無い、とも思う。

 谷川岳で星を見つめる。高井和人の父親は、谷川岳の救助隊長だった。

 李明博氏について、少しだけ興味があることが、日本語を喋れるのか喋れないのか、ということだ。

 離婚はできるかぎり避けられるべきである、と私は私の自然な気持ちとして思う。なぜならば、私の両親は離婚していないからである、私はその状況において、子どもの頃、いらぬことに悩まなくても良い状況に恵まれていた、ああ感謝。

 常識やぶり~〔連想〕~常識破りでも価値が高い物はある可能性はある。

 ソマリア難民は救済されるべきであろう、ソマリアの国民に、自らの国は自ら及び自ら達で救い出そう、という意志を放棄したのであれば、そこでソマリア国民からの疑問、及び提唱があれば、私は即座に解答する、私の意見で参考になることがあるならば。

 「私は、カダフィ氏は発言・振る舞い・行動などの端々を見るに、ただ死にするには惜しい人間である、と考える」 

 現実問題は、理由を一つとする、ということでは解決は導き出されない。現実問題は、複数の理由が混在している。現実問題について、理由を一つとしようとする試みは一種のマスコミ原理主義、とも言えるであろう。

 「素直に医師免許を取ればいいじゃないか」~〔連想〕~裕福ではない者は、医学部に行けない、という状況は速やかに解決されるべきである。

 イギリス海軍はイギリス海賊の二番煎じである可能性がある、それは私の勝手な想像の域を超えない意見である、というかその可能性はパイレーツ・オブ・カリビアンによって示された映画の内容から導かれたことである。

 時代は多くは先祖のおかげで導き出され、多くは自分、もしくは自分達で創造して行くものである。私は一切の先祖の苦労に敬意を払い、永遠の未来の子孫に多くの希望を見出す。

 男に生まれたならば、必要であれば他者と協力し、主に自分で考えられる限りの最高の幸せの状況を導き出すことに意義を見出しそれを実現しろ。

 私は必要であるならば、私を負けた者として自分自らを演出して、高い幸せの状況を世にもたらすことも出来る。

 私は青山小学校においても、下石神井小学校においても、井草中学校においても、広尾高校においても、早稲田大学商学部においても、江戸っ子を見出すことは出来なかった、なぜならば、江戸っ子は三代続いて江戸っ子だからである。ほとんどの私の友達は、地方出身者の二代目であった、という現実があった。それは地方出身者にとってはあまりにも受け入れ難い非情な言葉だ。しかし私自身は江戸っ子である。私は立場は違うものの、立場を超えて、地方分権論者である。そして私は恵まれていたのであるから、恵まれていた者なりに成すべきことがある。

 「消えろ、パパラッチ」~〔連想〕~「おお、ダイアナよ!」

 国語能力が高い者は、多くの職に就ける。しかしだからといって、何も生み出せないのでは、意味が無い。そして職につけたからと、安心した者は、既存の社会の現状に妥協し、高いものを生み出すことも無く、自分の低い欲望を満たすだけで、人生を終え、所詮はそれまでの能力しか持たない。そしてそこにおいてはそれらの者達は勝ち組、負け組などに分類されることで満足を見出す、それは根本的に低い幸せである。しかし、多くの負け組みには、一つの希望を与える、それは、負け組みに分類された者たちは、自分達の怒りをエネルギー源として、そこで、経験した屈辱を糧として、それらの分類を一時的な状況として、真に打ち勝つ者、となることができる。奴らは結局のところ低い欲求の上での結託をなす程度の意欲しか無いし、現実的には保身という低いレベルの状況しか作り出す能力が無いから、多くの結実した知恵を生み出す深い経験も無いから、その点でパワー不足であるから本気で怒り、それらを、意義深い能力に変え、多くの有用なものを生み出した者達に負ける。

 しかし国語能力が高いものには、ある役割が与えられるのが妥当である、国語能力が高くなければ天気予報士にはなれない、現状ではアナウンサーにはなれない。しかし国語能力が低い者でも多くの世の中に存在しない意見・新たなる職・発案を生み出すことはできる。

 シリア、アサド大統領が反政府デモ隊を武力弾圧している、ということが、事実であるならば、私もそれには反対である、そこにおいて、将来、米英仏独日の意見の一致が予想される。しかし、米英仏独日はそこにおいて、シリアに対しては、軍事的制裁は加えるべきではない。まずは真剣に言葉のやり取りを行うことによって、シリアとは問題解決を図るべきである、言葉以外の方法として考えられることは、共通の経験をお互いが体験する、という積み重ねを重ねることである。中国・ロシアの反対に深い意義は見出せない、私は、中国とロシアの反対の理由を聞きたい、そこに一理ありということが見出せたならば、私はそれらの意見は参考にするが。

 リビアにおいて、カダフィ大佐陣営に対して、反政府デモ隊が周到に武器を準備し、それらの銃口等を、カダフィ大佐陣営に向けた、という事実があるのであれば、私はカダフィ大佐の武力弾圧は認める。しかし、そうでないならば、カダフィ大佐は反政府デモ隊への武力弾圧は止めるべきである、カダフィ大佐には振る舞い・発言・行動の端々、過去に行った無血革命という事実から、高い能力の持ち主であることは見受けられるが。カダフィ大佐は反政府デモ隊との平和的解決を望む、具体的に言えば、言葉の示威を行う者に対しては、言葉で対処することを私は望む、なぜならば、カダフィ大佐の賞賛すべき過去の栄光に傷がつくばかりだから。私はせっかくの出来る能力を持つ人間が、その役割を十分に発揮することなく、無駄死にすることがあるとすれば、もったいないと思うばかりである。