バガヴァッド・ギーターについて第4章途中まで | 三上祐一のブログ

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 独自の日本大改革案を掲げる三上祐一のブログです。 なお私はこのブログの著作の一部がウィキペディアの「三上祐一」の項に投稿されることを認める。 http://yuusukeueno.blog40.fc2.com/

 本間勇介著の「優彩(ユウサイ)式魔法の話術 思考法」 http://www.amazon.co.jp/dp/4990280016  をよろしくお願いします、それは三上祐一が本間勇介という名前で書いた本です。
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第四章
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 しかし、インドについては、あまり立ち入るべきではない、ということもあることが、考えられる。

 ここから、便宜に頼らずに自分の力のみでの解決を目指す、だから面白く無くなる可能性はある。説教臭くなることも考えられる。

 バガヴァッド・ギーターでは、

 聖バガヴアッドは告げた。───
 私はこの不滅のヨーガをヴィヴァスヴァットはそれをマヌ(人類の祖)に告げ、マヌはそれをイクシュヴァーク(王名)に告げた。しかしそのヨーガは、久しい時を経て失われた。 私は今、まさにこの古のヨーガをあなたに説く。あなたは私を信愛していて、友であるから。実はこれは最高の秘説である。

としているが、昔だから、真理が存在し、太陽神が、マヌ(人類の祖)に告げることが可能だったのかもしれない、しかし、現代的に考えるとそれは難しいことが考えられる。そのヨーガは、久しい時を経て失われた、ということはどうしてわかるのであろうか?現代の私から考えれば、「である可能性が高い、なぜならば」と語られるべきである。そうでなければ、そのヨーガは久しい時を経て失われた、ということ自体が迷妄である可能性が高い、と言える。大体聖バガヴアッドが説くヨーガというもの自体が迷妄の上に成り立っている可能性が高い。真理とは、現世上の人間が打ち出して行けるものである可能性がある、と同時に、真理を言葉で語ること自体が真理ではない可能性も否定できない。私は信じる、ということは最後から二番目にやろうと思っている、そして私は最後にやろうと思っていることが、命を賭けることである、それは、私が、言葉で根本的な解決策が打ち出せなくて、しかしどうしても、達成しなければならないことが生じたときにである、しかし私は、そのような状況は私の本心からは、厭わしいものであるから、私は可能な限り、有益な解決方法と考えられることを創出し、ときに何かに習い、導き出す。命を賭けても根本的な解決がなされなければ、意味は無い。そして私にとって、命を賭けて守るべきものはただ一つである、しかし、最高の決定が究極的に求められ、そうすることが相応しいときに私は、命を賭けてそれを実行する。

 であるからして、私は、本気で現世のことしか考えていないのが実際の状況であることが考えられる、しかし、少しずつ宗教上のことはやりたいと思う、しかし私は死後のことについては余計なことであると本心では思うから必要最低限以上は行わない。多くの人間が、現世上でやりたいと思っていることを捨て、生きるためのことを行わなければならない。私は欲望の体現の結果、上位に思うことを行えるようになった、それは私が、19~21歳ぐらいの頃に、最低限、自由に煩悩を捨て去るためのことを行えたからである。しかし、私には、無意識の内に、私の心の内部で、最高のことを成就させよう、という意識が形成されつつあった。私は結婚したならば絶対に浮気はしたくないという思いがあった。それは、当時の私にとっては、世の中で最低に恥ずべきカッコ悪いことであると思えた。私は若いうちに煩悩を捨て去らなければ、結婚したならば絶対に浮気しない、という状況を迎えることは絶対にできないであろう、という確信的な気持ちがあった。そこでその実現のために、最低限に煩悩は捨て去った。そして、今となっては、本気で結婚を考えていたであろう子を当時の私は欲望実現の対象とし考えた。しかし、私の思いは果たせなかった。なぜならば、その子に、私の数少ない、出演ドラマの記録ビデオをモノヂチとして奪われ、私は、大学2年のクリスマス・イブにおいての彼女とのデートをドタキャンされたからだ。私は彼女を本気で好きになっていた。そこで私は酒を二本開け、自分の家のガラス窓を素手で叩き割って、私はそれによって、血だらけになって、友達に救済を求めた、という不始末を演じた。であるからして、現世上の今の私には、信愛は無い、友も限られている、私がこの世で一番親しくすべきだと思っている人間は、青山小学校で一番目立っていた人間だ、そうすると、彼を実行者とし、私が発案者・意見者とすることが考えられる、しかし他の者でも良い、そこで友に重きを置くことは、世間の人間多くを広く遍く可能性のあるものとして、考慮していない可能性がある、しかし同郷で一緒のことを行なったから、うち解け合える、ということは特別なことであろう、私は小学校時代の特別な友達のことは、その方向性で考えようと思う。しかし、私には、まごころはある。聖バガヴアッドは、“実はこれは最高の秘説である”、と説いているが、現世に重きを置くものからすれば、それは、生きている以上は成長し続けているから、常に最高到達点にたどり着けないことが考えられるから、「実はこれは最高の秘説である可能性が高い」だのの表現にすることが妥当であるように思う。

 しかし、日本人も多くのことを習慣やいわれに根ざして考える、その一つが輪廻転生である、それはインドが大元であったのだった。その上で、日本人は、考証に重きを置く面があることも考えられるが、世界を広く良く見なければ、わからない、そこで現実的事実そのものを知るという結果は獲れないであろうが、世界が考えていることは、ある程度は推測可能であるだろう。しかしその状況が改善されるべきであると見れば私は、それらを容赦なく相応しい状況にするであろうことに持って行くことをやる、それは言葉で表現して、人々に示すことで行う、そこで私には、自然に考えて、実行者が必要であるが、実行の完全なシナリオを自ら作り出すことを私はまずはやってみようと思う。

 アルジュナは、インド人で、ヨーロッパ人と理解し合える、バガヴァッド・ギーター上で最上の者である可能性が高い、又、インド国内における、現実上の最高利益獲得者は、ゾロアスター教の人間である可能性が高い、インドで有名なタタのCEOは、ゾロアスター教の人間であるようであるからである。

 “私は多くの生を経て来た。あなたもそうだ。アルジュナよ。私はそれらを知っている。だがあなたは知らない”そう言う、バガヴァッドは真理を言葉で語る、という能力が低かったかもしれない。そして語る術を体現できないバガヴァッドを信用することは、現世利益主義の延長で考えるに、懸命ではないことが考えられる。

 現代世界で宗教を語るためには、信じることを強要することは、あまりいい手ではないことが考えられる、現代世界で宗教を語るためには、世の人々も平等に知れる様にすべきである、それは言葉によってなせることが考えられる、言葉で真理を語ることは、真理とはかけ離れたことである可能性はあるが。私は前世を知らない、そこで、私がもがくことは、現世上の利益達成の先に宗教上の達成がある、と捉えることである。そして、今のところ考えられる最大の出来る神は、過去・現代・未来・四次元に自由に遍在する可能性がある、と言える。出来る記憶がある者は、過去・現代・未来・四次元に遍在しつつ、ある意味において自分の能力を高めていくことが考えられる、創造して行くことが考えられる。聖バガヴァッドは、自分の記憶があるのに、自分の考えを進化させられなかったことが考えられる。きっぱり言えば、過去の歴史上の過ち、正しいとすべきことの混在の、総括から創造を行なったことが考えられる。

 私の考えでは、私が現世利益を確立する、高い方法を考え出したならば、生物の未来における、多くの不快は無くなる、そこにおいて、生物が、輪廻転生をしても、問題がない状況が創り出されることがあるが、それはいつになるかはわからない。しかし、未来をより長く思うことは、多くの利益をもたらす、そこにおいて、未来の者たちが、より良い方法を生み出し、私達を救ってくれることも考えられるのだから。

 まず考えられることが、過去と未来のどちらに完全な真理が存在するかを問うことである。完全な真理など存在しないかもしれない。「言葉で真理を語ることは、真理ではない可能性が高い」その場合は、人間は、言葉を語ることでは、進化したが、真理を知るということでは退化した可能性が考えられる。それは、人間自身が素晴らしいと思っていたこと本位で考える主義に依拠することが考えられる、それによって、生物多様化的には人間は退化したことが考えられる。歴史上の書物を見るに、人間は、言葉で真理を語ることでは、進歩してきたことが考えられる。それらは、プラトンの書物や、アリストテレスの書物、とニーチェの書物を比較して考えられることである、ここにおいて、私は、絶対的価値が存在すると、無条件で看做した、しかし、多数決民主主義的観点からすれば、プラトンやアリストテレスの書物は、ニーチェの書物よりも、レベルが高いと考えることができるかもしれない。

 そこで考えられることが、生物多様化をより、実現化することと、言葉における進歩を同時に達成することである、これは、可能性のいくつかである可能性はあるが、できる人間は、あらゆる方法を駆使して、あらゆることを価値が高いものとして設定することができる。

 そして、現世上では、多数決民主主義的観点から、聖バガヴァッドが万物の主である、という考え方は、多くの人々に受け入れられないであろう。そして聖バガヴァッドの思想を信じる者としては、ヒンドゥ教徒が考えられる、その人口は9億人もいる、しかし、多くの人々は現世上の不快を強いられている状況であることが単純には想像できる、これから開放してくれる、より良い思想が作り出されれば、インドのヒンドゥー教徒は、聖バガヴァッドの思想をあっさりと捨て去ることが考えられる。私は、現世上の利益も宗教上の利益も両方とも、叶えられれば、叶えるべきである、と考える。

 まずは、現世上を心地よく生きるための諸々のことが、より言葉で整えられていないことが考えられる。私は、人間はまずは言葉上のことを整備すべきである、と考えた、そこで、私は、主に言葉に関わることにした、もう一つの理由は、現世を、軍隊・暴力依存の状態から、解除することを目的に考えた、ということがあった、そこにおいては、言葉で、何かを表現することが、より良いことである、とかつての私は考えた。

 私の思想は、私の脳内で、ちょびちょび出現し、直ぐに去っていく、その尾を出来る限り、逃さないことを、私は、わたしにおいて、よりなすべきこと、とする、そこで、私は、現世上で、現在進行形で語ることは得意ではない。しかし、私は、アドリブで、多次元構造の文章で表現することは可能である。

 “実に、美徳(正法)”が衰え、不徳(非法)が栄える時、私は自身を表すのである。”という聖バガヴアッドの言葉から、法を語る、ということで聖バガヴァッドは、言葉に依拠することを考え出した様であることが考えられる、自己のプラクリティ(根本原質)に依拠しながら、・・・、聖バガヴァッドは2つのことに依拠している、出来る神は最高のことができることが予想できる、ここにおいて聖バガヴァッドは、神は神でも、出来ない神である可能性もあることが考えられる。そこで聖バガヴァッドの幻力(マーヤ)はその面からすれば高くないことが予想できる、私も幻力を持って、言葉で表現していて、聖バガヴァッド以上のことを表現している可能性がある現実があるからである。しかし、結局は聖バガヴァッドに触発され、それらは導かれる。そこで、私は今のところ、聖バガヴァッドを最高の存在であると看做す。人々は競い合って、より価値が高いと思えることを認めるべきである。

 “善人を救うため、悪人を滅ぼすため、美徳を確立するために、私は世期ごとに出現する”と聖バガヴアッドは言うが、そのような状況においては、聖バガヴァッドは、最高の自由を持ち得ていない可能性が高い。出来る神は、どんな時代にも変幻自在に出現することができることが考えられるから。

 聖バガヴァッドは、第3章、二十四章において、“もし私が、行為をしなければ、全世界は滅亡するであろう。私は混乱を引き起こし、これらの生類を滅ぼすであろう”と語っている。ここにおいて言っていることを、第3章、二十四章において、言っていることと比較すると、“善人を救うため、悪人を滅ぼすため”という聖バガヴアッドの言葉は虚しく響くばかりである可能性が高い。しかし、聖バガヴァッドの著述能力、幻力は圧倒的に高いことを私は認める、そこで、聖バガヴァッドに意義があるか無いかを問われれば、私はある、と言うであろう、しかし、だからと言って、現世上の利益を体現できていないことが考えられるヒンドゥー教徒は犠牲になるべきではないことが考えられる、ヒンドゥー教徒は一つの考えとしては、信じるものを変えれば良いのである、これは、私がバガヴァッド・ギーターをここまで一読した状況で言うことである、私の考え自体が、バガヴァッド・ギーターを最後まで完読した場合、変わる可能性はあるが、しかしその可能性は私の著述を振り返り見る以上は薄い。

 聖バガヴァッドは、“私の神的な出生と行為を、このように如実に知る者は、身体を捨てた後、再生することなく、私のもとに来る”と言う、しかし、ある場所では、“私は不生であり”と語り、ここでは、“神的な出生”について語っている、しかし、真理は言葉としては遍在しない可能性もある。しかし聖バガヴァッドの言うことは、アルジュナを戦闘に向かわせる、便宜である可能性も否定できない、しかしその可能性は薄い。そして聖バガヴァッドがここで言うことが真理ならば、良い可能性もある、とは正直思った、聖バガヴァッドと平等であるならば。真理は言葉としては語れない特質を帯びているのかもしれない、しかし私は、今のところは真理を言葉で表現しているからそれは真理ではない可能性もあるとする、私は、真理は人間が生み出すものである、可能性がある、としている部分もある。しかし、言葉上の矛盾よりも、まずは気持ちが大切なのである、理解しようとする気持ちが肯定的見解を生み出し、懐疑的見解が否定的見解を生み出すかもしれない、それがアウフベーヘンなのではないか?そして、構造的思考が必要なのである、それにおいて、真理を言語で語れる状況を導き出すことは可能かもしれない。

 しかし、聖バガヴァッドが言うことは、結局は、信じることを必要とさせる、バガヴァッド・ギーターはその表れである可能性がある。そして、私はバガヴァッドを今のところは信じられない。しかし、私は聖バガヴアッド・ギーターを完読したときに、ある程度信頼し、ある程度は懐疑的態度を取る、という状況は生み出されるかもしれない。

 聖バガヴァッドの言葉は、言葉的には、一次元的結びつきであることが考えられる。詳しく言えば、愛執、恐怖、怒り、にも良いものと悪いものがある、と言える。ここで考えられることは、聖バガヴァッドは、最高の幸せを体現していない、可能性がある、と言える。聖バガヴァッドよりもより、幸せであるものは、多いと言える可能性がある、まずは、現実世界に生まれる労を解決するであろう、それは最高の言葉で構成されていないならば、後に生まれた者によって覆される危険があるから、なぜならば、言葉上のことに関しては、今のところは後に生まれた者の方が有利であることが考えられるからである。そして聖バガヴァッドの言葉は、歴史上においては特質的であるが、後世で、高い真理を言葉で表現する者が現れるかもしれない。私はここにおいて、二つの可能性を両立させている、がはっきりとは断言できない、という状況を迎えている。ここにおいて、私は、究極的には、一度だけ、最高の決定をなすつもりである、それは世界の全ての人々が、全体的に、幸せになれることを行うことである、その場合は、満場一致の賛成を目指す。今の私の危機は、“真理を言葉では語れない可能性がある”という立場と、“真理は言葉で語れる可能性がある”という2つの立場を取っていることである、私は、これはそのままにしておくつもりである、そして、その上位と思える考えでこれらは統合し解決しようと思っている。しかし、可能性についてまでを言及することによって、両者を並び立たせることはできる。“真理を言葉では語れない場合があり”、“真理は言葉で語れる場合がある”とすることで、両方の同時的存在は可能である。しかし、場合によって分けられるから伝統的に考えられてきた、純粋な真理とは違うであろう。しかし、新しい真理というものの概念構造である可能性はある。
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 ここにおいて、便宜に頼らずとも自分の力で説を著述する力が私自体に備わっていることを証明したであろう。私は、頭の中に、ドーパミンが放出された感覚を実感した。しかしそれでは多くのことを語れない可能性がある。そこにおいて、私は、一流のことは書けるであろうが、比較的にくだらない、しかし、最終的に踏まえるべき、基本的なことが描かれる可能性がある。それは通常は最後よりも2番手前で行うべきことである、と今の私は考えている、それは、帰納的、私の思想のあらすじの様な役割を果たすであろうことが考えられる、それは基本的には老害になってから行うことにしようと思う。そしてそれらはくどいであろう。それらは、日常生活で起きていなければならない、時間にやろうと思う。しかし、それは、現実的には狭く浅い。
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(便宜後)
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 私は、米・露・中・仏・韓・台・湾・英・独・トルコ・ポーランド・インドネシアオランダ・オーストリア・スペイン・ポルトガル・ノルウェー・デンマーク・スウェーデン・フィンランド・オーストラリア・ブラジル・メキシコ・南アフリカ・ベトナム・他各国(とにかく世界には193の国があることを日本人は忘れていないだろうか)チュニジア・エジプト・インド・パキスタン・アゼルバイジャン・チェチェン(しかしテロは行うべきではない)チベット・ウイグル・リビア(私はわずかに情的にカダフィ側の味方《理由:民主化は意義があるが、カダフィは特別の能力を持った人だから、双方による言葉のやり取りによって解決がなされるべきである》)スペイン・日などの幸せを考える。現状では北の少しの幸せも考える。イタリアについては、もう少し、観察させてもらいたい、というのは、私が見るに、イタリアは強力な軍隊によって、2度に渡り国の利益を叶えた、という歴史が見受けられるからである、しかし私は最終的にはイタリアの利益も考えるであろう。そうしなければ、満場一致の賛成は得られないであろうことが予想されるから。

 バガヴァッド・ギーターは、“世界の維持のみを求めて行動すべきである”、とする、私は、それを、的確に言葉によって、表現する、「世界の維持は重要なことの一部である」とする。世界の維持は重要なことの一部である、しかし現世上の利益体現がなされ、世界の維持は副次的になされるべきである、という立場を私は取る。ここで、私は、一族の美徳・世界の階級の美徳を決して舐めてはいない、そこにおいては、世界の維持に変わることとして、よりよく世界を変えることが考えられる、しかしそれを、私なりには、出来る限り漸進的に行うことを一つの方法とした。それは私一人の能力のみを考えた場合のことである。なぜならば、世界は少しずつ解きほぐすように、問題を解いていく形が考えられ、そのようにすることが、現状の幸福と、新しい幸福を叶える最適なやり方であることが考えられるからである。今私は、“より多くの人々の意見を反映するシステム”と“意見トーナメント制”、というものを作り出した。それにおいて、世界をよりよく変えることに専心できる可能性はある、しかし、より、世界を良い状況にしておくには、世界は維持し、実質上の改革が行き渡る状況を導き出し、世界の維持によって維持された組織・習慣などは形骸化されても誰もがそれらに関われる状況にしておき、人々がそれぞれが自由に平等に、実質上の改革によって、人々がそれぞれの実質的な幸せを実現できる状況にすることが考えられる。インドのカースト制は形骸化されているか否か?インド人のヨーガというものは何かに興味がある、それらのことが示されれば、ヨーガは迷妄とは言えない。そしてカースト制度をまあ、そのままにしておき、カースト制度によって生きることを規定された人々に現世上の幸福がもたらされることは考え出すことが可能である。それは、カースト制度内の人々の関わるべき仕事の内容を、全体的に楽にさせることによって、又はゲームのようなものにしてしまうことによって、もたらせることができる。 私は現世上の利益しか見い出せてはいない、私が得た教育・得た経験(家族との・友達との・敵との・職場での)からはそれを信じる状況が私にもたらされた、しかし、余力があれば、宗教上の利益も見出す。そこにおいて、私は、歴史を学び、英語を学び、国語を学び、学生時代により多くの経験をすることと、文系を志望した、文系志望の理由は、文系の人間が理系の人間に研究させれば良い、と思ったからである、あまりにも単純な、現世利益主義の選択であった、しかし、それ以外の理由もあった、それは、私は父親が素晴らしい経験を語ることから、多くを経験しなければならない、と考えたからである。そこで、私は、高校時代にその頃に特有な処々の経験をなす必要があると考えたからである、そして父親が早稲田大学政治経済学部政治学科出身であることから、私も必ず、早稲田に行かなければならないと考えたからである。

 私は、人間が現実世界で宗教上の幸せを創出できる可能性がある、としていることにはわけがある、なぜならば、このハイスピードでハイクオリティーな物を作り出せる社会で、斬新な発案・意見が導き出されたならば、あとは科学上の研究だけが残り、それは、将棋における、王手の状況で、将棋における詰みの状況(つまりは考え出した発案は速やかに実現される状況)が導き出される可能性があるからである。それは一つの可能性である。もう一つのより大きな可能性は、このハイスピードでハイクオリティーな物を作り出せる社会で、この世界で世界をできるかぎり、より人々の幸せを実現することに、重きを置き(それは、ほとんどの人々が、一つの考えを良いと考える状況となることが考えられる、そうでない状況が人々にとって相応しいことであると人々が決めたならば、私はその状態にしておこうと思う)、多くの人々の労働を自動ハンドシステムで軽減させ、多くの人々の発案・意見で良いものが選出される状況を導き出し、効率的に議論が行われるようにしたならば、あとは科学上の研究だけが残り、宗教上の完全な幸せは導き出せる、可能性があるからである、科学上の研究が大問題である可能性はまああるが、そこで考えられることが、多くの科学者の研究である。私の宗教上の幸福を編み出せると考えられることは、多くの科学者の協力を必要とする。その場合は、出来る限り満場一致の賛成が得られるようにすべきである。しかし、私は、一生のうちに一度は命を賭ける、しかしその必要が無ければ、それは行わない。それはできる限りの満場一致の賛成が得られないときに行う、究極の選択である。私は人生上で、200度ぐらい死ぬ思いをした、ということも事実としてあるが。

 私は、未来の人間が過去の私を救い出し、天界に導いてくれることを望む、そしてできれば、私とともに歴史を歩んだ人々全てが、天界に導かれるべきである、と私は思う。

 カースト制の上位の者が、生きている間には、輪廻天性の記憶があるか?カースト制の上位の者が告白すれば輪廻天性の記憶は無いのではないか?そこで言えることは、ヒンドゥー教を信じることによって、輪廻天性の記憶が無い者にとっては、目の前の現世上の利益が無駄になっているという事実である、目の前の現世は確実に真理の一部である。 聖バガヴァッドは、ずうっと長い間輪廻転生し続けていたとしても、現世上の人間・動物・植物に幸福をもたらすことが出来ない可能性がある。それは、言葉や人々の行為などの記憶で、誤りの記憶と正しい記憶がごちゃまぜになっている可能性が高いからである。

 私は、著述に対しては、純粋に、言葉で私の本心を言う。そして懐疑精神から、常に根本を問う精神が導き出される、そして、ああした方がいいんじゃないのか、こうした方がいいんじゃないかの改良案が出てくる。しかし、現実上での振る舞いにおいては、それだけでは、全てを解決できない。まず、現実上に、無視できない、常識・格差・習慣などがある、それらを考慮し、金を稼いで生きていく実社会の多くの者にとっては、(士・農・工・商・官などに勤しむ者達にとっては≪それを言うからといって、私は、かつての身分制度の復活など、まるで考えない≫)私の様な態度は、現実的ではない無用の長物、とあっさり括られ、捨てられることが考えられる、しかし、私が常に提言することが、言葉の基本姿勢である、という可能性はある、そして私は、士・農・工・商・官などに勤しんだ人々のおかげで、自分自身の幸せがもたらされている、それらの人々に私は、敬意を表する、そして全ての先祖にも、敬意を表する。
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 ◎バガヴァッド・ギーターに書かれている、聖バガヴァッドの、累計4,320,000年間の人生における輪廻転生の記憶が無いものにとっては、想像を絶する、苦難と良いことなどの、そうであるがゆえに、その人生を労わるべきである、経験によって、人間が正しいとすべきことと、人間が過ちとすべきことが合わさって、全体的にごちゃまぜになってしまった全体の考えから、導き出された、過去のことであったがために(または真理は言葉によっては表現出来ない可能性があるがために)、言葉としては多く誤りが見い出せ、言葉としては単純構造であり、全体的には偏った可能性が考えられる、総合的価値観から演繹されたことが考えられる、それぞれの哲学宗教上の創造である多くが部分的に誤りであるが、ある程度は参考にすべき所々の考えが、現実的に生み出されたことは考えられることである。であるからして、インド人よ、それを私の著述から見出したならば、そこから自然とカースト制から開放されようという意志が生み出されることが考えられる。しかし、インド人が、有益なヨーガを持っているならば、そこにカーストの意味は見出すことはできるであろう。
 私は輪廻転生は迷妄である可能性があることとしたが、聖バガヴアッドの経験が真理であるならば、輪廻転生は真理である。
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 そこで“バガヴァッド・ギーター”には誤りが多く含まれている可能性が高いが、今のところ私に最高のひらめきを与えてくれる、バガヴァッド・ギーターよ、最高!
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 しかし戦争が日常茶飯事であった時代において、その現実を直視し、そこに現実上の多くの人々の幸せを実現するにあたり、世界の維持がその当時における最高の思想であった、ということは考えられる。しかし、この考えは、バガヴァッド・ギーターにおいて、説かれている趣旨とは違う。
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 より高度な平等は、生物(動物・植物)・ものと、現世上の有益な思想、宗教上の有益な思想などを全て引っ括めて同じである、と見ることである、それは人情からも動物の気持ちからも、植物のどこかに存在することが考えられる主体の体現からもかけ離れていて、現在の歴史上の時点においては、なされるべきではない。しかしものにも気持ちが生まれたならばそれらは、労わってあげなければならないことは考えられる。──────────────────────