本間勇介流大型改訂版:聖書 | 三上祐一のブログ

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 独自の日本大改革案を掲げる三上祐一のブログです。 なお私はこのブログの著作の一部がウィキペディアの「三上祐一」の項に投稿されることを認める。 http://yuusukeueno.blog40.fc2.com/


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 本間勇介流大型改訂版:聖書(一部)
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 さあ、私の述べることで、誤りがあるならば、なんなりと、それを指摘せよ!

ローマ 第10章

1 神がいるかいないか、実際のところ、生身の人間には、わからない。救われるためには方策が必要である、その場合・高度な対処を行うと、ケース・バイ・ケースで行われる、ということもある、その場合は、誰もが納得が行く対処方法がとられねばならない。それと同時に、最低限の常識のようなものも必要であろう。そして、個々人の人心を知り抜いていなければそれは実現できない。それらは為政によって達成される。しかし2011年現在、その道は、厳しい。

2 大体において、神がいるならば(それも唯一一神)なぜ神は、義を重んじるかの理由が述べられなければならない。なぜ義を重んじるか、それは効率よく人々の幸せを達成できるからである。ただし、悪人には悪人なりの義がある、と私は思う、それが良いものであるかはいざしらず。

3 大勢の人々は、それぞれの人間が、複数の多くの場における経験を積めば、真の義、というものにたどり着けるかもしれない、2011年現在、世界は、世界の人々が、そのように行動できるように社会が整備されるべきである、それが、神をただ信じるということを行う前に、生において、人々がなすべきことではないか?そしてその先に宗教問題がある、と考えることが、人間にとって、及び生物一般にとって、好都合なことなのではないか?好都合である、ということは軽んじられる、しかし、それぞれの人々が好都合なことを実現できれば、それは、暗に神を信じることよりも、幸せな状況なのではないか?生において、それぞれの生物が、自分自身の生における幸せを実現できること以上に幸せなこととは何がある?何も無いのではないか?

4 キリストは立法を終わらせた、というが、それは2011年の現時点から見るに、不十分であったのではないか?充分であれば、全ての者が、言葉による解決方法によって、己達の幸せを達成できたであろう。キリストは言葉による、解決方法を取らずに、自らが犠牲になって、神になることによって、ものごとを解決することになった、それは省エネ的なことではない。

5 モーセが立法という方法をとったならば、それは最適なやり方とは言えない、立法ということ自体が時代遅れの方法である。最適なやり方は、それぞれの現実的な人々の意向一つ一つに沿って、事象が解決されることである、そして、規則のようなものは出来る限り無いほうがましなのではないか?。

6 2011年現在人類は、多くの経験を複数出来るようになったおかげで、人々それぞれが、義にたどり着けるようになった可能性がある。日本はペリー来航によって、薩英戦争・四国艦隊下関砲撃事件で、開国を余儀なくされ、苦境を余儀なくされてきた。人々は、幕末・明治・大正・昭和生まれの日本人は、多くのかけがえの無い経験をしてきた、ということを忘れてはならない、それらの人知を出来る限り、有効活用すべきである、ただしそれは、昔の意見をそのまま採用する、ということではない、昔体験されたことで有効活用できる部分は有効活用しよう、ということである、そして人々は、まずはそれぞれのオリジナルの意見を持つべきである、というのが私の主張である、そして、人と意見を言い合って、自分に否があったならば、素直にそれを認め、認めるべき意見を受け入れるべきである、しかし人々には自由が保障されている、しかし自由は、人に危害を加えない限りにおいて、活用されなければならない。