「思考のパラドックス」所収の今村仁司との鼎談で、栗本に柄谷が「近代経済以前の経済によって近代経済を解体することはできない」と批判めいたことを言う一幕があった。この頃にはまだ両者に交流があったということだ。これは、1980年代前半のことであったから、生命論的展開全開の中期栗本(『意味と生命』『パン捨て』『大転換の予兆』)を柄谷が読んでいたかどうかは分からないが、市場社会(資本=ネーション=国家)の次なる社会への栗本的な暗い見通しを、明るく転倒したのが、交換様式論者(トランザクショナリスト)になってからの柄谷である、と結果的には言えよう。マルクスがカント的だったと柄谷が言うとき、必ずしもカントを読んで影響を受けているという意味ではないのと同様、中期栗本を読んでなくても、中期栗本を結果的に継承していると言うことはできよう。


小阪修平と栗本の対談本「言語という神」(作品社)のなかで、栗本が「内面が暗い人は表面が明るい、逆もまた真なり」と言って、深刻そうに振る舞っている柄谷はまだまだ能天気だとでも言いたげだったが、むしろ逆の意味でこの言葉が真実になっていると思う。