リンクされているアマゾン・レビュー を読むとわかりますが、栗本慎一郎と柄谷行人の各々の主張から次のような共通点が括り出せると思う。


「市場社会を変性意識状態を経て乗り越えたあとに分権的組織社会がある」



「市場社会」を柄谷風に言うと「資本=ネーション=国家」となるし、「変性意識状態」は栗本風には「脳内麻薬分泌」であり、柄谷風には「カリスマ的個人による開示」となる。


しかし、栗本のほうは90年代初頭に『大転換の予兆』で以上のような認識を示した後、フェイド・アウトしてしまった。この本の中で「企業は細胞や器官のようになっていく」と書いているが、それが「ヒラ社員が社長の手足となって・・・」みたいなもの(つまりトップダウン組織)とは違うというのは、彼が80年代に「胸がウキウキ」のようなコピー(体の各部位が生命を持っている、という感じを表現したコピー)を評価していたことからも分かるであろう。また、本書では、ドラッカーやトフラーのような分権型組織推奨イデオローグ(前者はジャズバンド型組織を称揚し、後者も『パワーシフト』でフレックス・ファームつまり柔構造企業に一章を割いて注目した)の著作に依拠していることからも分かる。


柄谷は単著で言えば『トランスクリティーク』のあたりから、上記のようなことを言い始めたが、本全体でそれ(交換様式論)をテーマにしたのは、『世界共和国へ』あたりからだろう。


栗本のほうは、結局シンボリックアナリストとそれ以外の格差が生まれるとあり、柄谷はむしろそのような分権組織社会のヴィジョン(アソシエーショニズム)に希望の原理を見出している。


私個人は、90年代までに栗本を読んでいなければ、今世紀の「交換様式論」をやり始めてからの柄谷に興味を持たなかったであろうという意味でのみ、栗本を評価する。

あとは全然ダメ。『ツァラトゥストラ』の冒頭に、主人公が山を降りてくるときに、綱渡りの現場に出くわすくだりがある。


「最初の同伴者は、道化と死体だけであった」とツァラトゥストラは語る。


ここで出てくる道化と死体の合成体が栗本で、主人公である賢者ツァラトゥストラが柄谷といったあたりか。