釜山に行くついでに、「韓国の京都」、「屋根のない博物館」と称される慶州にも行こうと考え中です。
電車、バスなどで1時間程度で移動できるらしいです。
慶州の歴史を簡単に時系列にまとめてみた。
(参照)
https://kotobank.jp/word/%E6%96%B0%E7%BE%85-80808
https://www.gyeongju.go.kr/open_content/japanese/page.do?mnu_uid=1438&parm_bod_uid=208148&step=258
紀元前57年頃
赫居世(かくきょせい)が金城6村の長に推戴されて即位し、斯盧 (しろ) 国が誕生。金城が都に置かれた。その後、935年の新羅滅亡まで、斯盧、新羅の都は現在慶州と呼ばれる金城に約1000年間置かていた。
この6村は、現在の慶州市とこれをとりまく幅1km、長さ10km以上の谷間をそれぞれ根拠地として発展した。
とくにこの地方の谷間は初期農耕にもっとも適したゆるやかな傾斜地となっている。この農耕生産の有利な地域を基盤とした6村は連合して斯盧国となるが、地域的に偏在していたため、4世紀後半まで国際社会に参加しないが、社会的にはかなりの発展をみせた。
斯盧国時代の政治組織を建国神話などからみると、支配権力は弱く、個々の成員が重視され村落共同体の秩序が確立していた。
この段階の王者は、政治的・軍事的才能を要求されるのではなく、農耕生産に不可欠の要因である天候を予知するシャーマンとしての能力を求められた。斯盧文化の性格を神話でみると、加羅地方と類似し、天神が山頂に降臨し、水神を王妃として迎える農耕神話がある一方、海洋渡航神話もあり、その基層文化は南方系統とみられる。これに対し貴族文化は、墳墓の構造やその出土品から伝統を尊重する保守的傾向が強いが,楽浪郡,帯方郡の中国文化や高句麗,蒙古などの北方文化の影響もみられる。
魏志東夷伝によれば朝鮮半島南東部には3世紀頃辰韓諸国があったというが、4世紀なかば頃高句麗の南下と百済の形成という国際環境に促されて、そのなかの一国、斯盧 (しろ) 国が中心となり辰韓12国を統一して部族連合的国家が成立。370年代には新羅と称した。
新羅の文化は早くから中国文化の影響を受けて開花した。527年仏教の公伝以来、円光、義湘(ぎしょう)らの学僧を輩出し、また豊かな仏教芸術を生んだ。
当初は高句麗に従属したが、6世紀初めに自立し、氏族の身分制である骨品制を形成。律令・年号を定めて国家体制を確立した。
7世紀半ば、金春秋と金庾信らが唐と結び百済・高句麗を討ち、676年に朝鮮半島を統一した。郡県制をしいて律令制的中央集権体制を固め、唐文化を受容した。
7世紀後半
唐と結んで百済、高句麗を滅ぼし、676年、朝鮮全土最初の統一国家となった。
武烈王以後、約1世紀は新羅の全盛期で、735年には大同江以南の支配を唐に承認させ、領域の拡大をみた。
慶州を首都として全国を9州に分け、郡県の制も一応整理され文運も隆昌をきわめた。唐制にならい中央集権的な政治体制をしいたが、地方勢力の台頭に苦しみ、王位の相続にからむ諸種の矛盾は822年の金憲章の大乱を引起し、この反乱を契機として中央の権力は弱化し、地方では豪族が割拠した(いわゆる「後三国」の対立時代)。
9世紀末、西南に後百済、西北に泰封、高麗が自立して国土は分裂した。927年には後百済 (こうひゃくさい) のために景哀王が殺され、敬順王が即位した。
935年
敬順王は最有力の豪族、高麗の太祖王建に投降してその貴族になり、新羅は名実ともに滅亡した。
統一新羅が歴史の中から姿を消し、慶州は一国の都から高麗の地方都市となった。
慶州市街地の中心部には、新羅以降の千年の慶州を象徴する主な遺跡として、慶州邑城(ウプソン)がある。
高麗時代から朝鮮時代に至るまで、行政、生活、軍事機能を果たした慶州の新たな中心部であった。
慶州邑城は高麗時代に初めて築造されて以来、李氏朝鮮時代に何度も補修されたという記録があり、現在の復元は1745年に改修されたものである。城郭の周囲が2.3kmに達し、東西南北に城門があったが大半が焼失して東側の城壁の一部だけが残っていたところ、数年前に東の城壁から復元を始め、東門の向日門(ヒャンイルムン)を復元し、また城壁を順に復元していった。
李氏朝鮮時代(1392年〜)は、新羅時代から高麗時代まで蓄積されてきた仏教文化に、儒教の文化が加わった。
1910年〜45年
日本統治時代
1970年代
食べていくだけの生活から抜け出し、「観光」に注目し始めた。普門観光団地の水車広場には、「韓国観光の歴史、ここから始まる」という内容の記念碑が建てられている。
慶州は韓国観光開発の先駆けとなった。慶州総合開発計画事業が樹立されて以来、韓国観光の起爆剤となった観光休養団地「普門観光団地」がつくられた。巨大な人工湖である普門湖周辺には、高級ホテルやコンドミニアム、観光施設や文化施設、散策路が設けられた。今日も普門観光団地は、慶州旅行には欠かせないコースの一つとなっている。
日本占領時代、外国人の手で行われていた文化財の発掘事業も、この時期に韓国人が直接手がけるようになった。
新羅時代の古墳が集まっている「大陵苑」も、1970年代に整備された史跡公園である。約12万6,500㎡の広い敷地に大小23基の古墳があり、その合い間を散歩できるよう美しい散策路が整えられている。また皇南大塚や天馬塚を発掘し、大規模な皇南大塚が発掘される前に、練習として行っていたすぐ隣の小さな古墳で大発見があった。繊細な技法や華やかさを誇る金冠、そして縁起の良い天馬が描かれた泥絵「天馬図」が出土したのだ。第155号古墳が「天馬塚」という名を持つこととなった瞬間である。その勢いを受けて、皇南大塚の発掘も始まった。膨大な規模の物資や人員が投入された巨大なプロジェクトであり、規模にふさわしくこの古墳だけで5万7千点余りの遺物が出土した。本格的な韓国の観光の歴史が始まってから現在も、慶州のいたる所で発掘の歴史が書き加えられている。
慶州で史跡として登録されている世界遺産は4つ
①仏国寺と石窟庵(1995年登録)
②慶州歴史遺跡地区(2000年登録)
③韓国の歴史村である良洞村(2010年登録)
④韓国の9カ所の書院の中の慶州の玉山書院(2019年登録)
◯慶州歴史地区
https://www.mapple.net/global/article/125412/
慶州には、紀元前1世紀から10世紀まで、約1000年もの長きに渡り栄えた新羅王朝の都が置かれた。そのため、この周辺には新羅時代の古墳や仏教関連の遺跡が多く見られる。慶州が「屋根のない博物館」と言われる所以。
https://worldheritagesite.xyz/gyeongju/
総面積288平方kmの歴史地区には新羅時代の史跡がいたるところに残っている。
この歴史地区は南山地区、月城地区、大陵苑地区、皇龍寺地区、山城地区の大きく5つに分けられる。
仏教の聖地である南山地区には110を超す寺院跡や80ほどの石仏などが残っている。
王宮があった月城地区には風光明媚な雁鴨池や、1000人以上を収容できる臨海殿、7世紀に建立された東洋最古の天文台である瞻星台がある。
大陵苑地区には王族の古墳群、皇龍寺地区は新羅最大の寺院だった皇龍寺の跡地が存在。
山城地区は防衛の東の拠点であった場所で、明活山城の門跡や礎石などが保存されている。
https://map.konest.com/dforum/31628
https://www.morekorea.net/article.php?no=354&enlargeimgno=1
◯仏国寺と石窟
韓国の世界遺産である石窟庵と仏国寺は、8世紀ごろの景徳王の時代、宰相の金大城によって慶州市南部に建立された。
仏教の経典である法華経に基づいて作られた仏国寺は釈迦の国を、人工の洞窟を作って円形の主室の中央に祭られた高さ350cmの石窟庵の仏像は絶対的な悟りを得た瞬間の微笑を再現している。
新羅の人々は、目に見えない宗教の世界を独特な建築技術と美しい彫刻品で形象化することで、理想の世界を現実の世界に造りだした。
https://worldheritagesite.xyz/seokguram-grotto/#google_vignette
◯良洞村
良洞(ヤンドン)は、韓国慶尚北道慶州市にあり、河回(ハフェ)、と共に、大韓民国の歴史的集落として世界遺産に登録された。
二つの村は、共に、農村地方の伝統的な生活様式と家屋を保存している。
https://worldheritagesite.xyz/contents/yangdong-folk-village/
市内からは少し離れてる。時間ないとちょっと厳しいかな。
◯玉山書院
玉山書院も慶州市内からは離れてるが、良洞村からは近く、みるならセットか。
子供連れてここまで行けるかは微妙なので今後要検討。








