済州(チェジュ)の歴史についても時系列に簡単にまとめました。

 

(参考)

http://visitjeju.or.kr/web/jpn/aj0101.do

https://www.y-history.net/appendix/wh0403-031_1.html

https://world.kbs.co.kr/service/news_view.htm?lang=j&Seq_Code=89887

https://jeju.museum.go.kr/html/jp/sub03/sub03_030107.html

 

7万~8万年前

済州道の歴史はこの頃の旧石器時代から始まったとされる。この時代人々は洞窟や岩陰居住地にで生活し、 遺物では打製石器(打製石器), 骨刻器(骨刻器) などが発見されている。 以後青銅器、鉄器時代の遺物、磨製石器、土器、甕棺墓(甕棺墓) なども道内全域で見つかっている。

済州市涯月邑於音里の ‘ビルレモッグル’ 遺跡では打製石器とともに今日シベリアやアラスカ地方でのみ棲息する馴鹿とファングゴムの骨が発掘された。これらは今日朝鮮半島や満洲原野でも見られない動物であり、一昔前には済州道が今日のように島になっていないで大陸と繋がれていたという連陸説を反映する。

 

文献で見ると、済州道に関する記録は韓国の記録より中国の歴史書に先に現われている。紀元後3世紀中国三国時代の記録である 《三国志》 偽書東夷伝に出る ‘酒壷(州胡)’に関 する記録がその初めての例になる。

 

済州の昔の名称は島夷、東瀛洲、涉羅、耽牟羅、乇羅など。この中で '東瀛洲'を除いたすべてが '島国' という意味。

済州道の開闢神話である三姓神話によれば、太古に 「高乙那」「良乙那」「夫乙那」と言う三神人が漢拏山北側毛興穴(現在の三姓穴) という地の中で吹き出て革衣を着て狩りをしながら暮していた。これら三神人たちは 「碧浪國」で、五穀の種子と、子牛、小馬などを持って木盆に乗って済州特別自治道東海上に入って来た三公主を迎え婚礼をあげた。この時から彼らは五穀の種子で農業をして牛と馬を飼いながら暮し始めた。

 

その後 「高乙那」の15代子孫3兄弟 (フ、チョン、ケ)が当時韓国の古代王朝のひとつの新羅(B.C 57~A.D 935)に入朝して 「耽羅(※)」(済州特別自治道の昔の名称) という国号を持ち、この時から 耽羅は 新羅に仕えるようになった。記録によれば耽羅国は高句麗、百済及び新羅に分裂された三国時代には、これら国々と独立または隷属しながら外交関係を結んだ。

※ 島を意味する「耽(たん)」と、国を意味する「羅(ら)」

新羅と唐連合軍によって百済が滅亡(660)した直後には海向こうの日本と中国とも外交関係を結んでいる。

この頃は、済州道が地元の城主(星主、耽羅国王)、王子によって支配されており耽羅国時代と呼ばれる。

朝鮮半島を高麗が統一すると、高麗は行政官を派遣して済州の内政に干渉した。

1105年 高麗の行政区画である耽羅郡に編成され、「国」としての地位を失い、高麗の直接的な統治下に入る。しかし、城主、王子の地位はそのまま尊属され世襲して朝鮮初期まで続いた。彼らは実質的な耽羅の統治者としての役目を果たした。高麗の一地方となった済州には、新たな文化である仏教や青磁がもたらされ、多くの寺院が建てられた。

なおかつ高麗では耽羅国から来る使臣たちを中国の宋や日本からの使臣たちと等しく待遇した。耽羅国使臣たちは高麗の年中行事である八関会(土俗信仰)や燃燈会(仏事)にも参加した。

13世紀頃から済州(「海を渡った土地」の意味)という名前は使われていた。

 

ただし、モンゴルの支配の時は耽羅国と称していた。その後高麗に返還された後にはまた済州と称した。

1270年 三別抄の乱が起きる。

別抄とは特殊部隊という意味で、三別抄はフビライ=ハン率いるモンゴルが高麗を実質上の属国として支配したことに対して武力抵抗を行った。モンゴルと高麗の連合軍は猛攻により三別抄を打ち破ったが、三別抄の残党は済州島に移ってさらに抵抗した。その際、三別抄は日本に救援要請を行ったが、時の鎌倉幕府はそれに応えることはなかった。しかし、高麗の官吏の厳しい扱いに苦しんでいた済州島の島民は三別抄を支援したため、彼らの抵抗は続いたが、1273年4月に1万2千名の高麗・モンゴル連合軍によって三別抄遂に平定された。これにより、耽羅はモンゴルによる直接統治下に置かれ、「耽羅総管府」が設置された。最終的に韓国内の混乱を収めることに成功したモンゴルは翌1274年に文永の役で日本に攻め込めこんだ。

その後、モンゴルによる済州の直接、間接的支配は1374年まで約百年間続いた。

1402年 李氏朝鮮が朝鮮半島を統一して程なくして、中央の行政力が済州に及ぶようになり、城主は左図支管(左都知管)、王子は牛島支管(右都知管)と改称され、中央の一行政官となった。

済州は全羅道に属する「済州牧」となり、中央から牧使が派遣された。済州牧使は性理学の理念に基づいて民衆の暮らしの安定を目指す政治を志した。済州の人々は土着の信仰を守りながらも、儒教の思想や生活様式を受け入れた。しかし、この時代、済州の人々は過酷な負担に苦しめられるという現実もあった。特産品である柑橘、馬、アワビなどの貢納が重くのしかかった。

 

1274年に1万223人だった人口が、李氏朝鮮の世宗(1418〜1450年)の時代に6万3,474人に急増した。そのため、失業者や犯罪者をを朝鮮半島本土に移住させて人口を調節した。

しかし、その後1470〜1624年にかけては、飢え(飢饉?)により、済州から朝鮮半島本土に移民する者が増えたため、1629年〜1825年にかけて移動を禁止する強制措置がとられた。

そのため、済州の経済や文化の発展は停滞を余儀なくされた。

一方で、地理的な位置から、済州道は流刑地としても扱れ、李氏朝鮮王朝約500年を通じて幾多の人々が島流しにされた。

そのため、済州に赴任した官吏や配流された学者、予期せぬ漂流によって外の世界を経験した人々は、島の中で暮らす人々に新たな視野をもたらした。

その後、近代化、西欧化の波にもまれ、目まぐるしく行政区分などが変化する中で、1897年に李氏朝鮮が滅亡。1910年の韓国併合移行、日本による統治を経験したのち1945年日本の敗戦にいたり、日本から解放される。

1948年 済州島4.3事件が起きる。4月3日、南側だけでの単独選挙は南北分断を固定化するとして、島民の一部が武装蜂起をした。これを受け、鎮圧を名目に本土から軍や警察、極右団体が送り込まれ、無関係な住民を含む島民らを6年以上にわたり拷問、虐殺した。犠牲者は2万5000人から3万人と推定される。

 

 


 

歴史関連の主な観光スポット

 

 

◯三姓穴

 

https://www.hankyu-travel.com/guide/korea/jeju.php

 

 

◯済州民俗村博物館

 

https://www.hankyu-travel.com/guide/korea/jeju.php

 

 

◯国立済州博物館

 

https://www.konest.com/m/spot_detail.html?id=7171

 

 

◯済州牧官衙

 

https://www.konest.com/m/spot_detail.html?id=5204

 

 

◯旧日本軍航空基地、掩体壕

 

https://globe.asahi.com/article/14091236

 

 

済州は史跡巡りというより、グルメとかでのんびり楽しんだ方がいいですかね。