聖書には終末の神の裁きについての預言があり、それは「この世が終わる」などという、とてもにわかには信じ難いことが書かれています。

ノストラダムスの預言もそうですが、そのような終末預言をまともに信じる人というのは、ちょっと頭の弱い人、オカルト好きの危ない人というイメージが世間一般ではあるかもしれません。

私自身はJWを辞めた今でも、聖書を神の言葉だと信じていますし、聖書が予告する終末も来ると信じていますが、それでもそのような話が社会一般的にはどういう位置付けか、冷静で客観的な視点をいつも大切にしなければならないと感じています。

というのも、聖書を神の言葉と信じるか、聖書預言を「今」信じるかどうかは、少なくとも世間一般の普通の人の救いにおいて緊急な問題ではないと信じているからです。

エホバの証人のような宗教は「今聖書預言を信じて行動しないと手遅れになる」みたいな煽り方で勧誘しますが、そんなことは全くなく「じゃあ本当に起きたら信じる」というスタンスでも特に問題はありません。

聖書では、終末に入れば聖霊の奇跡的な力を行使する聖徒たちが現れて、世界中の政治権力者たちの前で、誰も反論できないような言葉で神の王国の到来を証言すると予告していますが、「そんなことが実際に起きたら信じる」でも何の問題もありません。

「奇跡」というのは日常生活では起きないから「奇跡」なわけで、実際に起きて自分の目で見るまで信じられないのは当たり前です。

そもそも、終末の聖徒たちの奇跡の証しは「諸国民への証しのため」とあり「納得させる証拠を世に与える」とありますから、その証拠を見てから判断すれば良いというのは、聖書自体が述べていることです。(マタイ10:18,ヨハネ16:8)

ですから「聖書は神が書いたとした考えられない凄い本で、歴史的にも圧倒的ダントツのベストセラーで、今や世界中のあらゆる言語で翻訳されて、誰でも手軽に読めるようになっているのだから、それを読まない人や、読んでも信じない人はもう言い訳ができず、滅ぼされても仕方がない人」みたいな、いきなり人を断罪してくるJWのような宗教からは今すぐ離れて下さい。

聖書は神の言葉であっても、神ではありません。どんなに凄い奇跡的な話が書いてあっても、所詮は単なる文字情報です。聖書は人間の創作に過ぎないと思う人に、そうじゃないと証明する手段などありません。

JWは奇跡の重要性を否定し、イエスがトマスに言われた「見なくても信じる者となりなさい」といった言葉を根拠にして「奇跡を見たから信じるというのは不純だ」などと論じますが、トマスはイエスの奇跡を散々見てきた弟子であり、そこに深い信頼関係が築かれているからこそ言われた言葉を、何の奇跡も見ていない現代人に適用するのは筋違いもいいところです。

もちろん、聖書には終末の聖徒を生み出す母体となる「シオン」という集団についても預言されており、それは終末に先立って活動を始めるようですので、シオンを目指すような、延いては聖徒を目指すような志の高い人ならば、今誠実に聖書を探究することは重要でしょう。(イザヤ66:8)

キリストはこう述べられました。

「人の子が到来する時,地上にほんとうに信仰を見いだすでしょうか」。(ルカ 18:8) 

これは人間の側に投げかけられた「問い」だと言えるかもしれません。

一般的に多くの人は宗教に対して「それを信仰すれば自分にどんな御利益があるのか」を考えます。

エホバの証人のように楽園や永遠の命といった御利益のために信仰するのもそうですし、金運、商売繁盛、家内安全、心願成就などの御利益を求めて神社にお参りに行くのもそうです。

でもそのような「神は自分に何を与えてくれるのか」という思いが先に来る利己的な信仰は、キリスト教とは何の関係もありません。

本来のキリスト教は「自分は神のために何ができるのか」という利他的な信仰であり、これはキリストのように、いかに自分を捨てて、神の目的のために貢献できるかという、とことん自己犠牲的なものですから、決して人気が出るような教えではありません。

終末の聖徒の多くは厳しい迫害を受けて殉教することが聖書に既に予告されているのですから、普通はそんな役回りを進んで引き受けたいなどとは思えません。臆病な私ももちろん、聖徒を目指すといった気概はありません。

でも例えば、駅のホームから落ちてしまった人を助けるために咄嗟に飛び降りて、なんとか助けられたけれども、自分は電車に轢かれて亡くなった、というような、信じられないくらい勇気があり、自己犠牲的な人が実際に存在するのも事実です。

そのような利他的な愛の人が神から呼び集められて、全人類の救いのために聖徒として働いていくのかもしれませんが、それは本当に全人類の希望となる人たちです。

現時点で私が真理に最も近い聖書解釈ではないかと感じている「新十四日派」は、聖徒を生み出すシオンを構成する、もしくは合流することを目指してはいますが、この派も聖霊が注がれているわけではなく、あくまでも人間の活動によるものです。

ほとんどのキリスト教宗派が信者の救いや成功を目指すの対して、新十四日派は終末の到来の前から神の意志を理解し、その意図に自発的に協働することを目指します。その動機は神と人への愛であり、自己保身にはありません。

終末のシオンがどのような集団となるのか、個人的には従来のような人間の組織を形成することは不可能な気もしています。世界のどこに住んでいようと、一つの価値観を共有しているだけでも十分なのではないかとも感じています。それゆえにも、聖書の誤解を解き、柔軟で寛大な神の救いについて多くの人に宣伝していくことは重要だと思っています。

本当の意味で「人間に正しさはなく、神だけが義である」を心から認めること、
そして神が意図しておられる愛の社会、その「公共善」のために何か貢献できないかと考えること。

そうした新十四日派の主旨に共感して、何か少しでも協力したいと考えて下さる方は、ぜひ主幹者へご連絡いただけたらと思います。
quartodecimani@hotmail.co.jp
 

 

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