昨今、メディアがエホバの証人問題について取り上げる中で、よく話題に上がる一つに「ムチ」があります。

多くのJW二世や三世にとって、子供時代の辛い思い出として記憶に残るムチ打ちは、組織が強要してきた児童虐待であると厳しく批判されています。

私自身もムチ全盛期の世代なので、数えきれない程のムチを受けてきました。

集会でウトウトと居眠りをすると親から太腿をギュッとつねられ、また寝るともっとキツくつねられて「顔を洗ってこい」と命令され、三回目はいよいよトイレに連行されてムチ執行です。近くに座っている子供とちょっとふざけたりしてもすぐムチでした。

私が子供の頃は、集会中でも容赦なく、トイレからバチバチ叩く音と泣き叫ぶ子供の声が会場中に響き渡っていました。

私は特に静かに座っておくことができない子供だったので、集会や大会から帰ってからも毎回のようにムチを受けていました。「帰ったらムチ30回」とか宣告を受け、帰りの車ではなんとか回数を減らしてくれるようにと必死に情状酌量を願い出ていたものです。

特に親を激怒させるようなことをした日は「ムチ100回!」なんてこともありましたが、革ベルトをテープで巻いた自家製ムチを使って、大人の力で子供の生尻を思いっきりシバくわけですから、一発でも強烈な痛みが走ります。

100回なんて到底連続で耐えられるわけもなく、いちいち休憩を挟みながらでしたが、そのうち叩く方の親も疲れて終わる時もありました。

このようなムチ体験は、現役の二世や三世の間ではもはや武勇伝のように語られる風潮もあり、交わりの鉄板ネタともなっていましたが、笑えないトラウマや深刻な精神障害の原因となっている方も少なくないでしょう。

組織は「いかなる児童虐待も容認していない」などと言っていますが、下記のような聖句を引用して、ムチを強く推奨してきた事実は決して消えません。

 愚かさが少年の心につながれている。懲らしめのむち棒がそれを彼から遠くに引き離す。(箴言 22:15)

 ほんの少年から懲らしめを差し控えてはならない。あなたがむち棒でこれを打ちたたくなら,彼は死なないであろう。(箴言 23:13) 

こうした聖句の「懲らしめ」と訳されている語は、口語訳、新改訳、新共同訳などの他の聖書翻訳では「諭し」とか「戒め」と訳されています。

JWの「新世界訳」では懲罰を連想させる「懲らしめ」という語が極端多くなっていますが、箴言1章を他の翻訳聖書と比べてみるだけでも、それはそれは北朝鮮の国民指導のような徹底ぶりです。

「懲らしめのむち棒」を、新共同訳のように「諭しの鞭」とするだけでも、その印象も適用も大きく変わります。

しかし現役JWにしろ、元JWにしろ、子供をムチ打つこと自体は、確かに聖書に書かれているキリスト教の教えだと勘違いしておられる方も多いのですが、こうした旧約聖書の聖句の大半は、律法体制下のユダヤ人に対して書かれたものであることを、まずしっかり理解していただきたいと思います。

元来ユダヤの律法契約下では、すべてのユダヤ人が生まれながらに律法の条項をすべて守る務めを負っていましたから、そこに宗教選択の自由などは存在せず、それから逃げることは明確に死を意味しました。

申命記21章を見ると、強情で反抗的な息子がいる親は、その子を年長者たちのところへ連れて行き、そこで石打ちにして処刑するようにとの厳しい掟が書かれています。

そのような律法下では、確かに非行少年をムチ打ってでも訓練することは、文字通り命に関わる問題だったわけです。

そうした時代の聖句を適用して、JWの親たちも我が子を「ムチで打ち叩けば死なない」とばかりに、ムチをすればするほど楽園に連れて行けると思い込んでしまったのでしょう。

しかしその親たちに、古代の処刑法である「石打ち」が聖書に書かれているからといって、現代でもそれを行なうかと尋ねるなら「律法は終わったもの」と答えるに違いありません。

ならば、子供への「ムチ打ち」も、律法体制の終わったものではなくて何なのでしょうか。

箴言の聖句で「懲らしめ」を強調するべきか、それとも「諭し」の有用性を説くべきか、律法の精神を汲み取るならば、後者であることは明白です。

このようにエホバの証人は自由なキリスト教の看板の下で、ユダヤ教的な古い律法を生活に適用しているのですから、無理が来ないわけがありません。

また,新しいぶどう酒を古い皮袋に入れる人はいません。もしそうすれば,ぶどう酒が袋を破裂させ,袋だけでなく,ぶどう酒も失われます。やはり,人は新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れるのです。(マルコ 2:22) 

組織から離れた元信者たちが多くの告発や訴訟を起こしている現状は、まさにこの聖句にあるように「新しいぶどう酒を古い皮袋に入れた」結果として、皮袋が破れて中身がこぼれ出ている状況と言わざるを得ません。

キリスト教の信仰は内面の自発的選択であって、律法の従順な遵守者を作ることとは180度異なります。

JWが子供たちに行なってきたムチ打ちと信仰の強要は、心をご覧になる神の裁きを度外視した御利益信仰であり、子供に「もう聖書なんて見たくもない」と言わしめる愚かな所業です。

 

 

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