私は現役時代から、エホバの証人の教理に様々な疑問を持っていました。

特に、信仰によって救われるという「信仰による義」こそがキリスト教の真髄であると言いながら、実際には集会や奉仕や道徳規律の順守など、多くの「善い行ない」を要求する「業による義」がJWの実態となっている点は、大きな疑問でした。

いくらキリストの贖いが無償のものだと言っても、その益に与かるために「善い行ない」という条件が付けられるならば、結局は努力して条件をクリアしたその人が偉いのであって、キリストへの感謝など二の次になってしまうのではないか、と。

一般的なキリスト教会の「イエスをメシアと心で認めるだけで、もう救われている」といった教理はあまりに簡単過ぎるとは思うものの、それでもJWよりはよほど真理に近いのではないかと感じていたと思います。

しかし三位一体や地獄の教理などは理解に苦しむもので、全てに整合性があり、得心できるような教理はどこかにないのかとネット上を探していました。

「新十四日派」はそのような時に偶然出会ったもので、私がJWの教理に感じていた疑問の数々に、ほぼ完璧とも言えるレベルで納得のゆく答えを提出していると感じました。

それはあまりにも高次元で、これまでJWで学んできた聖書の概念を根底から覆す理解の数々に衝撃を受け、鳥肌立ちっぱなしでエホバの証人向けの記事を徹夜で読み漁った日を鮮明に覚えています。

この「新十四日派」とは、第二世紀に使徒ヨハネの弟子たちのグループが中心となって活動を行なった、小アジアのキリスト教徒の集まり「十四日派」をルーツとする現代の教派です。

これは本来の純粋なキリスト教の復興を目指す教派であり、一つの体系的な教理を持ちますが、「この派の教理が絶対的な真理だ」などという主張は一切ありません。無論「この派に神の是認がある」などという主張も全くありません。

そして私が何よりも信頼に値すると感じた最大の点は、この派が「教理控制」を掲げている点でした。

この「教理控制」とは、教理に限界を設け、ともすると起こり兼ねない「教理の暴走」を抑えるものです。

それは、何かの教理を信じるか信じないかで人を差別することや、教理そのものが偶像化されて人の生き方を狂わせないための策として、教理に抑制をかけるものとも言えます。

この世の多くの宗教・宗派では、自分たちの教理を絶対視するのが一般的です。何かを信じるのであれば、それは絶対的な真理でなければならない、と考えるわけです。

エホバの証人公式サイトのよくある質問「エホバの証人は自分たちの宗教だけが正しいと信じていますか?」にもこうあります。

宗教を真剣に奉じている人は,自分の宗教が神に受け入れられていると確信しているものです。そうでなければ,その宗教を信奉する意味がありません。

しかし、自分の宗教が神に受け入れられていると絶対視しなければ、本当にその宗教を信奉する意味がないのでしょうか?

絶対に間違いはないと信じるには、それ相応の客観的な証拠が必要であり、それは「神はこの組織を是認している」と第三者がハッキリ観察できるほど、明確な奇跡の印でもなければ「絶対」などとは到底言えません。

聖書時代には、神はイスラエル国民と契約していること、その後にキリストの弟子たちと新しい契約を結んだことを、第三者にも観察できる奇跡の印によって、ハッキリと証明されました。

ですから、そのような神からの証明がないこの現代において、絶対的に正しいキリスト教などといったものは存在しませんし、エホバの証人のように、伝道や道徳規準などの人間の業を積み上げて、神の是認をどれだけ主張したところで、それは全く証拠になっていません。

 

さらに、「絶対的に正しい教理」なるものもありません。

宗教の教理は、それを信じる人を動かし、人生の選択をも左右するものであり、非常に注意されるべきものですが、聖書の言葉を見事に用いても、それが人間由来の教えである以上は間違いを避けることはできません。

サタンもイエスを誘惑するのに聖書の言葉を巧みに用い、その解釈が正しいかのように語りました。
ましてや、生身の人間であれば、この種の誘惑に出会うなら簡単に罠にはまってしまいます。

そこで「教理控制」は、教理そのものに間違いが潜んでいる危険を予め通知し、その教えに沿って行動するか否かについては、その人の良心を働かせた判断に委ね、その良心を尊重し強制を避けます。

また、原則的に信じる人それぞれの信仰を認め、内心の信念までに立ち入りません。
何かの教理への参加も協働も自由であり、派そのものへの従順を条件とすることもありません。


正確な聖書理解を持っていることが、神に近づき、是認される理由になるわけではないことを、しっかりと弁えます。

聖書に関わる正確な理解は諸刃の剣であり、JWのように「聖書に正確に従えば、そこに正しい宗教が興る」などと考えることは、従順によって神の是認を得ようとする事に等しく、自らの「正しさ」を主張して、神に自分を救う義務を押し付けようとする横暴となります。

神が人に望むのは、謙遜に「求め続け、敲き続ける」ことであって、「人が作り出した義」に安住することではありません。

そもそも聖書は、決して知り尽くすことも出来ないものであり、どのようにして「聖書に正確に従う」ことなど出来るでしょうか。

今、聖書を学ぶすべての人に「教理控制」は必要不可欠なもので、この自主規制なくして謙遜に神を待つことはできないでしょう。

現時点でどんな宗派に属し、どんな教理を信仰しているとしても、それを絶対視せず、他者の考えを尊重し、視野を広げて真理を求め続けていく、その探究心と柔軟性こそが、キリスト教の信仰にとって何よりも大切なことだと、今の私は感じています。

 

 

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