エホバの証人で聖書を学ばれた方ならば、アブラハムの物語をよくご存じのことでしょう。

「信仰の父」とも評されるアブラハムは、JWの資料でも「その信仰に倣え!」とばかりに大絶賛される代表格です。

前回のブログでも書いた通り、「業による義」を重視するJWにとって、アブラハムの信仰による善い行ないは、是非とも信者に見倣わせたい手本となっています。

JW資料を見ると、アブラハムの話は、神の無茶振りに対して彼が最初から強い信仰を示した話かのように解説していますが、果たして本当にそうなのでしょうか。

もちろん、アブラハムの信仰には模範とすべき点はたくさんあるのですが、よく調べていくなら、もっと注目すべきなのは、アブラハムの信仰をなんとか育てようとされた神の側からの熱心な働きかけです。

JW資料では、神からアブラハムが「あなたの国を出て、わたしが示す国へ行きなさい」と言われた時、それに従うことは大きな挑戦で「見知らぬ遠い国での生活のために、大都市ウルの快適な環境や親族を後にすることを意味していました」と説明します。

しかし実際には、アブラハムの家族の名前の語源や、狭い血統の中での婚姻状況などを調べていくなら、そこには遊牧民の特徴があります。ですから一家は大都市ウルの市内ではなく、その近くで土地を持たずに放牧生活をしていたことが見えてきます。

それゆえ神から「あなたから大いなる国民を作り、定住地を得させる」との誘いを受けた時、それはアブラハムにとって子孫の繁栄と土地所有という願いを満たす大変有意義で魅力的な話であったに違いありません。

もちろん75歳という年齢は若くはなく、それは簡単な決断とは言えませんが、アブラハムは甥のロトも旅に同行させていますので、妻のサラが高齢の石女だったこともあり、これは自分たち夫婦からの子孫を期待できないことへの自分なりの対処でもあったのでしょう。

つまりこの時点では神の言葉に対する信仰も、大きなものではなかったことが分かります。

旅を始めたアブラハムの一行は、飢饉を避けるために一時的にエジプトに避難することになりましたが、アブラハムは妻のサラが美しいので、自分の妻だと分かると自分は殺されると思い、妹だということにしてくれと口裏を合わせます。

案の定サラはファラオの目に留まり、貞操の危機に直面することになるのですが、ここで神は敢然と事態に介入し、ファラオの家に激しい疫病を望ませてサラを守ります。

この時点でもアブラハムは自分がサラから子孫を得ることを全く信じていない不信仰な態度を示しているのですが、JW資料は「アブラハムは臆病者ではない、神の目的に自分が関わっている以上、自分の身の安全が最重要だったので思慮深く行動した」(塔17 No.3)などと全力で擁護します。

しかし神の助けを信じて頼るのではなく、自分の身の安全を自分で守ろうとしている時点で、まだまだ正しい信仰者の姿とは到底言えません。

その後のアブラハムはシナルの軍との戦いの勝利などを通して神の助けを実感したり、また夜空を見上げての神との会話などを通して、少しづつ信仰を強められていきます。

そして旅を始めてから24年もの歳月を経た頃、神はいよいよアブラハムに子を授けるために更なる契約を結ぶと申し出ます。

しかしアブラハムは「90歳にもなる女が子を産むだろうか」と苦笑します。サラも同じく笑うのですが、JW資料はこの点に関しても、

「アブラハムの笑いは,老齢にもかかわらずサラによって息子をもうけるという驚嘆すべき見込みに対する喜びから生じたようです。」と、決して信仰の欠如で笑ったのではないと、これまた全力擁護しています。

ローマやヘブライの書でパウロが二人の信仰を称賛していますので、信仰の弱さなどあるわけがないという思考パターンなのですが、本当にそうでしょうか。

その後も、ソドムとゴモラの滅びに関して、アブラハムが何度も問い尋ね、神が辛抱強く答えるなどの対話を通して、アブラハムの信仰はまた少しずつ強められていきます。

そしてアブラハムの一行がゲラルの地に入ったころ、エジプトの時と同じ問題がまた起きました。例によってアブラハムは自分の命を守るためにまたサラを妹と公言し、ゲラルの王アビメレクはサラを召し入れようとします。

ここでも神は事態に介入され、様々な妨害行為を行われたことが示唆されています。

アビメレクにしてみれば、アブラハムの嘘は非常に迷惑な話で、妹だというサラを召しても何の不義も犯してはいないのに、神から妨害行為を受けるという、明らかに謝罪すべきはアブラハムの方ですが、神はアビメレクにこう言われます。

 『今,その人の妻を返しなさい。彼は預言者であり,あなたのために祈願をしてくれるであろう。そのようにして生き続けなさい。』 

いまだにサラが子を産むことをどこか信じられないアブラハムは、単に怖がって異邦人を騙しただけなのですが、神が介入することによって、彼を異邦人の救い手に変じさせています。

ハッキリ言ってこれは神のアブラハムへの一方的な肩入れであり、かなり理不尽な話です。

ですがもちろん、この出来事に関してもJW資料はアブラハムの不信仰を指摘することはありません。代わりに、神はアビメレクを寛大に扱ったなどという、全く頓珍漢な注解をしています。

エホバは,偽りの神々の崇拝者アビメレクを厳しく扱うこともできましたが,アビメレクがこの場合には正直に行動していることを見て取られました。エホバは寛大にもこのことを考慮に入れ,許しを得て『生き続ける』方法をアビメレクに教えました。塔08 10/15

しかし実態としては、正妻サラを通して自分の子が与えられるという、その約束へのアブラハムの信仰の弱さを、神は異邦人に害を加えてまでも、なんとか強めようとしておられるわけです。

それもすべて、アブラハムの子孫を通して全人類を救うという壮大な目的のためです。その崇高な公共善のために、神はなんとしてもアブラハムの心に強い信仰を築きたいのです。

エジプトでサラの貞操を守ることのできた神が、この度もサラの貞潔もアブラハムの命も守らないわけがありません。 まだまだ神に対する信仰が足りないアブラハムの姿がそこにあるのです。

そしてヘブロンの地で、ついにサラは息子イサクを産みます。
この嫡子の誕生によって、アブラハムの信仰は一つの頂点に育てられたと言えます。

息子イサクはアブラハムが自分の目で見て、手で触れて確認できる神の約束の愛すべき証でもあったからです。

百歳にもなる老いた夫婦が子供を産むという異例さ、人には不可能と思える事柄を導いて、自らの意思を成し遂げる神の全能さがどれほどかを、アブラハムはここで悟り、深い喜びの内に味わい知ったに違いありません。

そのようにして長い年月、奇跡的な出来事を何度も経験し、神はアブラハムに忠節な愛を示してその信仰を強め、深い絆を築いていかれました。

だからこそ、イサクを捧げよとの最後の試みにおいて、アブラハムはその理解不能な神の要求にも、深い信頼によって信仰を示すことができました。

このアブラハムの話を通して学べる重要な点は、信仰とは人間が自力で培っていくものではなく、あくまでも神の側からの熱心な働きかけがあって、醸成されていくものであるということです。

アブラハムは最初からすごい信仰を持っていたわけでは全くありません。アブラハムの信仰の「行ない」が素晴らしいので、それで神は契約を結ばれたわけでもありません。

もちろん、最初に神はアブラハムの良い資質に注意を向けて彼を選ばれたとは思いますが、それでも彼の信仰が強くなったのは、神からの一方的で特別な保護や助けが熱心にあったからこそです。

ですから人間が神に強い信仰を持てるとしたら、それは人間の側が偉いわけでもなんでもありません。

エホバの証人のように「よく聖書を読み、道徳的な生活を送り、たくさん努力して強い信仰を一生懸命培えば、神の救いに与かれる」みたいな教育は、努力した人間が偉いことになり、「救いは自分の努力で掴み取るもの」という間違った感覚に陥らせるものです。

そもそも、人間が神と様々な交渉をした聖書時代に持つことができた信仰というのを、神の存在すら明確に認識することが難しい今の時代に持つことは基本的に無理なことです。

アブラハムの強い信仰は、長い年月をかけて神と直接交渉し、神のお考えや目的、その力や知恵、愛情を味わったことへの深い信頼であり、聖書を学んだだけで持てるような信仰とは全く次元が異なります。

「業による義」を推進したいエホバの証人は、とにかくアブラハムの「行ない」を模範とさせ、「善い業によって神の祝福に与かれる」と強調したいゆえに、アブラハムが弱さを見せる部分は都合が悪いので徹底的に擁護するのですが、それは大きく間違っています。

人は業によって義を得られない弱さがあるゆえに、キリストの贖いに頼る信仰が必要なわけですから、今聖書から強調すべきことは「善い業」ではなく、私たちが罪を受け継いだ存在であるというその事実だけです。

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この記事は林義平:著「イサク献供に至るアブラハムの信仰: その心の軌跡を辿る」を参考にしています。

この本では、神がアブラハムに「イサクを捧げよ」という理不尽な要求をされたことの深い意味や、そこに至るまでの神とアブラハムの長い交渉の過程が丁寧に解説されています。

非常に感動的な内容で、私自身も何度も読み直しておりますので、是非お勧めいたします。amazon unlimited会員の方は無料でお読みになれます。

また、本の前半部分は林義平氏のブログでもお読みになることができます。