エホバの証人は「自分たちが唯一無二の正しい宗教であり、自分たちだけが神に是認されている」と信じています。

そんな彼らの信仰と自己義認のバックボーンには「聖書に厳密に従えば神の是認を受けられる」という考え方があります。

この「聖書に厳密に従えば神の是認を受けられる」という考え方は、歴史的にも非常に古くからあるものです。

旧約聖書の時代、神と律法契約を結んだイスラエル国民は、確かに律法が書かれた聖書の言葉に厳密に従う必要がありました。

その契約は、人々が律法に従うなら、神はイスラエルを他国から守り、衣食住を保障し、全人類の贖罪に関わる特別な人々「祭司の王国」にするというものだったからです。

しかしこの律法契約は、度重なるイスラエル国民の律法違反によって破棄されるに至ります。

1世紀にイエス・キリストが現れ、「新しい契約」が発効された時に、神の是認はイスラエル国民(ユダヤ教)から、キリストの弟子たち(キリスト教)に移ったことが、聖霊の奇跡の働きによって明確なものとされました。

しかしユダヤ教は今に至るまでその事実を認めることはなく、旧約聖書の律法に厳密に従いつつ、救世主の到来を待ち望んでいます。

キリスト教も、2世紀以降、聖霊の奇跡の賜物を持つ弟子たちが徐々に亡くなっていくにつれて、大規模な背教が巻き起こり、純粋な原始のキリスト教は消え去ってしまうことになります。

神はご自分が「誰を是認しているか」を、旧約聖書の時代から聖霊の奇跡を通して常にハッキリと明確に示してこられた方です。

旧約時代には、イスラエル国民を是認している証拠として、契約の箱の上には奇跡の光があり、その箱が置かれていた天幕の上には、誰からも見える奇跡の雲の柱があったことが記されています。

新約時代にも、イエスがバプテスマを受けた際には聖霊がハトのように降り、新しい契約を結んだ人々の頭の上には炎のような聖霊の奇跡が表わされました。

ですから、神の是認とは、聖霊の奇跡を通して、誰でも分かるようにハッキリと明確に示されるものです。

聖書時代のような聖霊の奇跡の業が、今現在までこの世界のどこにも見られない以上、どんな人間の宗教や組織にも神の是認はありません。

それにも関わらず、エホバの証人のように「自分たちの組織にこそ神の是認がある」と主張する人々の根底にはやはり、「聖書に厳密に従えば神の是認を受けられる」という考え方が強くあります。

聖書に厳密に従っていることをアピールするために、細かい独自の規則をたくさん作り、他所との差別化を図り、「これだけ厳密に従っているのは自分たちだけ!」という誇りを築いています。

しかし、神がエホバの証人と専属契約を結んだという事実を、客観的に証明できる聖霊の奇跡が存在するでしょうか。神からの証しが無い以上は、どこまでいってもそれは単なる自己主張に過ぎないのです。

例えばある会社と雇用契約も結んでいない人が、勝手にその会社の社員を自称し、勝手に働き、その会社の規則やコンプラをしっかり守ったところで、それが何になるでしょうか。

同じように、契約も結んでいない人がどれだけ聖書に厳密に従おうとも、神の是認とは全く無関係な話なのです。

しかも、神が特定の人々と契約を結んで、一定の高い道徳規準を要求したのは、「全人類」の贖罪において特別な役割を果たす人々(祭司)を選ぶという崇高な目的のためです。

その選ばれた人々は、あくまでも「全人類の救い」のために、キリストのような徹底的な自己犠牲を示すことがそこから求められる人々であって、選ばれること自体が救いでもなんでもありません。むしろ試練なのです。

ですから、神と契約もしていない人々が、他者と差別化を図り、「楽園と永遠の命」という御利益を求めて、聖書に厳密に従おうとすることは、あまりにも的外れで頓珍漢な行動と言わざるを得ません。

でも確かに「聖書に厳密に従えば神の是認を受けられる」というこの考え方は、多くの人の正義感にとって、とても受け入れやすい考え方であることは事実でしょう。

「真面目で正しい人が救われる」と言われる方が、「悪い人も救われる」と言われるよりシックリ来るのは当然です。

しかし聖書は、どれだけ品行方正な道徳者であれ、どれだけ凶悪な犯罪者であれ、それは「等しく罪人に過ぎない」ことを教える本です。

つまり、世界中から偉人と称賛されるナイチンゲールやヘレンケラーであれ、逆に批判され続けるヒトラーやスターリンのような大量殺人者であれ、神から見れば同じ罪人に過ぎません。


聖書のメインテーマは「罪の赦し」であり、神の赦しは人間が考える常識を遥かに超越するものであることが、放蕩息子の例え話など、聖書中の様々な事例で示されています。

それにも関わらず、道徳的な行いよって神の是認や救いが得られると考えるエホバの証人は、聖書に全く従ってこなかった「世の人」が赦されて救われる時に、果たして心から喜べるのでしょうか。

「聖書に厳密に従ってきた」そのプライドにより、放蕩してきた弟を許せなかった兄のような態度になってしまう危険はないでしょうか。

是非そうならないように、心を柔らかくし、「神だけが義」であることを謙虚に認める人になるべきでしょう。



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エホバの証人向けの動画の制作を始めました。ド素人の下手糞な編集ですが、少しずつやって行こうと思います。

 

 

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