エホバの証人の統治体が信者に強調する一つの聖句があります。
「心をつくしてエホバに依り頼め。自分の理解に頼ってはならない」。箴 3:5
聖書は非常に難解な本ですから、何の予備知識もなく一人で読んで内容を理解するのは至難の業と言えます。
JW信者も、研究生の時に初めて聖書に触れて、その概要を理解できたという方は少なくないと思います。
でも実際それは「エホバの証人の聖書解釈を学んだ」に過ぎないことなのですが、ほとんどの人は他所と比較するほどの情報を持っていませんし、特に二世や三世はゼロ知識からJWの聖書教育を受けるので、JWの解釈が聖書理解のすべてになります。
JWも基本は聖書を教えているので、その大部分には説得力がありますから、JWレッスンではその「聖書の正しさ」が「JWの正しさ」へと巧妙にすり替えられていきます。
そこで「これは真理だ」と一度信じてしまえば、他所を調べる必要性は一切感じません。
代表的なキリスト教会がいかに聖書に従ってこなかったか、「戦いを学ばない」や「父と呼ばれてはならない」のような、幾つかの分かりやすい聖句の論証にザックリと納得することで「JWだけが聖書に忠実」という確信は容易に強まります。
「この聖句はこういう意味かな?」と思っても、自分で判断することはできません。割当でも伝道でも、協会の出版物の裏付けがないことは何も言えません。
それはつまり「素人判断は危ない」みたいな感覚です。
自分の個人研究で到達した聖書理解ではなく、JWの聖書教育のおかげで真理を見つけられたと感謝しているのですから、その後も聖書の探究は「自分の理解に頼らず」、エキスパートである統治体にすべてを委ねます。
JWを否定する人と口論したり、批判的な文書に目を通すことは悪魔サタンの策略なので危険です。なにしろ「自分の理解に頼ってはならない」ので、「それくらいは大丈夫」と考えるその自分の判断で行動してはいけないのです。
そのように、エホバの証人になるとは「自分の理解」という自分の思考力や判断力を、JWが規制した範囲内でしか働かせられなくなることを意味します。
しかし、聖書に書かれた「自分の理解に頼ってはならない」とは、律法契約という特別な状況下で与えられた言葉であり、「契約の民」イスラエルにとって、当然ながら宗教とは好きに選べるものではなく、個人の信仰の自由が尊重される境遇ではありませんでした。
そうした律法の下の「奴隷身分」にあった時代の句を用いて、律法から解かれたキリスト教徒がその「自由」の価値を悟らず、自分の信仰の決定を他の人に委ねてしまうなら、それはユダヤ教への逆戻りです。
かつてキリストがユダヤに現れて奇跡の業を行った時、それを「悪霊の頭ベエルゼブブによるものだ!」と中傷して、人々が信仰を持つことを妨害しようとしたのは、ユダヤ教の宗教指導者たちだったのではないでしょうか。
統治体が自分たちの教え以外を「悪魔の策略だから危険だ!」と信者に警告することも、まさにそれは「自由な思考の妨害」となっていないでしょうか。
1世紀にキリストに信仰持った人の多くは、聖書の知識に乏しい一般の民衆でした。彼らは見聞きしたものを「自ら判断して」信仰を持ちました。
弱者に寄り添い利他的に行動するイエスの姿に、真の愛を感じてメシアと認めることは決して難しいことではなかったでしょう。
神はその自発的な「信仰」を望まれたのであって、キリスト教の信仰とは一定の聖書の知識や教養が求められるようなものではなく、「素人判断」で十分なものです。
どんな事柄も「自分で見て、聞いて、判断」するからこそ、そこに人間が「神の象り」に造られた真価があるのであり、神が尊重されるものを人間が踏みにじることなど決してできません。
神は終末においても、誰もが自分の判断を妨げられることなく、自由な意思で信仰を持つことができるように分かりやすく明確なアクションを起こされることでしょう。
ですから今「自分の理解に頼るな」と、個人の判断や思考の自由を制限してくるどんな宗教にも惑わされないように注意しましょう。
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