エホバの証人は、この世は1914年から「終わりの日」、つまり苦しみに満ちたこの世界が終わりを迎える「終末」に入ったと宣伝してきた宗派です。

その証拠となる「しるし」が、イエスがマタイ24章の預言の中で語られている戦争、飢饉、疫病、地震などの災禍の増加に見られると主張してきました。

さらにテモテ第二3章に列挙されている人々の悪い傾向が見られることや、「良いたよりが人の住む全地で宣べ伝えられる」を、自分たちの伝道活動によって成し遂げてきたことなどを挙げます。

そのような「複合的なしるしが成就しているゆえに今は終わりの日だ!」というわけですが、果たしてそれらは本当に「しるし」と言えるでしょうか。

戦争、飢饉、疫病、地震に関しては、1914年以前と以降とで、明確な違いがあると主張するJWと、「そんなことは昔からずっとあった」と反論する人々で、多くの議論が交わされてきたところでしょう。

では他の部分はどうでしょう。

どうぞマタイ24~25章のイエスの終わりの日の預言をもう一度、冷静になって読み返して見てください。

JWの主張するように、それらの預言が1914年から成就してきたというのであれば「聖書の記述はちょっと大袈裟ではないか」と違和感を感じられるのではないでしょうか。

例えば、エホバの証人は「あらゆる国民の憎しみの的」となっているでしょうか。(マタイ24:9)

様々な社会問題を起こしてそれなりに批判はされてきましたし、人生を滅茶苦茶にされた元信者や家族を引き裂かれた関係者たちから恨まれている面はありますが、それでも「あらゆる国民の憎しみの的」はかなりオーバーな表現です。そもそもJWの存在すら知らない人も世界中にはまだまだ少なくないでしょう。

知ってる人も「頻繁に家に勧誘に来るので鬱陶しいな」程度の認識を持っている人は多いかもしれませんが、憎しみを抱くほどでもなく、正直「どうでもいい」と感じている人たちの方が大半でしょう。

また「多くの者がわたしの名によってやって来て,『わたしがそれだ』と言って多くの者を惑わすからです」(マタイ24:4)という部分はどうですか。

JWはどこかの新興宗教の教祖が「自分はキリストだ!」と、世界の片隅で細々と主張する程度のことでも預言の成就としますが、そんないつの時代にも見られるようなレベルの話をイエスはわざわざここでしているのでしょうか。

さらにルカの平行記述にある「為政者の前に引き出され、誰も論駁できないほどに聖霊によって語る人々」(ルカ21:15)についてはどうですか。

JWではこの預言を一般信者がそれぞれ自分に当てはめ、例えば禁令下の国で捕まって尋問を受けた時などに、適切な聖句が頭に浮かんで証言できたらもうそれは「聖霊が思い起こさせてくれた!」として、聖霊によって語ったことになるようです。

そのようにJWは「今は終わりの日である」という先入観で物事を見ますので、どんな些細な出来事でも積極的に終末預言と結び付けて、「成就した!」と喜ぶように教育されています。

しかしながら、イエスがわざわざ「終わりの日のしるし」として述べていることであるならば、それはその一つ一つが世界のトップニュースになるような際立った出来事として、誰もが圧倒的に注目するようなものでなければ「しるし」として意味がないのではないでしょうか。

テモテ第二3章の「対処しにくい危機の時代」に悪い傾向を表す人々についても、1914年以前と以降で特に大きな違いがあるようには見えません。もしそれが終わりの日の特色と言えるとしたら、今よりも遥かにそれが顕著なものにならなければおかしいでしょう。

「人の住む全地で宣べ伝えられる」にしても、JWの人海戦術が及んでいない国や地域はまだまだあります。特にイスラム圏の国の布教はほぼ皆無と言えますが、世界2位の人口を誇る宗教圏の人々に宣べ伝えられていない、伝えられる見込みもないこの状況で、どうして今が「終わりの日」と言えるのでしょう。聖霊もない「人間の業」の限界がそこには見えています。

どうぞ、もっと根本的に考えてみて下さい。

聖書は「この世が終わる」などという、にわかには到底信じがたいSF映画のようなことがリアルに起きると予告しているわけです。

聖書時代には死人が復活したり、紅海が真っ二つに分かれたり、太陽が止まったり、天使が一夜にして18万5千人の兵士を討ち倒したり、驚異的な神の奇跡の業の数々が起きたと記録されており、様々な出来事は「終わりの日」を予表しているというのです。

そうであれば、人類史のクライマックスとも呼べるような終わりの日が、JWが主張しているような程度の現象で既に始まっているとするのは、単純に「辻褄が合わない」とお感じにならないでしょうか。

それもそのはず、福音書以外にもある様々な終末預言も調べていくなら、「終わりの日」とは、私たちが現在の世で目にしているような状況とは「まるで次元が違う」ものであろうことが実際に見えてきます。

それは人類がいまだかつて経験したことがないような、今とは全く比較にならない遥かに大規模な激動の期間の始まりだからです。

そしてJWが全く理解していない点として、マタイ24~25章のイエスの話を概観していくと、すぐに見えてくるもう一つの点があります。

それはその一連の預言の大部分が、「キリストの兄弟」たちが遭遇することになる苦難とそのための心構えについて書かれているということです。

この「キリストの兄弟」というのは、単に聖書を学んで洗礼を受けただけの一般信徒のことではありません。それは終末に聖霊を受けて任命される「聖なる者」「聖徒」と呼ばれる特別な立場の人々のことを指しています。

彼らは「新しい契約」によって、神の王国で「王また祭司」としての重要な役割が与えられる見込みの人々ですので、一般信徒とは違い、その資格を満たす人かどうかが試されるため、キリストと同じようにこの世で厳しい試練を受けます。

マタイ25章のタラントの例え話も、まさにそのような終末における特別な「聖徒の試練」について述べているものです。

この話は、ある主人(イエス)が外国へ旅行に行く際、3人の奴隷(聖徒)に能力に応じてタラントを預けるというものです。二人の奴隷はそれで商売(宣教)をしてそれぞれ倍に増やすのですが、一人はタラントを地中に隠しておきました。

主人が返ってきた時、しっかり商売して増やした二人の奴隷は主人から褒められますが、何もしなかった奴隷は外の闇に投げ出されるというものです。

この例え話をJWでは「一人一人は神から与えられている良い賜物をしっかり用いて奉仕しましょう。神はそれぞれの能力に応じてしか要求しておられません。失敗を恐れず努力しましょう!」みたいな教訓として理解しているのですが、でもこれは一般信徒に向けられた話ではありません。

この話の「タラント」とは聖徒に与えられる「聖霊の賜物」を表しており、それを終わりの日においてどう扱うのかが示されています。タラントを増やそうとしなかった奴隷に注目するなら、イエスの終末預言がなぜ聖徒たちへの訓戒に重点を置いているのかを理解できます。

この不精な奴隷はタラントを銀行に預けることもせず、地中に隠していた理由をこう述べます。

「ご主人様,わたしは,あなたが手厳しい方で,まかなかった所で刈り取り,あおり分けなかった所で集めることを知っておりました。 それでわたしは怖くなり,行って,あなたの一タラントを地中に隠しておきました」(マタイ 25:24, 25) 

主人であるイエスは、終末において1世紀のようにご自分が直接に地上で宣教を行うわけではありませんので、ご自分が撒いてもいないところで収穫だけは求める手厳しい方だとこの奴隷は述べています。

終末に聖霊の奇跡の賜物を用いて世界宣教を行うことになる「聖徒」たちは、この世の権力者たちとも対峙していくのですから、当然に世からの激しい迫害に直面することになります。

彼らには,天を閉ざして,その預言するあいだ雨を降らせないようにする権威があり,また,水を制してそれを血に変え,あらゆる種類の災厄をもって何度でも望むだけ地を撃つ権威がある。(啓示 11:6)  

かつて十の災いを起こし、ファラオの前でイスラエルの解放を求めたモーセのように、聖徒たちも奇跡の業を行い、聖霊の言葉で「神の王国」を宣明していくことになりますから、それは大変な反発を受けるであろう任務です。

そこで怖気づいて自分の使命を果たすことから逃げてしまい、与えられている聖霊の賜物を隠してしまう聖徒は、この不精な奴隷のように「脱落聖徒」としてイエスから処罰されることになります。

これは少し厳しい話にも思えますが、「多く与えられる者は多く求められる」の聖句の通り、新しい契約を結んで聖霊が注がれるというのは並大抵の特権ではありません。

「人類の初穂」として真っ先にキリストの贖いの益に与り、罪を赦されて神の子とされ、千年王国の王また祭司として任命を受けるという、とてつもない優遇をされる人々ですから、それに伴う責任もまた大きくなるのでしょう。

そのように聖徒とは、キリストの自己犠牲に倣い、終わりの日に命を懸けて世界宣教を行う人々ですから、自分たちは矢面に立たず、立派な施設でぬくぬくと安全に暮らし、権威を振りかざして一般信者を扱き使っているだけの統治体の姿とはまるで異なります。

「終わりの日」とは、まず第一に聖霊を受けた聖徒にとって厳しい試練の期間となることが予告されており、そうした圧力や緊張感のゆえに「多くの者がつまずき,互いに裏切り,互いに憎み合う」(マタイ24:10)との言葉もあるのでしょう。

こうした預言も、JWのように単なる一般社会の世相を表す言葉のように漠然と読んでいては、聖書が伝えたいことを汲み取ることはできません。

続く「終わりまで耐え忍んだ人が救われる者です」(マタイ24:13)といった言葉も、一般信徒に語られているのではなく、試練に耐える聖徒の救いの話ですから、それを踏まえて読まなければ意味を全く理解できないでしょう。

そのようにイエスの終末預言は、単に終わりの日に起きることを列挙したものではなく、ましてや一般信徒が「時代の特徴」を見分けて救われるために記されているものでもありません。

見紛うことのない終わりの日のしるしとは、「聖霊の顕現」だけであり、それは奇跡の業を行う聖徒たちを通してハッキリと全世界の人々に明らかにされるものとなります。

 

ですから、今それを信じる人も信じない人も、ただ普通に生活していくしかないのは同じですから、JWのような聖霊のしるしを持たない人々の「終わりは近い!」という宣伝に惑わされないように注意しましょう。

 

 

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