エホバの証人の以前の研究教本「聖書の教え」の11章には、「神はなぜ苦しみを許しておられるのですか」という論題が扱われています。
この章では、サタンがエホバの支配する権利に関して疑問を投げかけて、エホバを悪い支配者として非難したことが問題の発端だと説明されています。人間は神の支配を受けなければもっと幸福になると主張することで、「エホバの主権-支配する権利に対して攻撃した」とのことです。
そして神がなぜこれほど長く苦しみを許しているのか、その理由について教師と生徒の例え話があります。
ある問題の解き方について「先生のやり方は間違っている、自分はもっと良い解き方を知っている」と主張する生徒がいた時に、教師はその異議を唱えた生徒に、自分のやり方で問題を解いてみるよう時間を与えたというものです。
もしその生徒を頭ごなしに否定して追い出せば、他の生徒は本当に教師の方が正しいのか疑問を持ってしまうので、その生徒の自由にさせてみて、その結果として「教師の方が正しかったことが公に証明される必要がある」というのです。
この例えのように、神が人間に自分たちのやり方を自由にさせた結果が、現在の人間社会の苦しみの原因だという解釈ですが、この説明は一見すると筋が通っているようにも思えますが、しかし実際には大きく間違っています。
そもそもの大前提として、神はご自分の支配権の正当性を証明するために、人間の苦しみを許しておられるわけではありません。
人間にあらゆる政治体制を試す時間を与えて、どれも上手くいかない悲惨な現実を何千年も味わわせて、「だから言わんこっちゃない」とばかりにご自分が支配者の座につくという、そんな陰険な神では決してありません。
エホバの証人の教理は、神はいくら正しいとしても、ご自分の主権にしか興味がなくて、とても支配欲の強い方みたいな間違った印象を与えるものです。
創世記を見るなら、神はアダムとエバを創造してエデンに住まわせた時、二人を「支配」しようとは全くされませんでした。
支配というのは悪を制御するために必要なものであって、罪がない人間には不要なものです。人間は「神の象」に造られたとあって、本来は誰かに支配されるべき存在ではありません。
神は人間をご自分と同じ独立した理知ある存在として創造されましたから、その自由と尊厳を重んじることは、ご自身を尊重することと同じです。
確かに神は善悪の知識の木という「食べてはならない木」を通して無垢な二人を試されましたが、ここで問われたのは「神が支配者であることを認めるかどうか」ではなく、自分たちの創造者である「神への愛を抱くかどうか」という、人が生きていく上で最も重要な倫理問題についてです。
二人には神の愛を感じる素晴らしい環境が与えられていましたから、神を愛して敬う十分過ぎるほどの理由があったと言えます。神を愛しているなら、無数にある園の木のうちのたった一本の木からは食べてはいけないとの指示は何の障害にもならなかったでしょう。
しかし彼らは食べれば死んでしまうという神の警告を無視してその実を食べてしまいました。エバはサタンの「神のようになれる」という言葉に唆され、アダムはエバとの関係を失いたくない思いから神の警告を退けました。
二人の行動は「善悪を決める権利は自分たちにある」という主張などではありません。二人は真に創造者を愛しておらず、それぞれが利己心に基づいて行動したということです。
自分たちを愛して良いものを与えて下さる創造者に、愛を抱かない、敬意を払わない、自分の欲望を優先するというのは、倫理的に大きな問題です。
最初の人間である二人にとって、神は最初の他者であり、コミュニケーションの始まりですから、そこで利己的に行動したというのは、人として何を大切にし、他者とどう生きていくべきかにおいて、二人は大きな問題を抱えた存在になってしまったことを意味します。
この他者との関係において自分の欲望を優先する態度、一人一人のその利己的な精神こそが人間社会のあらゆる苦しみの根本原因とも言うべきものです。戦争も犯罪も食糧不足も環境汚染も、世界中の様々な問題は「自分さえ良ければいい、自分の国さえ良ければいい」といった利己主義が根底にあります。
そのような利己的な人間がみな永遠に生き続けるならどうなるでしょうか。それは今の社会よりも遥かに劣悪な状況になることは容易に想像できます。それゆえに神は止むを得ず、罪の結果としての老化と死をもたらされました。
ですから私たちがアダムとエバから受け継いだ罪とは「他者とどう生きるべきか」を正しく弁えていない状態のことを指しています。つまり利己的で貪欲な性質です。
人と人とが幸福に生活していく上で、絶対的に欠かせないものは「愛」という利他的な性質であり、「自分よりも他の人の益を優先する」この精神をすべての人が完全に持たなければ、人間社会から苦しみがなくなることは決してありません。
神は人から罪を取り除き、「愛」において完全になるために、キリストの贖いという救済措置を講じて下さいました。
神とキリストはこの贖いを通して、人間が培うべき利他的な愛とはどのようなものか、完全な手本を示されました。この贖いだけが人類の希望です。
ではそのキリストの死から既に2000年近く経っていますが、神がこれほどの長い期間、人間の苦しみを許し続けておられる本当の理由は何でしょうか。
これは聖書に明確に述べられていない問題ですから、断定したことは何も言えません。
神は最初の人間に「地に満ちよ」との意向を示されましたから、もしかすると、地に満ちるべき魂の数がまだ出揃っていない、その誕生を待っているという可能性は考えられます。
「地に満ちよ」と言っても、どれくらいの人口を想定して言われたのか、地球という生活環境のキャパシティーの問題もありますから、神は必要最低限の予知能力を働かせて、ふさわしい時を定めておられるのかもしれません。
いずれにしても神はご自分が心に定めたその時に行動を起こされ、この世の人間の政治体制は神の王国に取って代わり、キリストの千年王国が始まります。
しかし「神が人間を支配して、神がルールを決めて、神が悪い人を完璧に取り締まることで平和な社会が実現する」という、エホバの証人の思い描く「楽園」は、神が意図しておられる人間社会の最終地点ではありません。
「愛は律法を全うするもの」とあるように、愛において完全になれば、人は神からさえも支配を受ける必要はなくなります。あくまでも自分たちだけで幸福な人間社会を築いていくことができる、その能力は十分に与えられています。
エホバの証人は自分たちのコミュニティを「霊的パラダイス」と呼び、統治体の支配の下、世界的な兄弟関係によって、今でも自分たちの中だけには幸福な人間関係が実現していると誇ります。
だからこそ、エホバの証人だけが生き残った社会で、神が支配して悪を制御してくれたらそこはもう楽園だと思い描いてしまうのですが、これは自分たちの中にもある罪の現実を無視したものです。
実際には人間は誰もが等しく罪を受け継いでいて、誰もが利己的な性質を抱えています。一人一人は自分の中にあるこの罪の性質と真剣に向き合い、その罪から逃れたいと本気で願う必要があります。
組織の命令を遵守し、表面的な道徳行動に神経を使い、既に「世のものではない」などと勘違いしていては、抱えている罪の現実と真摯に向き合うことは決してできません。
人間の苦しみを根本的に解決するものは愛であり、利他的な愛に価値を見出す人かどうか、最終的に神が一人一人に問われるのはただそれだけです。
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