エホバの証人の超重要な教理に「宇宙論争」というものがあります。

JWの信仰を語る上で絶対に欠かせないのがこの宇宙論争ですが、彼らの提唱する宇宙論争とは主に二つの論題で構成されています。

一つは「宇宙の主権者は神か」、もう一つは「被造物の忠節」という問題です。

JWではこの宇宙論争が聖書の最も重要なテーマかのように扱われ、人間一人一人はこの論争に関わっており、そこで神を喜ばす正しい答えを提出できるかどうかが救いに直結すると教えられています。

しかし結論から言いますと、この「宇宙論争」なるものは、JWの全くの妄想に過ぎません。

前者の問題については以前のブログでも少し扱いましたので、今回は「被造物の忠節」という問題に注目したいと思います。

このJWが主張する「被造物の忠節」の問題とは、ヨブ記で語られる「人間が神に従うのは利己的な動機である、神が人間に富や健康を与えなければ誰も神に従わない」というサタンの主張に、私たち一人一人も巻き込まれているという教理です。

「人間は苦しみに遭えば簡単に神を捨てる」というサタンの挑戦に「ヨブは見事な忠節を示して神を喜ばせた、だから私たちもヨブに倣ってこの論争において神を支持しよう!」みたいな教訓としてヨブ記を読んでいます。

確かにヨブ記はこれでもかというくらいに、ヨブの忠節や道徳性の高さを強調している内容ですので、「ヨブの忠節を模範とせよ!」がこの書の教訓に見えても無理はありません。

しかし実際には、ヨブ記にとってのヨブの忠節というのは、本当に重要な教訓を教えるための「前フリ」でしかありません。

最初のサタンの挑戦も、ヨブを責める三人の友人たちとの会話も、いかにヨブという人物が清廉潔白な道徳者かということを徹底的に際立たせるための材料に過ぎないものです。

神ご自身が最初に『彼のような人,とがめがなく,廉直で,神を恐れ,悪から離れている人はひとりもいない』(ヨブ1:8)という最高の誉め言葉を語られますが、ヨブはまさにその通りの「最高度の義人」であることが証明されていきます。

JWはこの「前フリ」の段階をメインディッシュと勘違いしていますが、でも本論はこの後から始まります。

ヨブの義が徹底的に証明された後、エリフという若者が登場してこう言います。

『あなたが正しくても、あなたは神にいったい何を与え得よう。神は、あなたの手から何かを受けられるだろうか。』(ヨブ35:6)

エリフはヨブがどれほど正しい人間だとしても、人間の正しさを神の正しさの上に高めるべきではないことを教えていきます。

それから神も登場してこう言います。

『あなたはわたしの裁きを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。』(ヨブ40:8)

ヨブは自分は正しいのだから、神は自分を救うべきであるとまで主張していました。

JWはヨブ記で最も重要なこのエリフとの会話や神の言葉を非常にサラっと扱います。「義人ヨブも自分の正しさをアピールする点で少し行き過ぎてしまいましたね、でも不完全ですから仕方ありませんね」という程度です。

あまりこれを大きく扱うと、従わせたい教訓が霞んでしまうと思っているのかもしれません。

しかしヨブ記の教訓とは決して「ヨブの忠節に倣う」ことではありません。

むしろ「どんなに道徳的に正しい人であっても、神の正しさには遠く及ばず、自分の正しさを主張する点では神に不忠節にもなってしまう」という警告こそが最も大切な教訓です。

つまり人は「善い業や道徳性によって神から正しいと是認されることは一切ない」という、新約聖書に繋がっていく重要な教訓がそこにあるのですが、JWはまさに善い業や道徳規準によって自分たちだけが救われるという利己的な教理を掲げていますので、ヨブ記で教訓としたいのも「前フリ」の部分になってしまうわけです。

被造物の忠節は、全創造物の初子であるイエスの忠節をもって一度限り完璧にこの創造界に証明されましたので、もはやサタンに反論の余地などなく、ヨブであろうが誰であろうが、そこに何かを付け加える必要も意味もありません。

『一つの罪過を通してあらゆる人に及んだ結果が有罪宣告であったのと同じように,正しさを立証する一つの行為を通してあらゆる人に及ぶ結果もまた,命のために彼らを義と宣することなのです』(ローマ5:18)

ですからサタンを偽り者とするために、神は人間の正しさや忠節を必要とはされません。私たち一人一人が宇宙論争に関わっているなどということは一切ありません。

ヨブ記は人間が自分の正しさを追求していく時に陥る罠について警告するもので、ヨブは「自分はこれほど正しい人間なのだから、神は自分を祝福すべきだ」との主張をエリフと神に咎められました。

JWも「自分たちはこれほど聖書に従って正しい業を行っているのだから、神は自分たちを祝福するはずだ」という、同じ過ちに陥っていないでしょうか。

人は常に自分の行いで善と悪のゲージを行き来して、そこに神が一喜一憂されるとか、最終的に善行ポイントの方が高ければ救われるというような考え方は聖書の教えではありません。

人がどれだけ道徳的で善い業に励もうと、それが神の祝福を保証することは全くありません。

重要なのは謙遜に『神の義を第一に求める』(ローマ3:4)ことであり、自分には何の正しさもないことを認めてイエスの犠牲に頼ること、それが最も大切な信仰です。
 

 

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