聖書は人間が神の創造物であることを教える本です。

つまり私たち人間ひとりひとりが存在しているのは、「神がそう望まれたから」という理由があることを示します。

これは「なぜ自分という人間が存在するのか」という大きな疑問の答えになりますが、しかし聖書を信じている人でも、

「神が人間を造ったということは信じられるけれど、神がわたし個人を愛しているということはあまりピンとこない」という人は少なくありません。

神はアダムとエバという最初の人間を直接造られましたが、それ以降、人間は与えられている生殖能力を用いて増え広がってきました。

ですから自分という人間が存在している直接的な原因は、自分の父と母がたまたま出会って結ばれたからだと思うわけです。

もし両親が出会っていなかったら「自分という人間は存在してなかった」ことになり、自分の誕生は「偶然の産物」とも言えるような奇跡の確率ということになります。

「その奇跡に感動する」ということはできても、聖書が述べているような「神は創造者として、わたしたち一人一人を深く愛している」という言葉はあまり響いてきません。

神は最初の人間とその生殖システムを創造されただけで、別に「わたし個人」を直接創造したわけではないので、個人的に愛されているとは思えないわけです。

一般社会においても、しばしば「親が子供を作る」という表現が用いられます。

親は子供が出来た時に、その子供を産むかどうかの選択をします。望まない妊娠の場合や、障害を持った子が生まれると判明した場合は、中絶や堕胎を選択する人もいます。

また最近は人工授精といった医学的な技術も進歩しているので、精子バンクを利用して有能な遺伝子を持った子供を作ろうとする人もいます。

そのようにして「子供を作る」ことに関して、人間が色んな操作をしていくことは珍しいことではなくなってきました。

そうした社会では「親が子供を作る」という言葉の意味は、まるで人間が人間の命を作り出しているかのような錯覚を引き起こすものとなっています。

そうなると、人間が存在している理由は「神が望まれたから」ではなくて、「人間が望んだから」という、人間の意思によるものであるかのように考えられていきます。

人間を作ったのが人間の意思によるものであるなら、「人間の存在の意味とか価値を決めるのも人間である」という考えに辿り着きます。

例えば、親から愛されずに育った子供は自分の存在価値を認められず自尊心を持てません。「自分なんて生まれてこなければ良かった」と自分で自分を否定してしまいます。

日本では毎年2万人以上の自殺者が報告されていますが、それもやはり「人間の価値を人間が決めてしまう」ことの悲惨な結果と言えるのかもしれません。

しかし聖書はあくまでも、人間の存在理由は「神が望まれたから」であり、人に価値があるのは、神がひとりひとりを深く愛しておられるからだと教えます。

「自分」という存在は、両親がたまたま出会って結ばれたからという偶然の産物ではなく、神の直接の創造物と言えます。

なぜそう言えるのでしょうか。

 

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