エジプトの旅行会社 トライウェイズトラベルです![]()
ナイルで溺死したハドリアヌス帝の愛人アンティノオス
五賢帝に数えられるハドリアヌス帝
彼の死を嘆き悲しんだハドリアヌス帝が
アンティノオスを神格化し、
その崇拝の中心地として建てられた都市アンティノオポリスは
カイロから4時間半ほど車を走らせた
中部エジプト、現在のマッラウィ、シェイフ・エバーダに位置します。
広大なナイルを越えるとシェイフ・エバーダ(アンティノオポリス)です。
悠久のナイルはこれまで人々の暮らしを支え、
豊かな文明を育んできました。
2年前に映画『テルマエ・ロマエ』を見て知った
ナイル川で溺死したアンティノオスとその都市のこと。
アンティノオスが溺死した場所からそう遠くない
古くからのエジプトの村
ベス神の信託所に因んで名づけられた村ベサの
少し南の丘のふもとに建てられたアンティノオポリス
Google mapにはアンティノオポリス神殿と書かれていて
こちらを目指しました![]()
エジプト誌より
この絵が描かれたのは1798年から1801年の間。
ナポレオンのエジプト遠征に同行した
芸術家によって描かれたアンティノオポリスの当時の様子。
この当時はちゃんと丘の上にあるんですね![]()
平地にあるように見えますが、確かに駆け上がり、
この遺跡を見たことを思い出しました。
でも、絵ほどの隆起ではないのは、写真からも分かるはず。
いま残っている遺跡は右下に描かれている部分でしょうか![]()
新王国時代には、ラムセス2世の神殿が建てられ、
ローマ時代、紀元130年、その跡地にアンティノオポリスが建設され、
ラムセス2世の神殿を除き、墓地を含むそれまでのすべての建築物が取り壊されました。
実際に来てみると、アンティノオスを偲ぶよりも、
栄枯盛衰ということばが頭に浮かぶ地でした。
こちらもエジプト誌のイラスト
19世紀にはまだこのように残っていたのですね。
神格化したアンティノオスの崇拝地として、
中ナイル流域最初のヘレニズム都市として
エジプト地域におけるギリシャ文化の拠点としての政治的な役割を担う都市として、
エジプト人に外来のギリシャ文化への融合を果たすため
従来の主神ベスは引き続き崇拝することを認めつつ、
新たにつくられた主神がオシリス=アンティノオス![]()
ハドリアヌス帝の別荘から出土した像
ウィキペディア『Antinoöpolis』 より
ハドリアヌス帝は様々な優遇処置を用いてギリシャ人をこの地へ定住を促しました。
この都市は、ヘレニズム都市に典型的な格子状の都市計画に基づいて設計され、
柱や数多くのアンティノオスの像、そして同神に捧げられた神殿によって装飾されていました。
アンティノオスを記念して、131年の春にこの都市で競技会を開催することを宣言。
「アンティノエイア」として知られるこの競技会は、
数世紀にわたり毎年開催され、エジプトで最も重要なものとして知られ、
競技内容には、陸上競技、戦車競走、馬術競技、芸術・音楽祭などが含まれ、
賞品としては市民権、金銭、記念品、そして生涯にわたる無償の生活保障などが授与されたそうです。
ビザンティン時代に入っても都市は成長を続け、帝国のキリスト教化に伴い、キリスト教化され、
その後、このアンティノオポリスは10世紀頃に放棄されたそうです![]()
19世紀まで、この地には巨大なギリシャ・ローマ様式の神殿が残されていたが、
セメント工場の原料として使用するために破壊された。
何世紀にもわたり、ハドリアヌス帝時代の都市の石材は、住宅やモスクの建設のために持ち出されていった。
18世紀になっても、アンティノポリスの遺跡は依然として確認でき、
1715年にはイエズス会の宣教師クロード・シカール、
1800年頃には測量技師エドメ=フランソワ・ジョマールといったヨーロッパの旅行者たちによって記録されている。
しかし、19世紀になると、アンティノポリスは地元の工業生産によってほぼ完全に破壊された。
チョークや石灰岩は火薬の原料として焼かれ、石材は近隣のダムや製糖工場の建設に用いられたからである。
アンティノオスが130年10月頃に亡くなった死因は特定されていないようですが、
ハドリアヌス自身がこの事故を引き起こしたとか、
ハドリアヌスの治世が長引くようにと、
アンティノオスが進んで自らを生贄に捧げたといった話が言い伝えられてきました。
星(わし座)にもなったアンティノオス
大英博物館収蔵のこのような像がたくさんアンティノオポリスに立っていたのでしょうか。
こちらもイタリア・ティボリにあるハドリアヌスの別荘から見つかった像でした。
後世、エジプトでは破壊されるしかなかったのでしょうね。
ハドリアヌス帝とアンティノオスが出逢ったのは視察旅行中の小さな町で、
可能性として123年前後で、ハドリアヌス帝が47歳前後、アンティノオスはまだ10代。
アンティノオスの像から20代未満で亡くなった推測されています。
アンティノオスを気に入り、視察旅行へ同行させるほどでしたが、
公に知られるのは130年のエジプトの視察時と言われていて、
要するに亡くなってからのハドリアヌス帝の言動からだったのでしょうか。
愛人の神格化はローマにおいては最初冷たく受け止められたものの、
徐々に信仰の対象として馴染んでいき、そのため、多数の芸術作品に昇華され、
古代でよく知られていたそうです。
遺跡から少し離れた場所にあった
ナイロメーターと思ったこちら
は井戸と貯水槽のようです。
アンティノオポリスは三方をレンガの城壁で囲まれ、4つ目の側面は
ナイル川に向かって解放されていたそうです。
エジプト誌から当時は劇場、数多くの神殿、凱旋門、
二重の列柱が並ぶ2本の通りがあったことが図版に掲載されているそうです。
2本の通りのひとつ⁈
この歩道をハドリアヌス帝は歩いたでしょうか。


















