ムハンマド・アリー朝の女性たち  イスマイール・パシャに溺愛されたひと ネシェディル | エジプトの旅行会社 トライウェイズトラベル

エジプトの旅行会社 トライウェイズトラベル

エジプトの現地旅行会社です。
カイロから情報発信中!!

エジプトの旅行会社 トライウェイズトラベルですニコニコ

 

ムハンマド・アリー朝の女性たちを知れば、

おのずとエジプトのハーレムについて分かりそうだと思いました。

 

王朝の創始者ムハンマド・アリ―は元より、

イスマイールの時代には、まだハーレムの習慣がありました。

エジプトにおけるハーレムの制度は1869年に公式に廃止されたそうですが、
廃れるまでに時間がかかり、宮廷内では公式に廃止された後も続いたそうです。

 

この美しい女性はネシェディル・カデン(1857-1924)

ムハンマド・アリー朝 4代目イスマイール・パシャの側室です。

 

側室と愛人の違いがよく分からなかったのですがキョロキョロ

 

yahoo知恵袋によると、

”愛人は非公然のもので、子供がいたとしても秘密にされ、後継ぎの資格がないこと、

側室はそうではなく、公然たる存在であること、

生まれた子も秘密にされることはなく、正室に子がないときは、後継ぎの資格を認められること”

 

だそうで!明確になりました上差し

ムハンマド・アリー朝に照らし合わせると、ムハンマド・アリーの跡を

後に継いだ息子のサイード・パシャは側室の子供でした。

ネシェディルの娘も家系図に名を連ねています。

 

イスマイール・パシャ(1830-1895)

イスマイールには、分かっているだけでも14人の正妻と側室がいました。

ネシェディルが16歳のときにイスマイールに見初められたようなのですが、

27歳差ということは、イスマイールが43歳のときなんですねびっくり

 

イスマイールに溺愛されていたというくだりで、

単純に正妻なのかと初め思ったのですが、

調べていくうちにネシェディルが正妻ではないこと、

お墓もイスマイールと4人の妻たちが眠る墓所とは

別の場所にあることが分かりました。

 

まず、生い立ちに驚きましたびっくり

コーカサス地方出身で、7歳のときに弟と一緒に誘拐され、

奴隷商人に売られています。

 

イスタンブールで、弟と離れ離れになり、その後、消息を知ることはありませんでした。

彼女自身は、あるパシャの妻の元へ連れて行かれ、

親切にされながら、当時の習慣に従って礼儀、宗教教育を受けました。

文字の読み方を教わりましたが、

ラブレターを書くといけないということで、書き方は教わることがなかったそうです。

びっくり読み方が分かれば書けそうですが、その理由に驚きました。

手先が器用で、レースや刺繍などを作るのが得意だったそうです。

 

15歳のときにイスマイールに売られポーン

他のコーカサスの若者たちとともにエジプトに渡りました。

 

2度も売られるなんて、自分の運命と受け止めていたのでしょうか。

 

ゲジーラ宮殿(現 Cairo Marriott Hotel & Omar Khayyam Casino)で

1年間、宮廷生活のための訓練を受け、ネシェディルと名付けられ、

16歳になった頃、イスマイールに見初められ、

ザファラン宮殿内に独立した施設が与えられました。

そして、彼女のために、50人のサーカシアンと30人のアビシニアンの奴隷が用意されたそうです。

ネシェディルも見初められなければ、奴隷になっていたのでしょうかはてなマーク

一人の女性のために、80人の奴隷が用意されたことに驚くのですが、

これがイスマイールの妻、側室たちへのスタンダードの待遇だったのでしょうかポーン

 

彼女の衣服、ランジェリー、ハウスリネンは、すべてパリから取り寄せられました。

簡単に宮廷のハーレム費(?)の巨額さが見えてきますキョロキョロ

余談ですが、このような妻たちへの支出に加え、

スエズ運河、エジプトのみでなく、イスタンブールの

イスマイールのいくつもの住まいの建設にと

財政困難に陥いるのは容易だったでしょうねあせる

 

ネシェディルが新しい環境に慣れてきた頃、

イスマイールから、アブディーン宮殿にいる

先輩の妻(正妻?側室?)たちを訪ねてくるように言われました。

訪れたときの装いについても書かれていました。

淡いブルーのサテンに最高級のブリュッセルレースを纏い、

ルビーとダイヤモンドのネックレスとイヤリングをつけていたんですって。

面会した妻たちは、そのネシェディルの美しさにショックを受けたそうです。

 

イスマイールの彼女への献身は、嫉妬の嵐を巻き起こし、

1875年の第二子の誕生後、

アブディーン宮殿を訪れた際に、毒入りのコーヒーが出されましたゲロー

体調を崩したネシェディルは帰路に死にかけガーン

懸命な救助のおかげで、一命を取りとめましたが、

元の健康状態に戻ることはなかったそうです。

ネシェディルは毒を入れた犯人の名前を出さず、

事件のことを話したがらなかったそうです。

 

この毒入りコーヒーを出したのは正妻ではなく、別の側室でした。

ハーレムのイメージにぴったりのドロドロ具合です滝汗

 

イスマイールは、この事件に激怒して、

前妻には一度も贈ったことのないインシャ宮殿と

イスマイリーア宮殿(元モガンマァー)の権利書を彼女に譲り、

ティアラに合わせたイヤリング、ネックレス、ブローチ、ブレスレット、

指輪など、ダイヤモンドのセット一式を贈るとともに、

二度と家の外で食べ物や飲み物を取らないよう注意しました。

 

プレゼントを受け取ったネシェディルは、

涙を流して土下座し、

「これ以上、嫉妬を招くようなものを与えないでください」と懇願したそうです。

 

宝石は断固として拒否したものの、

イスマイールの不興を買うと周りから脅され、

しぶしぶ宮殿を受け取っています。

 

因果応報なのか、

毒をも持った側室は、事件の翌年、出産のためになくなっています。

 

ネシェディルは、ザファラン宮殿で2人の娘を出産しています。

イスマイールの母后が亡くなると、

一家はイスタンブールへ船出しました。

そこには、イスマイールの7つの宮殿があり、

ネシェディルは、そのひとつに娘たちと共に住み、

イスマイールは、別の一番大きな宮殿に住み、

他の宮殿は、暖かい季節に彼を訪ねて来る結婚した息子や娘たちが

自由に使えるようにしていたそうです。

 

カイロにあるアブディーン宮殿にハーレムは存在したのか!?

やっぱり、ハーレムというのはハラムレクのことで、

家族の子女たちの住居、部屋のことを指すのですね上差し

 

1895年にイスマイールが亡くなると、

ネシェディルの健康状態は悪化、数ヶ月にわたる看病の末、

見事、回復しました。

娘たちが結婚して、家庭を持つようになってからは、

孫たちの世話をし、娘を連れて、

スイスをはじめとするスパや、医者が有名な町をよく旅行したそうです。

療養先だったのでしょうか、

ネシェディルは1924年にフランスのニースで亡くなりました。

 

お墓は、2人の娘に囲まれ、霊廟の中央にあります。

天井がこれまでの大雨のせいで剥がれ落ち、崩壊の憂き目にあっていましたショボーン

親族が訪ねて来ることはなく、

そのため、修復費用もままならず、そのままになっています。

 

上品で優しそうなこの写真からは想像できない生い立ちに驚きましたが、

残っているイスマイールの妻たちの写真の中で一番美しかったのが、

このネシェディルでしたデレデレ

 

エジプトのハーレムの習慣の中で生きたネシェディル、

イスマイールまでのムハンマド・アリー朝の側室の中で、

コーカサス地方の女性が好まれたそうで、

こういった女性がたくさんいたのだろうと思います。