さて、今日は有用性とは何かと言うことを、
書いてみましょう。
率直に言って、役に立つとか立たない、って何か。
よく人に「使えない」と言う言葉を使う人がいる。
そう言う人こそ、この有用無用と言う価値基準の奴隷になっていることに気づかない。
幼稚園から出直しだけど、まあ当たり前のことを。
人は使うものではない。使われるものではない。
でも、ここをもっと掘り下げてみる必要がある。
文明社会が人を物化した結果、いつの間にか誰しもが、自分が役に立たないかも知れない、と言う恐れから、自信の無さから、自分も他人もこの尺度で見るようになっている。
みんな必死になっている。
2020年に起きた価値転換と言うのは、なにも文化芸術だけの問題ではない。
人間とは何なのか。人間の価値とか、人間にしか出来ないこと、人間がやるべきことはなにか、それが問われている。
そろそろ根本から見直さないと、みんな潰れて結局誰も何も残らない。
あえて言えば勝ってる時は他人事って言うのが今の世の中。でもそれが勝ちである以上はいつかは負ける。
このシステムは加速させたら全員負けになる。
その時、どうする?何が残る?って話をね。
生きている只中で考えるべきは死。
死にゆくこと。最後に何があるかってこと。
それ以外は上っ面に付け足しただけのものだから。
先日、ある学者が話している動画を見て、とても面白かった。今ある仕事って殆どは別に人間がやる必要はなくて、やがてはコンピューターに切り替わるだろうと。
これもこれも、って話になって、最初は人の仕事がどんどん無くなるみたいな話なんだけど、最後はじゃあ人間は結局何をすれば良いか、どう生きれば良いか、って言う根本的な問題に行き着いた。
たから、最初からここをこそ考えておくべきだ。
何故働くのか、と言ったら皆さんの答えは多分一つ。
生活のため、生きて行くため、食べて行くため。
もちろん、そうなのだろうけど、でも重要なことは、実は働くとか、仕事にはその人のアイディンティティが関わっている。役に立つ為にと言うより、役立たずと思われないため、自分で思わないため。
自信の無さが仕事量に現れたりもする。
遅かれ早かれ、いずれはそう言う仕事とか、働き方は消えて行く。そうじゃなくてもその人個人が歳もとる、動けなくもなる。
仕事とか他のあれこれを外したその人は、どんな風に最後を生きるのだろう。
だから、その人らしさとか、人間らしさって言うのはどんな人にとっても大事な問題だ。
自分がそこに居る、とかその人がそこに居る、って言うことの中に、どれ程の素晴らしいものがあるか、ありのままと言う言葉は簡単だし、安易に使い古されているけど、本気でそこを深めてみたら、人間とは何か見えてくる。役に立つのか立たないのか、それは物の世界で良いの。AIの、コンピューターの、機械の世界だけで良いの。人間ってそこに居るだけで素晴らしい存在。
そう言う原点に立って、そこから、じゃあみんながもっと笑うためにどうしようか、とかそれが人間のあり方と言うもの。
早く正確にってことが幾らでもマシーンでやれることは、もうとっくにみんなが分かっていることだけど、じゃあ失敗するとか、下手くそとか、ちょっとづつしか出来ないとか、そう言うことの価値がどれほど上がっているのか、まだ気づく人は少ない。
便利になると不便が価値になることは、まあ分かって来たみたいだけど。古民家ブームとかもそう。古民家は昔は普通の民家だから。無農薬だって元々農薬自体無かった訳だし。そうやって大事に思うことは捨てなければ価値となる。
上手くやれないことってもう価値だからね、って言いたいな。
ただその場にいて身の回りや、自然や人やものを慈しめる人こそが最上の存在。
僕はこのことをダウン症のある人達から教わった。
彼らの生き方を見て来て、これが本当なんだな、と。
だから、作品を創るとかって言うことも含めて、何かさせようって言うのは間違い。
じゃあ僕らの制作って何かって言うと、自然に出てきたもの、微笑み合った結果みたいなもの。
作品は嘘をつかないから見たら分かる。
僕が30才になった時に、ダウン症のある人から貰った手紙を思い出す。佐久間さん大変ね、ってお仕事大変ね、お掃除大変ね、洗濯大変ね、って。
他に何があったかな。兎に角色んなことに大変ね、って書いていて、その時に彼女の優しい柔らかい言葉と存在が色んなことを教えてくれていて、教えてくれる以上に愛してくれていて、それが心に響いた。
彼女の言葉は、仕事とか働くとか、役に立つとか立たないとか、有用無用とか、使えるとか使えないとか、そんな世界からはずっとずっと遠くから発せられていて、ああそうだな、って、人間は本来こう言うところにいて、居るだけで輝いているんだな、って。
僕らはみんな、使ったり使われたりする為に生れてきた訳じゃない。
何かと誰かと比較して、どちらがどうとか言ってる次元にいるたけで人生を終わらせるのは、本当に本当に勿体ないこと。
色んなこと大変ね、って。
良く生きてるね、って。
どんなことだって、どんな瞬間だって全て意味を持つことだし、どんな人もそこで輝くことが出来る。って言うこと。ただ比較することさえやめたら。
僕らはこれを学ばなければならない。
ただ居るだけで、って言ったけど、これは逆にそう簡単に出来ることではない。
ありのままと言う言葉も。
それは究極だから。
何が出来るとか、誰より凄いとか、そうやって逃げてるから。人の倍働いたとか。お金があるとか。地位がある、とか。有名だとか。賞を貰ったとか。
看護師の方が言ってたけど、肩書のある人ほど病気になったら見苦しいって。その人達が威張っていられるのは五体満足でいる時だけ。身体に肩書なんて無いから。
まあ、他でも裸になったらみっともない振る舞いをする、って言うのはよくよく聞く話だから。
有名人がなにか悪いことをすると、大騒ぎになるけど、はっきり言って申し訳ないけど、元々人より欲が深いから彼らはあの場所にいるんだから。
ちょっと言い過ぎかな。
でも、ずっとずっとダウン症の人達と付き合ってきて、彼らの透明感とか、これ誤解もと言うか反論承知であえて言うけど、心の綺麗さ。それ見てたら今の社会の濁った姿とそこで生きてる人間の姿は情けなくなる。
正直者は馬鹿を見るのかも知れないけれど、どっちが馬鹿を見たのか本質的には分からない。
これは何もダウン症のある人達だけの姿じゃなくて、あくまで例えばとして個人的な話だけど、僕はやっぱり祖母を尊敬してて、自分の原点だったけど、祖母は本当にシンプルだった。ズルした人は負け。潔く清ければ、どんな結果になってもその人は勝ち。
極端に言ったら飢え死にしたって物乞いしなかったら幸せだって。貧しい家庭だったけど媚びなければ、物質的貧しさは精神的貧しさを作らないと教わった。
負けたって正々堂々と真っ直ぐ挑んだなら、そう言う人間こそは幸せになる。
僕は幸せだし、祖母の言っていたことは正しかったと思っている。その教えが無かったら、多分ダウン症の人達にも、そしてきっかけとなった16で入った現場やそこに居た人達にも出会うことは無かっただろう。
