今日は現場移動まで少し時間があるので、

久しぶりにこのページに書きます。


ダウン症のある人達を中心とした場から離れて、

数年が過ぎた。

今は絵を見るのは地元の子供達を少しと言ったくらい。

そんな中でも数名のダウンのある子が一緒に制作している。これまで数え切れないくらいの人達を、無数の制作の場を見てきて、今でもはっとすることがある。


「ダウン症文化論」と呼ぶくらいだから、僕は彼ら彼女らの世界に人間の本質や理想を見ている。

彼らの感じ方や捉え方に、この世界への重要なヒントがあるとずっと言ってきた。


人間は、人類はこの地球の中でズレた存在になってしまっている。その歪さは正常なリズムを取り戻さなければ明晰に見えない。

歪みに馴れてしまっていれば、真っ直ぐにものは見えない。


ダウン症のある人達の言動に、荒唐無稽や思慮滅裂を感じるとするなら、まず自らの見方は何処から来たのか、確認してみることが先だ。


1つの例として時間と言うものがある。

時間の概念に支配それているのが人類だとも言える。

物理的な時間と言うものは、確かに一定の範囲では存在している。それ自体も相対的なものに過ぎないけれど。

まして心理的な時間は錯覚に過ぎない。


時間に支配されるとどうなるか、簡単に言うなら、見えなくなる、聞こえなくなる。

もっと単純化すると音に例えると、1番大きな音しか聴こえない世界。現代人はそんな世界に生きている。

そんな中で付け焼き刃の様に概念やスローガンとしての多様性が独り歩きする。

頭で考える悪習の現れだ。

多様性に関しては頭の出る幕ではない。

本当に多様性と共存する社会を作りたいなら、

多様性を聴き取る、感じ取る、感性を、心を子供達から育てて行くこと、それしかないなに。


これが1例として時間に支配された人達の姿だ。

起きていること、存在し、現象していることの、ほん一部だけを切り取って、他の無数の全てをないことにして一本の線で繋げたもの。それが時間だ。

だから時間は予め有るわけではなく、後で時間の側からの勝手に現実を繋げている。その時に都合の悪いものは全て切り捨てて無いことにしてしまう。

それこそが本当の暴力の本質だ。

見ないこと、聴かないこと、気づかないこと、無視することそれが最大の暴力だから。


先日のこどものアトリエで、ダウン症のある女の子が絵を描きながらずっとお話を聞かせてくれた。

そのお話が素晴らしくて、ずっとその流れ、その宇宙に連れて行って貰えた。

山も海も川も出て来る、草木や水や、お父さん、お母さん、親戚の人達、学校の友達。

時間も場所も次々に飛んで行く。

空にも風にもぐるぐる視点が映って行く。

過去も現在も未来も、そこでは同時に存在する。

無数の場面が移り変わり、また戻り、ぐるぐる回る。


人間の心が生きて動いている本来の姿を僕はそこに見た。


それは時間によって一直線に並べられた世界ではない。

大きな声だけが聴こえて、その他の無数の声が掻き消された世界ではない。

全ての多様な声が、無数の場所と時間が、捨てられることなく、無視されるかとなく、豊かに同時に存在している。


ダウン症のある人達の特徴の1つである、優しさと言うのはこう言う感性から来ている。


いい加減に頭だけで多様性を語るのだはなく、賛成反対と言う2つだけの世界を競わせるのではなく、一歩でも自らの認識の世界を広げてみること、より深く感じてみようとすること、そう言う方向の実践が必要なのではないだろうか。特に子供達の教育において。