悲しみの画家グランヴィル | 習作の巣

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挿絵画家、風刺画家、J・J・グランヴィル。




先日友人とアートの話に花咲かせていて、したところ荒俣宏氏がこの画家をご紹介なさっていたのを唐突に思い出し、画像を探してみた。
とにかくとにかく彼が書く絵は愛らしいのである。

その内で著作権フリーのものを貼っておく。















荒俣氏によると、不思議の国のアリスで有名な挿絵画家ジョン・テニエルにも影響を与えたらしい。

細かい筆致でリアルな質感を持ちながらも、表情豊かなキャラクター達。
痛烈な風刺や批判がこもっているものもたくさん混じっているのだろう。けれども我々は、どことなく空恐ろしいのに幻想的でユーモラスなそれらの絵を、無邪気に楽しみ大いに盛り上がったものだった。


然しこの独特な鳥獣画、奇想画の書き手グランヴィルのことを調べてみると、彼の生涯は、その可愛らしい彼の仕事から予想し難い苦難に彩られた生涯であり、私は驚いてしまった。
いや、その背景があるからこそのメルヘンであるかも知れないが。
ともかく駆け足にそれを記してみよう。





J・J・グランヴィル(J.J.Grandville)
本名 Jean Ignace Isidore Gérard

1803年9月13日、フランス南東部ナンシーに生まれる。
どうも芸術一家だったらしく、筆名は祖父母の役名より採ったもの。
絵は細密画家であった父に学んだ。

21才でパリに渡る。
当時パリでは観相学(または人相学。形状からその性質を導き出そうとする学問)が流行っており、彼の書く擬人化された動物や植物、花の絵が人気になるのにそう時間は要さなかった。

「Les Tribulations de la petite proprieté」というリトグラフ集を出版したり、また 「Les Métamorphoses du jour」と題された作品集で…身体が人で、顔が動物の風刺画集である… 僅か25歳にして一世を風靡した。

こうした風刺画は人々に喜ばれたが、本人には面白いものではなかったらしい。

当初受けていた挿絵画家としての収入は、どんなに本が売れようが人気になろうがあまりに乏しく、革命後情勢不安定なフランスで需要の非常に大きな風刺新聞へ作品を載せねば喰えなかった、というのが本当のところのようだ。
それで結果パリ市民たちに「風刺画の王様」と呼ばれたのだから大したものだが、
その仕事もやがて権力に圧され、職を失ってしまう。

故郷ナンシーに戻ったグランヴィルは、従姉妹と結婚し三人の子供を設ける。
だが、故郷は彼の満足の行く絵を描ける環境になかった。グランヴィルの妻は彼の絵を好まず、あれこれ口を出されては自由に出来ずにいたのである。

再びパリに戻ったグランヴィルは、当初のように版元からの挿絵の依頼を受けはじめる。
それまでの反体制な匂いのする作風からより幻想的なものを志向した彼は、花を擬人化した「花の幻想」、伸び縮みする奇怪な人間を描いた「別世界」などを残すが、彼本来の作風が色濃くなればなるほど、独特なその彼の世界は周囲の理解を得られなかった。

そうして苦悩する彼を悲運が取り巻きはじめる。
三人の子供のうち二人が立て続けに亡くなったのである。
一人はパンを喉に詰まらせて。
もう一人は病気で。


そして更に追うように妻からも先立たれてしまう。
妻の遺言で若い娘と再婚するが、ふさぎ、己の中にのめり込んでゆくグランヴィル。

それでも慈悲は彼に降り注がない。
残された彼の最後の子もまた、彼より先に彼岸の住人となり、グランヴィルの正気は奪われた。

1847年3月17日、パリ市内の精神病院で、決して長くないその一生を閉じる。
享年43歳。






彼の幻想世界はどこかで現実と反転してしまったのかも知れない。
だからこそただの風刺画としてだけでなく、今もなお多くの人に愛される絵であるのかも知れない。

そう考えると、鮮烈な輝きを持ったかつての彼の皮肉が、今は画家自身を照らしているようにも思えてしまう。
悲しみの画家、グランヴィル。


だけれどやっぱり残された彼の絵は、今日も変わらず愛らしい。