僧侶というのは、職業なのだろうか。
職業人というのなら、プロフェッショナルということになる。
何のプロなのか。仏教のプロ?あり得ない。
自分の中では、職業としての僧侶というイメージが全くない。
外資系のデジタル技術の大手コンサル企業で、仕事をしている感覚からしたら、
プロというのは、その人の付加価値が事業の業績に貢献していること以外にない。
プロ野球の選手なら、戦力でなくなれば戦力外通告つまりクビになる。
それがプロの姿だと思う。だから永遠に続けられる仕事とは思えない。
僧侶は、何を仕事にしているのだろうか。
馬鹿にしているわけではなく、純粋にわからない。
四十年以上も社会人を経て、僧籍をいただいて、尚わかっていない。
なぜ得度したのか、といえば僧侶になりたかったというのは理由になっていない。
自分なりに一番しっくりしたのは、親鸞の足が見えたそのイメージになる。
安住の世界に座することではない、大地を歩み続けた凄みのあるあの足。
あれが出発点で見たものだった。あれが導きになるのだと思う。
師があるとすれば、それは一人の方しか常に心にない。そしてその方はもうこの世にはいない。
その方が日々座っておられた仏壇の前に、数十年も経ってから座らせていただいて、
阿弥陀経を読誦させていただいた。
報告させていただいたのだ。私はこうしております、と。
本当の自分に立ち戻ることはそうそうない。今しか生きていない。
意味があって南無阿弥陀仏と口にすることもない。
まだまだ、どうにもならない自我を続けている。