巡り合った色々な人のこと、自分によくしてくれた人たちは尚更、
思えば思うほどに、いつもいつも「ごめんなさい」になってしまう。
「ありがとう」というべきなのだろうけれど、「ごめんなさい」になる。
夢を見た。世話になった人の家にいた、自分が住んでいた家や地域とは
グレードが違いすぎて、静かで、ゆとりがあって、整然とした世界。
羨ましいというより、自分はなにを間違ったのかと思わされた。
大きな竜の落とし子のような、不思議な生き物がいて、言葉ではないが会話ができた。
自分は以前は中国にいたようだった。
よくわからない設定だが、自分の心を浄化するとか、修行して高みに至るとか、
それも結構だけれど、自分をそれなりの場に置くことが、結局は自分を
変えてゆくものかと思われた。
無量寿経を読み進める時、三界、つまり三千大千世界を前提として
色々な話が出てくる。それぞれ、自分の業に縛られる世界、欲を離れた世界、
物質を超越した世界があり、それぞれその世界にふさわしい住人たちがいる。
この世界観は、古代インドの原始宗教などの影響が濃厚に反映されているらしい。
無量寿経には、多くの仏国土から阿弥陀仏の仏国土に何億もの菩薩が行ったとされる。
あまりに壮大な話で、この娑婆と言われる三千大千世界の頂点に阿弥陀仏がおわすのではない。
この娑婆の如来は釈迦である。他にも阿閦如来、薬師如来、星の数ほどの如来の世界が娑婆の外にある。
自分が今いるのは、この娑婆世界の「閻浮提」と言われる須弥山の南に位置する三角形の領域とされる。
この世界で重要な仕事をする人は、色界や六欲天の神々や天が付いた人たちなのだろうか、
神通というが、実際そういった力を持った方がおられた。この方は、そういう声が聞こえていたらしい。
このヒエラルキーは人間世界で形成されたそれとは違う。知識も地位も、資格も関係ない。
どこまでピュアな精神、鈴木大拙のいう霊性が高まるか、と言うことに尽きる。
だから、捨てよ、離れよ、と言われるのだろう。
「あんたはんの南無阿弥陀仏は、ご都合主義やな。」と、言われた気がする。
自分本位の南無阿弥陀仏は、ものすごく自分を貶める。
上の世界に上がりたい、上の世界から支援が欲しいとか言うのも、違う。
廻向は全て如来のはからいと心しておきなさい、だからひたすら他力とせよという。
こちらからの廻向はない。曇鸞は為楽願生を捨てよと言った。楽をしたい為に
往生を願うなという意味で、今どれだけ苦しくてもその反動の心がすでに自我なのだと。
人間的感覚で浄土のイメージを作り出して、自分をそこに据えたいと縋り付くのは、
結局は、ご都合主義なのだ。自分本位な念仏は、何にもつながらない。