都合、調べつつなので30時間ほどかかった気がするが、今だからできることなのだろう。
サンスクリットの「スカーヴァティー・ヴィユーハ」と魏訳の「仏説無量寿経」は
そこそこその内容に差があるけれど、インド古典だけが正解で、その後中国を経て加上や
欠落、言い換えが加えられて伝わった内容には価値がないとは言えない。
むしろ、長い時間と、民族の文化や時代背景と、多くの秀逸な頭脳を経て熟成された
全てをして仏教なのだろう。そう思えば、仏教はこれからも進化を含め変化する。
ただ中村元博士は仏教学者に対しては、難しい内容をそのまま朦朧としたままにしておくのは、
大いに反省すべきだと警鐘を鳴らしていた。その通りだと思う。
お経そのものよりも、そのお経が人間にどう生きてくるのかの方が大切なのだ。
今まで、自分にとってのお経は、儀式的な、声を出すだけの感があったが、
やはり、この今の言葉でどう捉えておくべきかは、避けて通れない。
まだまだ、完成度を上げてゆく必要があるが、一旦、これで置いておこうと思う。