当たり前のことだけれど、宗教があって阿弥陀仏があるわけでもなければ

 

教団があって阿弥陀仏があるのでもない。念仏は宗派の専売特許でもない。

 

阿弥陀仏があって自我がある。自我ありきの阿弥陀仏はきっと阿弥陀仏ではない。

 

そして阿弥陀仏の救いというのは、システムとしてそうなっているものでもなく、

 

メカニズムが機能するようになっているのでもない。

 

まして阿弥陀仏の個人的な親切やサービスで救済があるわけでもない。

 

ずっと昔、はるか天竺から大陸を経て伝わってきた本願の言い伝え。

 

阿弥陀仏は私のこと知らないでしょ、

 

私は何千億という中の一人なのに、無理でしょ、

 

いやそもそも阿弥陀仏の本願は、どう影響するんですか、

 

そう思った人も多いだろう。

 

法然や親鸞が世に出て残した偉大な功績は、人を幸せにしたことか、

 

死が怖い人々を安心させたことか、法を伝えられた側からしたら

 

死んだ後、大変助かりましたよというようなことか。

 

こういったこと全て、自我の念仏であり、自己都合の阿弥陀仏なのだろう。

 

ギブアンドテイクなどない、契約ごとでもない、取引でもない、

 

この世的な価値基準が通用しないところにそれがあることが理解できない。

 

法蔵という比丘が誓ったことが成就した世界があるという。

 

あいにくこの娑婆はその世界とは違う。だからその浄土へ往って生まれることができる、

 

なぜなら、それは成就してあるからだ。阿弥陀仏になっても尚、その本願は成就しつづける。

 

世の中、何も思い通りにはならないと人はいう。

 

思い通りにならないと信じる人は、その通り信じたことが現実になっている。

 

思い通りになると信じる人は、思い通りにならない現実に、信じることをやめるのではなく

 

信じたことがまだ成就していないという。

 

信じて損した、という価値基準はつまり損することを信じたことと変わらない。

 

あくまで自我目線でしかない。

 

信じたことが現実になる、と信じられない人は、やはり信じたことが現実にならないことを証明する。

 

現実になるというのは、信じたことを追体験するだけだ。

 

思い通りにならないという現実を追体験するばかりが真実なのか、

 

願い、誓い、それらが現実になるのは、信じる以外に追体験できない。

 

リターンを確実にするために信じることを手段にするのは自我の都合にすぎない。

 

それは信じるとは言わない。