仏国土は星の数ほどあると言われていて、阿弥陀仏の仏国土は浄土とも言われる。
では、この世は何という名の仏国土かといえば「娑婆(Saha)」というが、
浄土のような極楽なイメージがない。むしろ穢土と比喩される。その娑婆という世界を統べる仏は
釈迦であった。親鸞の時代も現代も、釈迦はいない。主人不在の家のようなものとして末法という世界観があった。
仏教は、娑婆に出現した唯一の如来である釈迦の言い伝えだけではなく、その後現れた菩薩や
名僧たちの紡いできた教え(経論律の三蔵)とも言える。故に釈迦教とは呼ばれない。
ちなみに釈迦が如来になるという予言(授記)は、ディーパンカラ(Dipankara)という仏に
よって成された。燃燈仏とも錠光如来とも呼ばれる。そしてその釈迦如来は弥勒菩薩に授記した。
ガンジス川の砂の数ほど存在する仏は、その記録を文字にして残すことはない。
世自在王仏によって受記した法蔵菩薩も釈迦の話を我聞如是として無量寿経に伝わる。
釈迦が入滅したのち現れた菩薩で、龍樹という人は、釈迦がその出現を予言(懸記)したとされる。
その懸記が「楞伽経(Laṅkāvatāra Sūtra)」にある。
南條文雄博士が残したネパール伝の梵文写本P286がそれに当たる。
下から3行目にある"नागाह्वयः"はNāgāhvaya(龍猛)と名が見られる。
漢訳は3つあり、うち菩提流支訳「入楞伽経十巻」の最後にある総品の部分では
龍猛ではなく龍樹( नागार्जुन、Nāgārjuna)となっている。
於南大國中 有大德比丘 名龍樹菩薩 能破有無見
為人說我法 大乘無上法 證得歡喜地 往生安樂國
In Vedalī, in the southern part, a Bhikshu most illustrious and distinguished [will be born]; his name is Nāgāhvaya, he is the destroyer of the one-sided views based on being and non-being.
べダリの南部に最も輝かしく秀逸な比丘が現れる。彼の名は龍猛という。
彼は有見や無見といった偏向した論旨を打ち砕くであろう。
別人ではないか、弟子ではないのか、同一人物だろう、と諸説あるが、
むしろ、龍樹こそが我が法を正式に継承するであろうという釈迦の言葉があることこそ
のちの大乗仏教にとっては重要であったろう。
それは正信偈にもあるとおり浄土教が釈迦以来の正統の系譜として記される。
これは、近代の真宗にとっても着目すべきことで、南條博士の梵文写本には
楞伽経の3つの漢訳と梵文の章対比も含め、根気のいる作業をしてきたものと感心させられる。
https://ia601208.us.archive.org/9/items/MN40145ucmf_2/MN40145ucmf_2.pdf
ただ当の龍樹(AD150−250)が、楞伽経(AD350−400頃成立)を読んで自分のことであると語ったという史料はみあたらない。
むしろ楞伽経にある唯識論は、龍樹からさらに後年の世親(天親菩薩AD300−400)の思想的影響があるのなら
この楞伽懸記そのものは、時間的な矛盾を包含してしまっている感は否めない。