大経と呼ばれる無量寿経は、康僧鎧訳(魏訳)において、17,421文字の漢字で書かれている。

 

この漢文では、サンスクリット文からいくつかの加上が見られるが、

 

中でも、巻下9,047文字の半分以上を占める三毒段、五悪段の部分は

 

サンスクリット文にもチベット訳にもその箇所が存在しない。

 

後代における中国での加上であろうと言われている。

 

仏告弥勒菩薩 諸天人等 無量寿国 声聞菩薩 功徳智慧 不可称説 から

 

合掌白言 仏所説甚苦 世人実爾 如来普慈哀愍 悉令度脱 受仏重誨 に至る

 

実に4,660文字の部分となる。

 

それまで釈迦がずっと阿難に話していたが、突然弥勒に話をしているのが

 

この部分でもある。この後の部分では弥勒と書かずに慈氏菩薩と別の名前で登場する。

 

確かにサンスクリットではAjita(弥勒・慈氏)としてAnanda(阿難)とともに登場しているが、

 

Maitreyaははじめに名が出ているだけにすぎない。

 

そんなことより、これだけ膨大な加上の内容というのは、古代中国思想の注入になるのか、

 

強烈な意図、というより使命感があって無量寿経に組み込まれたものだろうか。

 

自分なら釈迦にこう話して欲しいな、ぐらいなノリで気軽に書き込まれたとは思えない。

 

ここには、輪廻において勤苦とされる悪行の報いが続いてゆく様をしつこいほどに説いているが、

 

後世にこの三毒、五悪の段が与えた影響は小さくはない。

 

釈迦にしてみれば、わたしはそうは言っていないが、となるのかも知れないが、

 

仏説とされるような、真意を汲み取れるそのままの言説が正確に伝わることはあり得ない。

 

とはいえ、加上だから出鱈目だというのは拙速に過ぎる。

 

そもそも原始仏教の弟子たちの口伝や、梵文編成、チベット訳でも加上がないとは言えない。

 

むしろこの三毒、五悪をどう受け止めるのか、そこからどんなインスピレーションに

 

繋がるかは、個々人の創造性によるだろう。

 

いい加減な浅い解釈は仏教でもなんでもないが、加上も含めて仏教でなければ、

 

リアルタイムで釈迦に説法を聞けない限り、釈迦教にはなり得ない。

 

真宗は、むしろ釈迦の大乗経典から論註などを織りなしてきた高僧の思想に注目する。

 

今の日本に宗派に分かれて断片的に伝わった仏教は、それぞれに教義の体系があり

 

それは尊重すべきであり、正しい間違いの議論に意味がなく、個人の価値観で正邪のバイアスを付けるべきでもない。

 

明らかな間違いはあるが、正解がないところに人間の知恵が生きる。

 

それでも仏の智慧に至ることはない、とこの三毒五悪段の直前には漢文、梵文ともに記されている。