昔から言われているように、仏教は道徳とちがう。

 

それは道徳を排除することではないし、何らのコンフリクトもない。

 

人に優しく、救いの手を差し伸べ、柔和に接し、きちんとした言葉遣いで、

 

思いやりを持ち、尽くし、助け、力付け、励まし、共に喜び、共に泣き、

 

どれもこれも仏教は否定していない。だが、これらは仏教ではない。

 

道徳に満たされた人物になるのに、仏教である必要がない。

 

これが、気付けていなかった。

 

これらは、大切なことであっても限定された間柄、特定の相手、

 

偏った絆であり、全方向への個人のスタンスではない。

 

あなたが人徳者になりなさい、あなたが救済者になりなさいというのではない。

 

わたしがあなたを救うのです、という仏教者がいるなら、仏教でなくていい。

 

教祖様とか、お大尽様とか、そういう人たちなのだろう。

 

わたしに泣きついてきなさい、わたしは優しい、わたしは悲しみを引き受ける、

 

これは極めて人道、道徳的な人間の器ではあっても、違うのだ。

 

人は人に帰命できない。

 

わたしは仏につながっているから、わたしを通じて仏につながりなさい、というのも違う。

 

仏教は、それぞれ個人が仏に出会うことなのだ、「たていと」とタイプすれば「経」という漢字に変換されるように、

 

仏は縦に繋がる、横にいる人に繋がるのは、絆なのだ。絆は人間社会で生きる上で必要だ。

 

たての糸は個々人がつながっておかねばならない大いなる存在、人は親さまと呼び、阿弥陀と呼ぶ。

 

仏教をして人徳者になりましょうというのは、すでに外道とされる。

 

人徳者になるなら仏教をしなくても、多くそういう人々はいる。

 

ならその縦の糸は、他の宗教でいう神様と同じなのかといえば、同じ信仰だとひとまとめに括れても、

 

全く違う。仏という果位の存在が、因位であるこのわたしにはたらきかける

 

そしてその因位であるわたしが至る果位というのがあるということ。それはオフからオンになる

 

というようなデジタルなことではない、常に連続している。果位の自我のない純粋未来から

 

投げかけられている糸なのだということになる。