日曜礼拝のご法話を聴聞して、思わされた。

 

介護、うつ病、壮絶な人生を生きる人がいる。思わされるのは、

 

自分には、誰の真似もできない。小学校に入りたての子供を轢き殺された親、

 

業務上過失致死を起こしたドライバー、自分には無理だ。

 

逆に、誰も自分と同じ人生を生きることはできない。

 

一人ひとり違う、というよりも、自分だけが自分史を生きている。代わりなどいない。

 

その壮絶な人生というのを、少しでも救う、意義あるものにする、成功させる、

 

そういうのは、仏教でなくていい。いやむしろ仏教でなんとかなることなど一つもない。

 

たとえば、大成功した有名人がいて、わたしの座右の銘はこれなのだ、と言われて

 

それを聞いて同じ成功をする人はいない。

 

わたしの成功はこういうふうに物事を考えたからだ、心構えはこうだったのだ、

 

こういうのも、何の足しにもならない。その時の「なるほど!」で終わる。

 

そういう手に入れれば変わる的な思考は、旧軍隊が大戦艦や新兵器があれば国防ができると

 

妄想したようなことと同じ。

 

そういうハコ的な仏教を理解したとしても、身につけたとしても、意味はない。

 

そもそも仏教でなくてはならないなら、歴史上世界各国で何百億人が仏教に触れずに生きてこれたのだ。

 

そういう意味での、魔法的なものなどあり得ることではない。

 

坊主の商売アガったりではないか、と言えばそうだろう。マストな宗教などあるなら

 

無宗教は不幸になる、地獄に行く的な、そういうことになっている論に過ぎない。

 

仏教に触れる、何かのスイッチが入る、そしてその瞬間に未来がオートマチックに切り替わる

 

そういった思い込みは何ももたらさない。請け売りするだけ人に迷惑な話だろう。

 

人間を大量規格品のように捉えることはできない、それでいて厳然と人間には一流と三流のような

 

違いは起こりうる。だから親は子供に教育やスポーツの機会を与えて将来の役に立てようとする。

 

仏教をしようが、何教をしようが、残念ながら人間を続けてゆくのは変わらない。

 

そして自分自身を続けざるを得ない。菩薩になるとか、浄土のパスポートが得られるとか

 

そういうあやかりより、自分を人間をしっかり歩んでゆくことがあって、初めて仏教が意味を持つ。

 

それも人による。仏教でなくてもいいことだ。

 

自分の場合だけだ。万人が同じだと思えない。だから浄土真宗がナンバーワンとも思わないし、

 

他の宗教がより優れているということもない。自分には一番なのだ、でいい。誰も自分を代われない。