無量寿経巻下を読経中、浮かんだ。

 

「因位の自覚を持ちなさい」

 

因位とか果位というのは、仏の世界で他人事のように、そうなのですかで聞くなと。

 

たとえ5年先のことであっても、その時の自分自身を真剣に思って見なさい。

 

あなたは、5年後どうなっているのか、何をしておるのか、その時何が必要なのか、

 

その必要なものは、今から仕込まないといけないのではないか。

 

真剣に考えよ、というが、考えてなかった。なるようになるスタンスで生きてこれたから。

 

因位は今、果位は未来、という時間軸がある。

 

法蔵の誓願は未来の果位のビジュアライズであったと言える。

 

自分の誓願に耳をすませ、果位をイメージングせよ、あなたの五年後、

 

そして十年後、さらにその先、またさらにその先、あなたの果位がそこにある。

 

羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶

行きなさい、行きなさい、その先へ、さらにその先へ、完全なるその先へ、証(さとり)に幸あれかし。

 

果位は仏である。だから仏の道である、と。

 

不思議なもので、果の状態を目的化するのではない。誓願は目的ではない。

 

果位は必ずある。誰にもある。死んだら終わりの果位ではない。

 

果遂の願は、救い遂げずにはおかないという如来の願。

 

アカの他人の願いではなく、未来からもたらされる願い。

 

はるかな願は、未来の果位にかなうならば、そこに立てという。

 

自分の果位など、まるで真剣に思ってもいなかった。