人智を超えたところに仏智がある。

 

説明ができることではない。

 

釈迦が覚者となって人に法を説いたが、

 

例えば、お経の内容を見るに、後年の加上があるにせよ、釈迦以前の多くの仏陀の話、

 

人類史を遥かに超える時間、億の桁では追いつかない仏や菩薩の数、

 

地球サイズを超えた空間表現や不可思議な情景、これらは覚りのプロセスによって

 

知ることができたことなら、一体彼はアカシックレコードを見てきたのか、

 

と思わされる。宇宙のどこかにそういう書庫があるわけではなく、

 

意識がアクセスできた別次元の情報とでもいうべきものか。

 

覚りに至らない人間が、それを聞いたところで何の話か分からないだろう。

 

そのまま素直にそういうことか、で終わってしまう。人間にとってそれは知識でしかない。

 

では、わたしも頑張って覚ろうとすら思えない。

 

その不可解なお経を読み解き、高僧たちがアビダルマを残したが、

 

異世界の存在はそのままに、それを前提として世界観がさらに広がり、

 

大乗仏教が生まれ、浄土教が生まれ、真宗に枝分かれして、この自分に届く。

 

釈迦が生きた時代からは数えられないほどな遠い昔の物語に登場する阿弥陀如来を

 

日々念仏する。浄土三部経をさかのぼれば釈迦の覚りに至り、

 

その覚りは、はるか別次元のものがたりとして経典に残されているのか。

 

現代では、そういうものだ、そうなっているのだ、ということして信じるという。

 

そういうことにする、というまるで科学的なアプローチではあり得ないロジックを踏んでいる。

 

よくよく思えば、そういうことにする、と言っていないのは覚者である釈迦のみではないか。

 

その後の仏教は、釈迦がそう言ったから、そういうことにする、というような釈迦教にはなっていない。

 

同じことで、親鸞がそう言ったから、そういうことにする、という親鸞教にもなっていない。

 

教えを通じて、自分の中に何ができあがるのか、それをして仏教なのだろうか。

 

誰かの思考回路のコピーができればいいことではない。その真逆なのだ。

 

教えをいただく、というのは盲信ではなく確信にならねばならない。

 

それは言葉で表せることなのだ、という方が無理がある。