繰り返し、くりかえし現れる「あさましい」という言葉。

 

現代でも、あらゆるところで見聞きする。教義のことではなく人間性なのだ。

 

歎異抄の十八条、

 

まことに、われもひともそらごとをのみもうしあいそうろうなかに、ひとついたましきことのそうろうなり。そのゆえは、念仏もうすについて、信心のおもむきをも、たがいに問答し、ひとにもいいきかするとき、ひとのくちをふさぎ、相論をたたかいかたんがために、まったくおおせにてなきことをも、おおせとのみもうすこと、あさましく、なげき存じそうろうなり。このむねを、よくよくおもいとき、こころえらるべきことにそうろうなり。

 

御文第一帖

 

ちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第、もってのほか相違す。そのゆえは、門徒のかたよりものをとるを、よき弟子といい、これを信心のひとといえり。これおおきなるあやまりなり。また弟子は、坊主にものをだにもおおくまいらせば、わがちからかなわずとも、坊主のちからにてたすかるべきようにおもえり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあいだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。

 

長い間、人間を見てきて思うのは、この「あさましい」タイプの人間は

 

自分が真面(まとも)で賢いという空気を出している。もちろん、人間を見極める能力は必要だろうし

 

明らかな間違いを嗅ぎ分けられねば、ろくな目に合わない。宗教被害など、その典型に見える。

 

世界を救う、人類を救済する、そんなことを言う前に、自分の生活や仕事をしっかりすべきだろう思う。

 

ある人の言葉が妙に刺さる。「人と人はつながっていない。人は仏とつながっているだけ。」

 

究極だな、と思う。一時的には人同士つながっておらねばならないし、そこが絆とか言われる美徳だが、

 

本当のところ、人は人に帰命することはない。

 

自分が正しいかどうかなど、どうでもいい。

 

先の歎異抄の一節の前には、切れ味のいい言葉でこうある。

 

聖人のおおせには、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわこと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」とこそおおせはそうらいしか。

 

正しいも何も、自分が決めることかと思う。他人をどうこう言う前に、自分がどこに出ても信用されうる人間なのか

 

と言うことなのだろう。群れる必要などないし、同質性の集団が本質などではない、

 

仏教者は孤独たれと言われる。

 

念仏者が仏道を歩んでいるからご同行と云われる。

 

横からあなたも加わりなさいと引っ張ることをして「あさましい」と申される。

 

「自然」というは、「自」はおのずからという。行者のはからいにあらず。しからしむということばなり。「然」というは、しからしむということば、行者のはからいにあらず。如来のちかいにてあるがゆえに。「法爾」というは、この如来のおんちかいなるがゆえに、しからしむるを「法爾」という。法爾は、このおんちかいなりけるゆえに、すべて行者のはからいのなきをもって、この法のとくのゆえに、しからしむというなり。すべて、人のはじめてはからわざるなり。このゆえに、「他力には義なきを義とす」としるべしとなり。「自然」というは、もとよりしからしむということばなり。(末燈鈔)