無量寿経の最後あたりに慈氏(弥勒)が釈迦に尋ねるシーンがある。

 

阿弥陀仏の浄土で、他の仏国土から生まれてきた者たちを見たという。

 

蓮華の蕚(うてな)に跏趺(かふ)坐した(足を組んで座った)姿で現れるものがおり、

 

また他の者たち(神々や天人)は、その広大な蕚にとどまって住んでいるものがいる。

 

どうしてでしょうか、という問いに釈迦は、

 

仏智を信じていたか疑いを持っていたかの違いで、それぞれの生まれ方が変わると説いた。

 

康僧鎧訳の無量寿経(巻下)では、それぞれ化生と胎生と表現され、

 

「七宝華中 自然化生」とあるのが、蓮華往生であり、

 

胎生は辺地往生として以後五百年、三宝に触れることができないという。

 

昔の人々は、これを御伽噺と受け取らず、自分こそは結跏趺坐で蓮台に生まれたいと

 

思っただろうか。

 

同じように生き、善根を植え人間の責任を全うしても尚、深層のところで信が問われる。

 

よし頑張って信じよう、疑わないようにしようという心掛けのことではない。

 

そういう外側の何かをどうこうすることではないらしい。

 

ここでも結果の目的化、「そしてそのためには」となり、結果と手段が入れ替わる。

 

手段の目的化が人を本質から遠ざける。こういう形骸化は現代でも数多く見て取れる。

 

死んだら終わり。当たり前なのだ。この世での生は終わる。

 

いや、死んでも霊魂になっていい生活をしたいのだという方が滑稽だ。

 

死んだんでしょ、生活あると思うんですか、頭大丈夫ですか?と嗤われて意固地になるか。

 

いや釈迦の言った通り、浄土の蓮台に座して自ら化生したいのだと希望するのか。

 

その時点で、迷いの世界、流転の世界に入り込んでいるように思う。

 

浄土の特等席に生まれるための手段として念仏をしているのですね、と問われれば

 

明らかに違っている。念仏を往生の手段や祈祷の手段として持っていない。

 

理屈ではなく、手段のために続けて行く気力がもてない。損得勘定も魂胆も持ち得ない。

 

念仏者は、ただ念仏する存在。私が念仏しているのではない、念仏している存在が私であるに過ぎない。

 

念仏せねばでもない、念仏したいからでもない。

 

寝ても覚めても念仏する生き物がいる、夢でも念仏している。ああそれは私であった

 

ぐらいなことで、だから何なのだでいい。誰も褒めることではなく、仏が認めてくれることでもない。

 

きっと、初めは自分が南無阿弥陀仏を唱えていたことに違いない。

 

続けて行くうちに、逆転現象が起きる。念仏があって自分なのだとなってくる。

 

マインドコントロールなのか、といえば他者が操作する何もない。

 

煩悩が消え去ることもなく、聖人のようになることもない。

 

感覚としてはレジリエンスがまるで違ってきたと言える。

 

この世のあらゆる波風はどうしようもないが、自分のレジリエンスが絶対ならば

 

生きて行ける。それは明らかに自力のものではない。個の私は今も不安定なものだ。

 

何かをするようになったら自分が変わったというようなことなら、それを手段にするだろう。

 

まるでそうでない。念仏は条件にならない。無条件と言える。

 

絶対の道理があるなら、それに逆らわない。力学の基本である。

 

自我が良くなることはない。自我がなくなるのだから。

 

念仏でパワーアップした強化人間になれることはない。

 

圧倒的な光の前には、とことん自我がなくなってゆく。影がなくなり無碍となる。

 

この世を超えた秩序があるなら、それを知ることはない。そこまでの頭脳も感覚もない。

 

秩序にあらがえば、ひっくり返ることだけは知っている。そんなことは仏教でなくても真理なのだ。

 

念仏しなければならないのか、というなら何かのための念仏なら空振りで終わる。

 

自我がする念仏であるうちは、何にもなっていない。

 

そういう自我が極めて不安定なのだから。

 

なら念仏はアンカー(碇)ですか、というならそれもまた手段となる。

 

念仏しても苦しみを味わうし、老病死は確実にやってくる。現実は変わらない。

 

弱い自分なのだな、というなら弱いのが人間なのだ。生命なのだ。

 

そして脳という精密機械を持ちえた人間だけがもつ独特の識が、自らを苦しめる。

 

識が生む苦悩は、識でしか救えない。識はなくせない。

 

念仏がその特効薬となるのかといえば、即効性はないと言える。

 

念仏でなくても良いのだろうが、自分の場合は南無阿弥陀仏が身に染みついた。

 

だから救われた、と言うこともないし、そんな日は来なくてもだから何だ。そういうものだ。

 

こういう方法で救われたという人がいるなら、そっちの方が怪しい。

 

自我が救われたかどうかという尺度があるのか。自分だけ救われたらアガりなのか。

 

いい生活ができている、幸福で満たされている、そういう一時的なことで救われたという方が安っぽい。

 

方法論なら念仏でなくていい。

 

念仏をする存在が今日もまた一日生かされている。