三帖和讃浄土にある「現世利益和讃」15首には、

 

「南無阿弥陀仏をとなうれば」が10回現れる。

 

これに続く言葉に、神、鬼、龍、天、王、祇などが登場する。

 

不思議なことだが、親鸞はこれらの存在を意識していたのだなと思わされる。

 

そして現世利益という言葉は、南無阿弥陀仏と「となえれば」の前提条件で

 

死後ではないこの世での自分への利益になるということではない。

 

そもそも「となえれば」という仮定文にはなっていない。

 

「となうれば」というのは確定文であり、「唱えるということは即ち常に」という意味になる。

 

念仏したら神々が守ってくれるという利益があるのだ、という意味にはならず

 

本当に阿弥陀仏に南無できるようになったとき、

 

念仏が、阿弥陀仏の世界の生命に立ち戻らせてくれる。

 

すでにそれだけで阿弥陀仏のご利益をいただいている、

 

現世にあるこれら諸神が「よるひるつねにまもるなり」という存在になってくれている

 

超常的な存在に心配することもないし、自力で祈祷することもない、

 

阿弥陀仏の利益、絶対他力に護られる安心の存在になっているという。

 

それは念仏の力でオートマチックに護れられるという条件としての念仏ではない。

 

自分にとってのお念仏がそうなっていることを感じられることが大切なのだ、と。

 

世の中で、実は人ほど怖いものはない。自分の生活、生きがい、収入、将来、それらが

 

依存せねばならない対象が人間なのであっても、その人間に帰依していまいか。

 

現世の存在に帰依して、真の安心につながるのか。

 

人だけではない、超常的な存在に畏怖して心が軽くなるのか。

 

法然や親鸞が迫害にあったときの念仏は、なんとかしてくださいという念仏だったろうか。

 

850年以上も後に生きる現代人は知っている。彼らが守りたかったことは津々浦々の子孫に伝わっていった。

 

絶対の帰依があったからこそ、頭脳がフル回転し、人間としてのレジリエンス(復元力)が最高になる。

 

何があったとて、ちゃんとなるようになる。

 

個人の信念ではない、そうなっているのだ、そうなって行くのだというのが

 

「南無阿弥陀仏をとなうれば」に込められている現世に映る絶対世界と思えてくる。