昔から大乗非仏説と言われ、さらに浄土教はその最たるもので、

 

浄土とか他力とかいうことは加上(後付け)に過ぎず、釈迦が語ったことではない

 

江戸時代の富永仲基をはじめ、現代でもそう言われていて「ごもっとも」なのだが、

 

釈迦が語っていないことをありがたがるな、というならそれは違う。自分の場合においては。

 

そもそも、人の真意を正確に伝えることは不可能と言える。

 

それは2500年前の釈迦を動画撮影できたとしても、コンテキストを理解できないまま、

 

言語だけをなぞって真意を捉えられるかと言えば、無理なことなのだ。

 

従い、厳密な意味での仏説というのは大乗に限らず存在し得ない。

 

なら不正確にサンスクリット文に記録され、誤訳され、さまざまな勝手な解釈で伝わった

 

のを釈迦の教えとして仏教と呼び、ありがたがるのかといえばそれはそれで曲解になる。

 

仏教は、釈迦教ではない。浄土教も法然教や親鸞教ではない。

 

そもそも釈迦以前に生きていた人間たちは、

 

教えのないなかで生きていたから悟りも救いもない世界で無意味に生きていたのかとなってしまう。

 

親鸞は、自らを諸仏の弟子と書き留めている。

 

釈迦というスーパースターがイエス・キリストの如く存在して、その真意を

 

あらゆる人間が自己の思考に複写してゆかねばならないのだ、というのが宗教ならば

 

それは確かに破綻した考えと言える。

 

釈迦以前にも、民俗信仰はあり道徳や正しい人間の生き方という社会通念もあった。

 

仏教では釈迦に至る如来が数多伝わる。釈迦の後も如来とタイトルのつく人間はいないが、

 

高僧をはじめ、多くの秀逸な仏教者が世に出て教えを繋いできた。

 

教えを受け継ぐというのは、請け売りでもコピーでもない。腑に落ちないことは人に伝わらない。

 

知識だけの伝承ならば、それは発展、劣化、偏向など形を変えてゆく。

 

釈迦に始まり、その後の多くの流れの中であらゆる体系化された教えがあり、

 

そこから最上のものを選択すればいいと言っても、そんなこと出来るだろうか。

 

デパートに並べてある商品展示のように、好きなものを選ぶこととは違うのではないか。

 

分派した仏教の中で、それぞれに違いはあろうしそれが個人に影響を与えうるが、

 

人間の頭脳に刷り込みさえすれば良い、という教えではないはず。

 

そもそも教えというモノがあるのか。自分が得るところがあって初めて教えになってくるのではないか。

 

現代人からしたら、伝統仏教と言われる様々な宗派の儀式や作法や教義の全てに合理性を見出せないが、

 

アーキテクチャ不在の合理性だけを追求してゆけば、そこには感性も、美も、格式もない世界となってしまう。

 

優れたアーキテクチャは、あらゆる変化を許容しつつも未来に渡り法則性を保全する。

 

仏教はそう流れていると思うし、釈迦は偉大なアーキテクトという見方もできる。

 

釈迦の敷いた法則構造の上に、優秀な建築家が秩序ある様式美で建立し続け、

 

一つの空間として調和して機能している精神世界、自分にとってはそれを仏教と呼んでいるだけ。

 

それを公式には仏教と呼んではいけないなら、自分の頭脳の中に閉じておけばいい。

 

そこそも、仏教という誰もが全体像を把握でき、人がいてもいなくても機能しているようなボックスなどはない。

 

人体に作用する薬があったとして、正しく投薬するのは医師と患者の責任なのだ。

 

問題は、作用しない薬があるのか、処方を間違える医師がいるか、正しく投薬する患者がいるのか、なのだ。

 

まじないで治癒しませんよ、危ない薬がありますよ、治療には正しい方法がありますよ、と言った古代の知恵があったなら

 

古代のオリジナルが正しいかどうかよりも、その後多くの時代にあった頭脳がどのように発展させて行ったかの方が、

 

かなり大切なことになってくる。

 

いづれにしても、そういう教えというのはモノではないし。自分がどう摂取するかにかかっている。