母がたおれて以来、意識があるように目は動いているが

 

身体はもちろん声も出せない。

 

何もいいこともない、いつまで続くのか分からないこんな時間に価値などあるのか

 

自分がその立場ならそう思う。

 

自分の身体は、自分のもので自分の思い通りになるべきものと思っていたが、

 

もう生きる意味が無いと思っていても、生命は生き続けようとする

 

もういいよ、楽にしてくれ。これから先、苦しみしかないのは耐えられない。

 

そう思っても、どうにもならない。

 

いくら無価値と分かっていても生命の灯は、心臓が停止するまで続いてゆく。

 

生命に付き合わされるかのように。

 

気付くことがある。自分のものと思っていたが、そうではなかった。

 

自分の命で、自分でどうにでもできるはずの生命が、

 

無価値になったのだと言ってもどうにもならない。

 

当たり前だ。無価値とか無意味と言っているのは自我であって、生命ではない。

 

母は、生命の灯が消えるまで、動かない身体をベッドに横たえる。

 

たまの訪問者と、ケアの人が行き来しても、ずっと閉じ込められているように見える。

 

何を思われるのかも分からない。励ます言葉も見当たらない。

 

自室で好きだった音楽をかけて、肩を揉んだりしてあの頃すらまだ恵まれていた。

 

価値があるもないも、意味があるもないも、生命の前では理屈に過ぎない。

 

食事もチューブで胃に流し込まれ、排泄も思い通りにならない。

 

生命が続く限り、何も戻って来ることはない。

 

生命との別れが来るとき、その時を待つようになるものだろうか。

 

つらそうで可哀想だね、お浄土に行けますね、頑張ってね、何の言葉も当てはまらない。

 

分かっているのは、生命の灯が消え入ろうとしていることだけ。

 

自分の番が来る前に、こうなるんよというように母が見せてくれている。

 

生命を想うとき、本当はそこが終わりではなくて、そこが始まりなのかもね。