吉川英治「宮本武蔵」地の巻に光明蔵という章があった。
姫路城の開かずの間に三年間幽閉される身となった武蔵に、
沢庵房が言い残した言葉、和漢の書籍だけはいくらでもある、
この仄暗い一室を暗黒蔵とするか、光明蔵とするか自分次第と。
何をして光明とするかは、先達の残した叡智をして自らの中に
光が灯るかという光景を想像していた若い自分がいた。
どれだけ栄達した英才の先達があったとしても、その人になることが光明ではない。
どれだけお釈迦様が偉くても、お釈迦様になるのは光明ではない。
如来がどれだけ衆生を照らそうとも、如来に認められることが光明でもない。
凄いことの凄さに気づいて、無心に取り組んでゆくことしかないと思う。
私心なく、自我なく、無私無心に本質を追求してゆく。
未来のため、世界のため、人々のため、何かのためがあるうちは無心でない。
光明は、手段も目的もないところに生まれてくる。
日々、三帰依文で「深く経蔵に入りて智慧海の如くならん」と口にしているが、
昔のように経蔵に入ることはなくとも、人には無心に取り組めることがあって光明に出会えることがある。
経蔵に入る手段でもなければ、智慧海の如くなる目的でもない。
仕事においては、家族のため、認められるため、達成するため、と目標と目的は明確だが、
仏道にAS-ISとTO-BEの間を埋める作業をすればいいということはない。
悟るためだ、救済するためだ、仏様に認められるためだ、という下心が実に怖い。
ダメなやつがいるのではない、ダメなやつと決めつけたい自我があるだけだ。
戦争は悪だという。戦争という善悪の実体があるのではなく、それをする人間がいるだけで
そういう人間に権力を持たせた衆愚があったのだ。人が死ぬのが悪なら地震も病気も悪になる。
自我の心得違いを正すのも光明であろうし、本質を見据えるのも光明と言える。
光明というのは、この世限りのものごとだけ、我が身の上だけのことに留まらない。